3 鯖缶に感謝
「Vous êtes ?」
すると、アントワーヌは新しい地図を持ち出してきた。
見慣れない形の地図の上には、美しい装飾で地名らしきものが書かれている。
「バ、ル、ド、レ?」
「Non, c'est Valdore.」
「ヴァルドール?」
「Oui, nous ne sommes pas en France. Nous sommes en Valdore.」
フランスではない?
ヴァルドール国?
そうして現れた新たな可能性。
異世界への転移。
英語が全く通じないのも、日本を知らないのも納得。
そうなると私は−−。
またショートした。
そして気づけば、私はまたトイレにこもっていた。
原因は疑いようもなく夕食だ。
多分、フランスから来た客人をもてなすためだったのだろう。
アントワーヌにリードされて通された部屋には家族が勢ぞろいしていた。
食卓の中心を彩る花。
所狭しと並べられたグラスやナイフフォーク。
後ろに控える給仕さん。
ファンタジー世界のようなキラキラに感動した。
いや、みたいじゃない。
ファンタジー世界だった。
そしてフルコースの料理。
フルコースがどんなものか知らなかった。
フルマラソン並みのハードさだった。
食べても食べても次が出てくる。
終わりが見えない恐怖。
メインはお魚かと思って食べたら、次にステーキが出てきた絶望感。
おつまみ的なものから始まって、スープ、魚料理、肉料理、サラダ、そしてデザート。
私にとっては6食分。
それを一度に食べろというのだ。
極めつけはバターたっぷりの濃厚ソース。
魚にもソース、肉にもソース、サラダにもソース。
バターにこんな攻撃力があるなんて知らなかった。
フルコースを平然と食べるこの人たちの胃はどうなっているのだろう。
異世界だから身体の構造がちがうとか。
いっそ、そういう設定にしてほしい。
最後のデザートにたどり着いたころには、すっかりランナーズハイ。
クリームたっぷりのエクレアを、ぺろっと食べてしまった。
そして、今に至る――。
「Madame! Madame! Ça va? 」
扉の向こうから、ジョゼットの呼ぶ声が何度も聞こえる。
ひとまず収まったところで扉を開けると、
差し出されたのはスプーンにのせられた薬らしきもの。
ドロッとした深緑の液体。
表面の光沢が、油の存在を主張している。
バターを思い出し、またウッとくる。
胃にやさしそうでない。
「ノンメルシー。サヴァ。」
確か「大丈夫」みたいな意味だったはず。
朦朧とする中で何度も聞いていたら思い出した。
あのおしゃれな鯖缶だ。
ありがとう鯖缶。
人生どこで役に立つかわからない。
「Mais, non, madame ! Mais non!」
向こうもひかない。こっちも折れない。
「メ・ノン」の「メ」ってなんだろう。
必死の攻防の間にも気になる「メ」。
押し問答をしていると、そこにマキシミリアンがやってきた。
メイドの説明を聞きながら、冷たい視線がしっかりとこちらを捕えている。
「****」
命令だった。
多分、
「飲め」
そして私は折れた。
そして翌日から、私はアントワーヌからフランス語を教わることになった。
「Je suis Antoine. Vous êtes Maika.」
「私はアントワーヌ」で、「あなたは舞花」ってところかな。
つまり…
「Je suis Maika. Vous êtes Antoine.」
「C’est très bien.」
トレビアン!
これは、very good的な感じだ。
じゃあ、「セ」は?
「C’est ?」
「C’est une table. C’est une chaise. C’est un livre.」
机、椅子、本を指差しながら言っている。
ということは、「セ(C’est)」は、it’sですか。
紙と鉛筆がほしい。
けれど、何といえばいいのだろう。
いまだに C’est で部屋中のものを紹介し続けるアントワーヌを見つめながら、私は困ってしまった。
そのときだった。
「ストップ!」
思わず大きな声が出た。
ちょうどアントワーヌの C’est が、机の上の紙までたどり着いたのだ。
でも聞き取れなかった。
「C’est ?」
しょうがないから聞き返す。
「C’est une feuille」
聞き取れない。
もう一回。
......またもや聞き取れない。
紙なのに、なんて複雑な単語なんだ。
0.5倍速くらいになって、ようやく聞き取れた。
「フォイユ」
「Oui, c’est une feuille」
「Je, フォイユ」
自分を指差し、紙を指差し、書く真似をしてみせる。
アントワーヌが引き出しをあけて紙を出してきた。
成功だ!
そのまま、ペンを指差して「C’est ?」と尋ねてみる。
「C’est une plume.」
「Je、プルム」
そして同じような方法で手に入れた万年筆で、早速覚えたことをメモしようとした。
しかし、何も書けない。
ボールペンが出なかった時のように、手に試し書きをしようとしたら、アントワーヌに止められた。
どうやら、つけペンだったらしい。
インクをつけたら、どうにかかけた。
なんだか筆みたいだ。
スペルが分からないので、ひとまず日本語でさっき覚えた単語を書き留めておいた。
あとでちゃんとつづりを聞こう。
なんだか楽しくなってきた。




