5 呪われたR
フランス語を始めて2日目。
フランス語で言い争いが出来るようになっていた。
「Non! Non! Noooooon!!!」
もちろん相手はアントワーヌ先生。
なぜか、彼は完成したローマ字表を持ち帰ろうとしている。
しかし、それは私が生きていくために、命を削って完成させた表だ。
そうやすやすと渡すことは出来ない。
唯一の武器「Non」。
それをブンブンと振り回し、紙に延びた手を押さえつけながら、必死に抵抗した。
結果は、引き分け。
先生が別の紙に、ローマ字表を写すことで、この争いは決着がついた。
危なかった。
お昼ごはんが終わってから、部屋に戻り、パタンと木目の美しい書き物机を開け、ローマ字表作成で見つけたルールを書き出していく。
鉛筆やボールペンとは違う、つけペンのなめらかな滑り心地が気持ちいい。
名前の長谷部を書いた時に薄々気づいていたが、Hは発音しないらしい。Hのついたハ行を発音してもらったら、ア行になっていた。
どうにか「アセべ」でなく「ハセベ」になりたいが一心で、しつこく尋ねたら、Raで「ハ」と言われた。
Raは「ラ」じゃなくて「ハ」?
ただし、その前に、うちのおじいちゃんが痰を吐くような音がつく。
全く優雅ではない上に、あの音を再現できる気がしない。
英語のRも厄介で、未だマスター出来ずにいるのに、フランス語のRも別の方向で難しいようだ。
Rって、呪われているんですか?
そして新たな文字を発見した。
「ç(セ・セディーユ)」
アルファベット表にはなかったし、「セ」で切っているから、Cのは成形らしい。ブタのシッポが生えていてカワイイ。勝手に「セーチョロ」と呼ぶことにした。
Çaは「サ」
Maïkaのïもだけど、フランス語には結構いろんなアルファベットの派生形があるようだ。
そこら辺も把握したいところだ。
そして明日のことを考える。
きちんと勉強するためには、先生に任せてはダメだ。
本人の好奇心だけが満たされていって、私のためにならない。
何を学びたいかをしっかり考えて、準備して臨まなくては。
「主体的に学習取り組む態度」
義務教育時代に何度も言われて、誰がそんなこと出来るんだよ、と綺麗事にうんざりしていた。
だけど、出来ました。
人生で初めて主体的に学んでます!
「ボンジュール」
「Non. Bonjour.」
「ボン...」
「Non. C’est bon. C'est BON. Pas de «o»«n». C’est «on».」
私は挨拶から一歩も前進出来ずにいた。
さっきから同じようなやり取りを2度3度とくり返ししている。
アントワーヌ先生は、今日は発音を直す気でいるらしい。
開口一番で、授業が始まった。
「BON」
「ボン」
「BON」
「ボン」
……
20回はくり返しただろうか。
ものまね芸人みたいにどんどん誇張していき、最終的にボイスパーカッションみたいに「ボン」といったら、クリアした。
そして次は、「ジュール」
これもなかなか合格しない。
「Pas de «e». C’est «ou». Ouuuuuuuuuuuuuu, comme le loup. 」
今度は遠吠え?
ちょっと恥ずかしいが、先生はいたって真面目顔だ。
素直にのってみることにした。
「Bon・Jouuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuur.」
先生は眉を寄せ、ビー玉をつまむように手を掲げる。
「Bon・Jouuuuuuuuuuuuuuuuuuuuuur.」
顎を上にあげ、もっと遠吠えっぽくしてみた。
「C’est très bien」
ボイパの「Bon」と遠吠えの「jour」
ようやく、授業開始の挨拶が終わった。
そして次に待ち構えていたのは、昨日すでにフラグが立っていたRの発音。
ありがとうのMerciだ。
十数回目のMerciは、最初の完全なカタカナ発音のメルシーと比べたら、大分よくなったはず。
だが、アントワーヌ先生は首を縦にふらない。
だが、私も予告があった以上、丸腰では来ていない。
私は「主体的に学ぶ生徒」。
半日かけて作戦を考えていたのだ。
プランA:はひふへほ作戦
「メフシー」
アントワーヌ先生の顔が曇った。
プランB:巻き舌作戦(出来ないけれど)
「メルゥシー」
彼は一瞬黙り、両手を小さく持ち上げて肩をすくめた。
肩をすくめたその顔は、「は?」とでも言いたげだった。
そして最後のプランC:うがい作戦
「メグゥゥゥゥシー」
Rのタイミングで上を向く。
うがいのように喉を鳴らしながら「ル」。
そして顔を戻して「シー」。
昨日歯磨きの時に思いついた作戦は、アクション芸並みの大げささだ。
「C’est ça!」
先生の顔が輝いた。
フランスゴ
ムズカシスギル
それからもYes Noの「Oui」「Non」、「S’il vous plaît」などの初歩中の初歩の単語の発音矯正が続いた。
後でつづりを見せてもらって気づいたことだが、 «ou»と«on»と«r»が今日の課題だったみたいだ。
急に見えたアントワーヌ教師の一面に驚いた。
授業がひと段落して、部屋の中を数歩しか歩いていないのに、スポーツをした後みたいな疲労感に襲われ、ヴェルサイユ宮殿にでも飾ってありそうな固いソファーに、思わず身を投げ出した。
残念ながら座り心地は思ったほどよくない。
座るたびにポコッと沈むソファーは、いったいどんな材質でできているのだろう。
いつもはここでパッと去っていくアントワーヌ先生が、めずらしく私に声をかけた。
呼びかけに応じて立ち上がると、挿絵入りの数字の表の前に呼ばれた。
一列が30や31で終わっていることから、多分半年分のカレンダーなのだろう。
これまで、カレンダーは1行7列で書かれるものだと思い込んでいた自分に気づいた。
「Vous êtes arrivée le 4 juillet. Aujourd’hui, c’est le 7 juillet.」
アントワーヌ先生はカレンダーの日付けを順番に指さしながら、ゆっくりと教えてくれた。
今日は7月7日らしい。
七夕...フランスではあまり聞かないけれど、ヴァルドールではどうなんだろう。
そういえば、パリは3月だったのに、7月だったのか。そこまで暑くなくて過ごしやすいな。
そんな、のんきなことを考えていた。
先生の話は続く。
「Et le 14 juillet, il y a une grande cérémonie de Valdore. 」
セレモニーという単語が聞こえた。
14日には国の式典があるようだ。
「Vous devez faire un discours au public. 」
よくわからなかったが、ジェスチャーから読み取る。
あなた、話す、皆に。
私がみんなの前で話す??
勘違いではない。
1週間後、私は公の場でスピーチをしなくてはいけない。
公開ギロチン処刑の通告。
頭が真っ白になった。




