第9話 お花見・たまご・リスタート(中編)
前編からの続きです。
☀☀☀
名知大学でお花見スポットと言えば、大講堂前に広がっている芝生だろう。
学生だけではなく市民にも開放された憩いの場だ。
そこと大学のメインストリートの境界線には、サクラの木が並んでおり、毎年春になると多くのサークルが新歓コンパの会場として利用していた。
氷彗の用意したであろうブルーシートも、その定位置に敷かれていたが、時刻は真夜中。
当然、他に花見客など一人もいなかった。
「どうぞ、上がってください」
「お、お邪魔します」
他人の家に上がるような返事とともに、うららは靴を脱いでブルーシートに足を踏み入れた。
一角ではLEDのランタンが灯っており、辺りを明るく照らしている。
頭上を覆うサクラの枝には、もうほとんどピンク色は残っておらず、瑞々しい葉桜の緑が次に来る季節を主張していた。
うららがサクラを見上げていたら、隣からカチャカチャと音が鳴った。
視線を傾けると、氷彗がリュックの中から見慣れない道具を取り出していた。
「それは何?」
「これですか? キャンプ用の調理器具セットです!」
得意げに氷彗が鍋の蓋を取ると、そこからマトリョシカのように、皿やコンロが現れる。
「こっちの大学院に進学したお祝いに、贈られた物なんですけど、使うタイミングがなくて」
そこでうららは、荷物の中に弁当箱やバスケットなど、料理を入れているものがないことに気が付いた。
「え? じゃあ、ここでこれから料理するの?」
「はい! 出来立ての方がきっとおいしいはずですから」
それはもう花見じゃなくて、キャンプなのでは……
頭にそんな疑問が浮かんだが、氷彗は大まじめに頷いている。
それが可笑しくて、うららはクスリと笑みをこぼした。
「やっと……笑ってくれました」
氷彗は安心したように、柔らかくそう指摘した。
恥ずかしくなったうららは、とっさに顔を背けて話題を変えようとする。
「今日の鳥見川さんは、何だか料理する前から積極的だね」
「それは……積極的にだってなります」
瞬間――
それまでの明るさが反転したかのように、淡い声が鼓膜を揺さぶった。
違和感を覚えて視線を戻すと、氷彗の表情は悲しみを濃縮したみたいに、くしゃりと歪んでいた。
「だって、大切な塔山さんが……うららさんが、元気ないんですから!」
はきはきとしていた口調は、張りぼてが倒れるみたいに消え去り、うららはようやく彼女が虚勢を張っていたのだと分かった。
「でも、こんな時にどうすればいいのか、分からなくて……私には、料理することしかできないから、それで」
氷彗の口から溢れ出した感情の奔流を受け止めると、体全体に温かいものが流れ込んでくる。
こちらを見つめる黒い双眸は、夜の湖面みたいに潤んでいて、今にも泣きだしてしまいそうだ。
そして、そこに映るうららも同じ表情だった。
あぁ、そっか……
氷彗の存在が、自分の中で大きくなっていたように……
自分の存在も、氷彗の中で大きくなっていたのだ。
そう思うと、自然と素直な気持ちが喉を通って出てきた。
「ごめんね、心配かけて……ひどいこと言っちゃって。それと、ありがとう」
言葉だけじゃ物足りず、ぽんと手を氷彗の頭に添えた。初めて触れた彼女の髪は、シルクみたいにサラサラとしていた。
流れた手の平が、小さな肩口へと至り、そっと掴む。
そのまま見つめ合っていると、時間が止まったみたいな感覚に陥る。
今なら、氷彗にどんなことでも伝えられそうな気がした。
せりあがった感情が、のどを震わせる瞬間――
ぐぅ~~っと、ムードを爆撃するように、腹の虫が鳴った。
「あ、安心したらお腹減っちゃった」
自分で弁明しておきながら、うららは吹き出してしまった。
氷彗もつられて笑いだす。
「今日は何を作るの?」
「とろとろのポーチドエッグを使った、エッグベネディクトです!」
☀☀☀
「まず、鍋に水を入れたら沸騰直前まで温めます」
夜の闇に、ぼうっとガスコンロが灯った。
普段、何気なくキッチンで見ている青とオレンジの炎だが、ここでは幻想的に思えた。
「小さな気泡が現れたら、この中に塩を振りかけていきます」
熱湯に、白い粉をまぶすだけの行為。
だが、うららにはやっぱりその一挙一動が気になった。
「どうして塩? 味付け? でも、水に溶けたら意味ないよね……何で今するの?」
「気になりますかっ!?」
「うん!」
氷彗はパックから卵を二つ取り出すと、鍋の縁でコツンと割って、熱湯に投入した。
黄身を覆う無色透明な白身が、見る見るうちに白くなっていく。
「塩を加える理由は……白身を素早く固めさせるためです! 生卵が茹で卵になると固まる理由は知っていますか?」
「それは、タンパク質の熱凝固でしょ? 生卵の状態だと、タンパク質はぎゅっと小さく折り畳まっているけれど、そこに茹でたりして熱を加えると、タンパク質は暴れだしてその折り畳みがほどけちゃう。すると、ほどけたタンパク質どうしが、絡まり合って卵全体が固まるんだよね?」
「その通りです。でも白身のタンパク質は、ほどけただけではなかなか絡まり合ってくれません。それぞれがマイナスの電荷を持っているからです。マイナスどうしの物は、反発しあってしまいます」
そこまでの説明を聞いて、うららははっと閃いた。
「分かった! だから塩を入れるんだ! 塩は水に溶かすとプラス電荷のナトリウムイオンが電離するから、それが白身のマイナス電荷にくっついて、電荷を打ち消してくれる。すると、反発はなくなって絡まり合うことが出来る! ……どうかな?」
「大正解です!」
パチパチと、氷彗はこちらに拍手を送ってくれた。
そうこうしているうちに、白身はどんどん固まっていき、やがてぷるんとした弾力ある表面になった。
たったそれだけの変化だが、うららと氷彗は目に見えないミクロの世界を共有して、無邪気にはしゃいだ。
「イングリッシュマフィンにバターを塗ってハムとチーズを敷いたら、その上にできたてのポーチドエッグを乗せて……完成です!」
ふわふわのパンに覆い被さった、ピンクと黄色の薄い絨毯。そこに落とされた白い塊は、プリンのように震えて、艶やかにランタンの光を跳ね返した。
もう空腹は限界だ。
うららと氷彗は、手を合わせた。
「いただきます!」
バランスを崩さないように両手を添えて、そっとエッグベネディクトを口に運ぶ。
柔らかな白身に触れて、その滑らかさを感じた瞬間、プチッと弾ける感触が走る。すると、バターのような甘い香りが、とろみと熱を伴って口の中いっぱいに広がった。
その美味しさに感動して、うららは目をぎゅっと閉じ、肩を震わせた。
「美味しい!! プルップルの白身からトロトロの黄身が溢れ出してくる!! 温かいからかな? 香りもすごく感じるし、これは出来立てじゃないと出せないね!!」
氷彗はこちらの感想を聞くと、嬉しそうに微笑んだ。弓なりに反った唇の端に、黄色いものが残っている。
「あ……鳥見川さん、口の端にまだ黄身が付いてるよ」
「え? 本当ですか?」
「待ってて、取ってあげる」
「っ!?」
うららは人差し指で、薄桃色の外側をなぞるように、氷彗の唇を拭った。
そして、ペロリと唇に残った黄身を舐めとる。
子供っぽく扱われたことが恥ずかしいのか、氷彗はあわあわと口を開いて頬を真っ赤に染めていた。
そんな彼女を眺めながら、うららはエッグベネディクトの二口目を頬張る。
マフィンには、溢れ出した黄身がすっかり染み込んでおり、一口目とはまた違った味わいだ。そこにハムの塩味、チーズの香りが加わって、ポーチドエッグと美味しさのハーモニーを奏でる。
花より団子ということわざはその通りで、結局完食するまでに、うららは一度も桜を見上げることはなかった。
「ごちそうさまでした!」
夜桜が散っていく中、二人は満足そうに再び合掌した。
後編へ続きます。




