↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この人生、採点中  作者: 夜凪 灯
第二章 あなたは、誰の採点者ですか

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
124/124

Review50「先生を辞めた日」

先生を辞めた日のことを、男は今でも覚えている。


 職員室の机を片付けた。


 引き出しの奥から、使いかけの赤ペンが三本出てきた。


 生徒からもらった手紙が一通。


 そして、去年の三月に撮った集合写真が一枚。


 男は、それらを段ボール箱に入れた。


 最後に机の上を拭いた。


 それだけだった。


 誰かが泣いたわけでもない。


 盛大な送別会があったわけでもない。


 ただ、いつもと同じようにチャイムが鳴り、廊下から生徒たちの笑い声が聞こえた。


 男は、職員室を出る前に一度だけ振り返った。


 自分の席には、もう何もなかった。


「……終わったな」


 そう呟いた時。


 不思議と、悲しくはなかった。


 むしろ。


 少しだけ、肩が軽くなった。


 高瀬悠介。


 三十六歳。


 元教師。


 現在、無職。


 それが、今の自分だった。


     ◇


 午前七時十四分。


 窓の外には、二つの太陽が浮かんでいた。


 一つは白く。


 もう一つは、薄い青色をしている。


 男は、その奇妙な空を見上げながら、古い教室の窓を開けた。


 風が入ってくる。


 机が三十七個。


 椅子が三十七脚。


 黒板には、昨日の文字が残っていた。


『明日も来ていいですか』


 男は、チョークを手に取った。


 そして、その下に書き足した。


『もちろん』


「……よし」


 チョークを置く。


 振り返ると、教室の入り口に少年が立っていた。


「おはようございます」


「おう。おはよう」


 宮原蒼太だった。


 少年は、少し不思議そうに黒板を見た。


「……先生」


「ん?」


「それ、昨日も書いてましたよね」


「そうだっけ?」


「はい」


 男は、頭を掻いた。


「……歳かな」


「三十六歳でそれ言ったら怒られますよ」


「誰に?」


「三十七歳の人に」


「一歳しか違わねえじゃねえか」


 宮原が笑った。


 男も笑った。


 けれど、宮原はすぐに表情を曇らせた。


「……先生」


「どうした?」


「僕、帰った方がいいんでしょうか」


 男は、チョークの粉を払う手を止めた。


「……どうして?」


「向こうの先生たちが、探してくれてるから」


「うん」


「でも、こっちにも……」


 少年は、言葉を探した。


「……ここにも、僕の席があるから」


 男は、しばらく黙っていた。


 それから、近くの椅子に腰掛けた。


「蒼太」


「はい」


「帰りたい?」


 宮原は、すぐには答えなかった。


 窓の外を見た。


 二つの太陽。


 知らない空。


 誰も自分を採点しない教室。


「……分かりません」


「そっか」


「先生は、帰りたくないんですか?」


 男は、少し考えた。


「……俺は、帰る場所があるのか分からない」


 宮原が顔を上げる。


「え?」


「こっちに来る前、仕事辞めたんだ」


「……先生を?」


「うん」


「どうしてですか?」


 男は、苦笑した。


「難しい質問するなあ」


「すみません」


「謝らなくていい」


 男は、黒板を見つめた。


「……好きだったんだよ。先生って仕事」


「はい」


「でも、好きな仕事だからって、ずっと続けられるとは限らないだろ」


 宮原は、黙って聞いていた。


「辞めたら、今までの自分が全部なくなる気がしてた」


「……」


「でも、実際に辞めてみたらさ」


 男は、少し笑った。


「朝、ゆっくりコーヒー飲めるんだよ」


 宮原が目を丸くする。


「……それだけですか?」


「それだけって言うな。結構すごいぞ」


「……そうなんですか?」


「すごい。しかも、日曜日の夜に胃が痛くならない」


 宮原が、少し笑った。


 男も笑った。


「だから、辞めたこと自体は後悔してない」


「……じゃあ、どうして帰らないんですか?」


 男は、窓の外を見た。


「……それが、まだ分かんないんだよな」


 宮原は、しばらく考えた。


 そして。


「……先生」


「ん?」


「僕、帰らなくてもいいですか?」


 男は、少年を見た。


「それは、俺が決めることじゃないよ」


「……はい」


「ただ」


 男は、少しだけ声を柔らかくした。


「帰らないって決めるなら、向こうで心配してる人には伝えた方がいい」


 宮原は、俯いた。


「……怒られますかね」


「さあな」


「……先生だったら?」


 男は、笑った。


「めちゃくちゃ心配する」


「……ですよね」


「でも、怒る前に話を聞くかな」


 宮原は、ゆっくり顔を上げた。


「……そっか」


 そして、小さく呟いた。


「……それなら、話してみたいです」


 男は、頷いた。


「うん」


 窓の外で、二つの太陽がゆっくり昇っていた。


     ◇


 同じ日の午前八時二十二分。


 現実世界。


「……お前、何でそんな顔してんの?」


 桐谷が尋ねた。


 高瀬悠介は、食卓に突っ伏していた。


「……寝不足」


「昨日、何時に寝た?」


「二時」


「何してた?」


「考え事」


「何の?」


「俺が何人いるか」


 桐谷は、トーストを齧る手を止めた。


「……そりゃ寝れねえわ」


 向かいに座っていたもう一人の高瀬が笑った。


「俺も考えてた」


「お前もかよ!」


「三人目がいるなら、四人目もいるのかなって」


「やめろ! 俺の家、そんなに広くない!」


 桐谷が笑った。


「高瀬だけで町内会作れそうだな」


「絶対嫌だ!」


 三人の笑い声が響いた。


 けれど。


 高瀬は、ふとテーブルの端を見た。


 昨日、宮原から届いた手紙。


『こっちの先生は、学校に来ません』


『でも、毎朝、僕の席を用意してくれます』


 高瀬は、その紙を手に取った。


「……なあ」


 桐谷が顔を上げる。


「ん?」


「三人目の俺って、何で先生辞めたんだろうな」


 桐谷は、少し考えた。


「……さあな」


「お前、会ったんだろ?」


「会ったよ」


「聞かなかった?」


「聞いた」


 高瀬が身を乗り出す。


「何て?」


 桐谷は、少しだけ笑った。


「……疲れたからって」


 高瀬は、黙った。


 疲れたから。


 たった、それだけ。


 でも。


 それだけで十分な理由なのかもしれない。


「……そっか」


 高瀬は、紙を置いた。


 もう一人の高瀬が、静かに言った。


「……俺、ちょっと羨ましい」


 高瀬が顔を上げる。


「……何が?」


「自分で辞めたこと」


 男は、少しだけ笑った。


「俺は、選べなかったから」


 高瀬は、何も言えなかった。


 もう一人の高瀬は、教師としての居場所を失った。


 辞めたかったわけではない。


 辞めると決めたわけでもない。


 ただ、世界から選ばれなかった。


「……そっか」


 高瀬は、ゆっくり頷いた。


「……そうだよな」


 男は、少し笑った。


「だから、会ってみたい」


「……うん」


「どうして辞めたのか、聞いてみたい」


 高瀬は、頷いた。


「……俺も」


 桐谷が、マグカップを置いた。


「じゃあ、会いに行く方法を考えないとな」


 高瀬は、顔を上げた。


「……分かるのか?」


「いや」


「おい!」


「でも、手掛かりはある」


 桐谷は、スマートフォンを取り出した。


「……これ」


 画面には、去年十月の通話履歴が表示されていた。


『十月九日 午後十一時五十九分』


『通話時間 四分三十一秒』


 高瀬は、息を止めた。


「……これ」


「うん」


 桐谷が頷く。


「俺が戻ってきた時の電話じゃない」


 高瀬は、眉を寄せた。


「……え?」


「去年の電話だ」


 桐谷は、画面を見つめた。


「……あの日、俺は向こうにいた」


 高瀬は、黙った。


「電話が繋がった時、俺は知らない学校の廊下にいた」


 もう一人の高瀬が顔を上げる。


「……それで?」


「電話の向こうから、お前の声が聞こえた」


 高瀬は、息を呑んだ。


「……何て?」


 桐谷は、少しだけ目を伏せた。


「……帰ってこいって」


 高瀬は、黙った。


「俺、聞いたんだ」


『どこに帰ればいい?』


 桐谷は、ゆっくり続けた。


「そしたら、お前が言った」


『俺がいる方だよ』


 高瀬の胸が、強く鳴った。


 俺がいる方。


 その言葉。


 覚えていない。


 でも。


 なぜか、胸の奥が熱くなった。


「……それで、戻れたのか?」


 桐谷は、首を振った。


「……いや」


 高瀬が顔を上げる。


「……え?」


「戻れなかった」


 桐谷は、ゆっくり言った。


「電話が切れた後も、俺は向こうにいた」


 高瀬は、眉を寄せた。


「……じゃあ」


「戻れたのは、ずっと後だ」


 桐谷は、少しだけ笑った。


「……でも、あの電話がなかったら、帰る場所を忘れてたと思う」


 高瀬は、何も言えなかった。


 帰る場所。


 誰かが待っている場所。


 それが。


 桐谷にとっての出口だった。


 高瀬は、ゆっくり頷いた。


「……そっか」


 そして。


「……じゃあ、宮原にも」


 もう一人の高瀬が顔を上げる。


「……うん」


 高瀬は、紙片を見つめた。


「……帰る場所があるって、伝えよう」


 桐谷が、静かに頷いた。


「……ああ」


     ◇


 午後四時五十八分。


 旧校舎。


 高瀬は、藤原と真壁と一緒に教室へ入った。


 昨日と同じ机。


 同じ窓。


 同じ夕日。


 机には、『69』と『また明日』の文字が残っていた。


 高瀬は、一枚の便箋を置いた。


『宮原へ』


『帰る場所は、ちゃんとある』


『でも、今すぐ帰らなくてもいい』


『帰りたい時に、帰ってこい』


『先生たちは、待ってる』


 藤原が、静かに言った。


「……いいですね」


 高瀬は、少し笑った。


「……うん」


 真壁が、便箋を見た。


「……ただ」


「何?」


「これ、帰り道が分からないって話じゃなかったか?」


 高瀬は、固まった。


「……あ」


 藤原が、少し笑った。


「……確かに」


 真壁は、ため息をついた。


「気持ちだけじゃ帰れないだろ」


「……そうだな」


 高瀬は、便箋を見つめた。


 そして。


 もう一行、書き足した。


『帰り方が分からなかったら、教えてくれ』


『一緒に探そう』


 真壁が頷いた。


「……それならいい」


 高瀬は、笑った。


「厳しいな、お前」


「必要なことだ」


 藤原も笑った。


 高瀬は、便箋を机に置いた。


 そして。


 静かに待った。


 一分。


 二分。


 三分。


 紙は、動かなかった。


 高瀬は、時計を見た。


「……今日は駄目かな」


 真壁が言った。


「まだ分からない」


 藤原も頷いた。


「もう少し待ちましょう」


 高瀬は、頷いた。


 その時。


 窓の外で、チャイムが鳴った。


 キーンコーンカーンコーン。


 高瀬は、顔を上げた。


「……え?」


 藤原も、窓を見た。


「……今、チャイム?」


 真壁が、時計を見る。


「午後五時七分」


 高瀬は、眉を寄せた。


 この時間に、チャイムが鳴るはずがない。


 しかも。


 音が、少し違った。


 いつもの学校のチャイムより、低い。


 どこか遠くから響いているような。


 高瀬は、窓へ近付いた。


 外を見る。


 夕焼け。


 校庭。


 古い体育館。


 いつもと同じ景色。


 けれど。


 窓ガラスに映った景色は、違っていた。


 高瀬は、息を止めた。


 窓の向こうには、二つの太陽が浮かんでいた。


「……何だ、これ」


 藤原が、近付く。


「……高瀬先生?」


 高瀬は、窓ガラスを指差した。


「……見える?」


 藤原が、窓を見た。


 そして。


「……え?」


 真壁も、近付いた。


 三人は、窓ガラスに映る景色を見つめた。


 そこには。


 見知らぬ空が広がっていた。


 白い太陽。


 青い太陽。


 そして。


 その下に、古い校舎が見えた。


 高瀬は、ゆっくり息を吐いた。


「……別の世界」


 真壁が、静かに言った。


「……まだ、そう決めるな」


「……でも」


「見えているものが何なのか、確認する必要がある」


 藤原が、窓ガラスに手を伸ばした。


 その瞬間。


 ガラスの向こうで、誰かが動いた。


 三人が、息を止めた。


 教室。


 机。


 椅子。


 そして。


 黒板の前に、一人の男が立っていた。


 高瀬悠介。


 同じ顔。


 同じ背丈。


 けれど。


 服装が違う。


 スーツではなく、薄い灰色のシャツ。


 ネクタイもしていない。


 男は、黒板に何かを書いていた。


『明日も来ていいですか』


 その下。


『もちろん』


 高瀬は、動けなかった。


「……俺」


 藤原が、口元を押さえる。


「……三人目」


 真壁も、黙っていた。


 その時。


 窓の向こうの男が、こちらを向いた。


 目が合った。


 高瀬は、息を止めた。


 男は、少しだけ驚いた顔をした。


 そして。


 ゆっくり笑った。


 口が動いた。


 声は聞こえない。


 けれど。


 何と言ったのかは、分かった。


『……やっと来た』


 高瀬は、窓ガラスに手を伸ばした。


 その瞬間。


 スマートフォンが震えた。


【Review】


新規評価対象。


高瀬悠介。


職業:無職。


初回評価を開始します。


 高瀬は、息を止めた。


 次の表示。


【評価項目】


あなたは、教師を辞めた自分を

認めることができますか?


 高瀬は、画面を見つめた。


 そして。


 ゆっくり笑った。


「……当たり前だろ」


 窓の向こうの男が、少しだけ目を見開いた。


 高瀬は、続けた。


「教師を辞めたって、俺は俺だ」


 その瞬間。


 窓ガラスに、小さな亀裂が走った。


 ピシッ。


 藤原が、息を呑む。


「……高瀬先生!」


 真壁が、腕を掴んだ。


「離れろ!」


 高瀬は、一歩下がった。


 ガラスの亀裂が、ゆっくり広がっていく。


 そして。


 窓の向こうの男が、口を開いた。


 今度は、声が聞こえた。


「……違う」


 高瀬は、顔を上げた。


「……え?」


 男は、まっすぐ高瀬を見ていた。


「俺を認めてほしいんじゃない」


 高瀬は、息を止めた。


 男は、静かに続けた。


「……俺が、お前を認められるかどうかだ」


 高瀬は、動けなかった。


 そして。


 スマートフォンの画面が切り替わった。


【評価者】


高瀬悠介。


【評価対象】


高瀬悠介。


【評価開始】


 高瀬は、息を止めた。


 窓の向こうの男が、ゆっくり笑った。


「……久しぶりだな」


 そして。


「先生」


 その言葉と同時に。


 窓ガラスが、音もなく消えた。


 そこには。


 見知らぬ空へ続く、開いた窓だけが残されていた。


【End】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。