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11 アントワーヌ先生の考察 文字編

フランス語の授業が終わった後、舞花に二つお願いをした。

ひとつ目は、前回写させてもらった、日本語の一覧表らしきものに文字を書いてもらうこと。


あの表は、フランス語のアルファベット表とは明らかに違っていた。


一列目以外は、すべて子音と母音の組み合わせになっている。

合計五十個。

子音は九種類。

母音は五種類。


これはアルファベットではない。

音節表だ。


五十個しか音節がないのならば、音声的には単純な言語だといえる。



舞花は迷いなく書き始めた。

つまりこの一覧表は彼女の社会では一般的なものなのだろう。


なぜか水平方向ではなく、垂直方向に進んでいく。


各音節には二種類の文字。

形は違うが、音は同じ。

つまり大文字と小文字の関係だ。


しかし、奇妙なことに各文字の難易度の差が激しい。

「あ」や「え」のように複雑なものもあれば、

「い」や「エ」のように極端に単純なものもある。




そして注目の二列目。

舞花は、一列目とは全く異なる文字を書き始めた。


つまり――

この表は音節表ではなく、アルファベット表であり、

文字が 五十の二倍で百個あるということなのか。



狂っている。



いや、訂正しよう。

フランス語が26文字なら、日本語は100文字。

少々文字数は多いが、体系としては理解できる。

文化の違いとしては許容範囲だろう。


ここは百しかない、と割り切るしかない。

バカンス中に習得しなければならないのだ。


でもやはり、百という文字数は圧巻である。

これほど多ければ識字率は低くなるはずだが、舞花は問題なく書いている。

やはり、彼女の教育レベルは高い。



そして二つ目の依頼に移った。


今回、舞花に提案した初級単語帳の作成は、もちろん彼女のためでもあるが、同時に我々アカデミーが日本語を学ぶための足がかりにもなる。そこで保管用として、同じ内容の本をもう一冊作り、日本語を書き写すことにした。



まず一ページ目。


Le chien 犬


先ほどのアルファベット表には存在しない文字である。

したがって、読み方も舞花に尋ねた。


「イ・ヌ」


脇に読み方をアルファベットで書き込もうとしたが、

二音節目の音が「nu」でも「ne」でもないため表記できない。


ひとまず


«i/nu» ou «i/ne»


と書いておく。

日本語とフランス語では、母音体系がここまで異なるのか。


次に、名詞の性を尋ねた。

記録によれば、フランス周辺の言語でも語によって性が異なる場合がある。


「Non.」


……無性?

男性形でも女性形でもないということなのだろうか。


最後に、文字について再び確認する。


「犬」はアルファベット表にない。

つまり表は完全ではない可能性がある。

分類作業を開始する。


大文字:ひらがな

小文字:カタカナ

「犬」:カンジ?


……カンジ?

第三の文字体系があるのか――。


しかも、一文字で複数音節を表す。

その場合、何文字存在するのか。



狂気。



その言葉が最もふさわしい。


文字数という制限を度外視した言語設計。

未だ全貌すら見えない日本語の表記体系。

だが、そこには合理性の片鱗も感じられる。


それを発見した喜び。

それを研究できるという喜び。

それを解き明かす日を想像する喜び。



底の見えぬ深い奈落の底を前に、胸が高鳴った。




二つ目の単語。


Le chat ねこ


これはひらがなで書かれていた。

確認すると、アルファベット表記どおり «néko» である。

こちらも性は存在しない。



三つ目の単語。


Le cheval 馬


発音は «ou/ma»。これも性はなし。


……これも漢字か。


犬より複雑だ。

模写してみるが、見本通りには書けない。

舞花に正しい見本を書いてもらう。


模倣困難な文字――。

絶妙な均衡の上に成立する形は、まるで彫刻のように美しい。



四つ目の単語。


Le cochon 豚


前言撤回だ。


馬の文字はシンプルで力強い。

豚の文字に比べれば。



疑問が残る。

なぜ「ねこ」にはカンジがないのだろうか。

舞花に尋ねると、「猫」と書いた



全ての動物にそれぞれカンジがあるのか。

だとすると数百――いや、数千はある可能性が高い。




私は筆を置いた。

頭の中に際限なく湧き出てくる疑問を整理しなければならない。


動物以外は?

形に規則性は?

ひらがなとカンジの違いは?

数や用途は?


未だ全貌は見えず、確認すべきことは無限にある。



まずは舞花のフランス語レベルを上げ、私の質問に答えられるようにすることが優先だ。

カンジは後回し。

まずはバカンス中に「ひらがな」と「カタカナ」を習得する。


それにしても、日本語は、これほどまでにフランス語と異なるとは。

研究する価値が十全にある。


第三の文字、カンジ――。


私はどうやら、言語の深淵の入口を見つけてしまったらしい。

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