第八章 祭と政(まつりごと)⑦
小隼人に替わって財政の立て直しを任ぜられた田村半右衛門は、外部から招聘された経済の専門家であった。
だが曰く付きの人物で、田村半右衛門というのは偽名で、実の名を大野群右衛門といい、播州赤穂浪士中、不忠不義の奸物として醜名天下に隠れなき、大野九郎兵衛の倅だという。
半右衛門は諸国を流浪して後江戸へと出た際、松代藩江戸留守居役小松一学と交わり、経済への学識を認められ、その縁故で真田家へと招かれることになった。
初め二十人扶持を給せられ番頭格であったのが、間もなく勝手掛に昇進して三百石を食む身となる。
推挙者小松一学が「経済老巧者」と評しただけあって、半右衛門の経済的才能には見るべきものがあったようである。
但し、半右衛門の才能は藩政にとって貴重なものである一方、家士からの評判はすこぶる悪く、達者な弁舌に似ずその実は奸智に長けた曲者という評価が大勢を占めた。
そのような評価に至ったのは、半右衛門が、藩内に聖域を作らず、譜代の家臣にも厳しい取り締まりの対象としたからである。
半右衛門が藩政改革として真っ先にしたことは、藩役人の素行調査を行い、汚職の有無を詳細に取り調べた後、汚職を働いた者に対しては、その弱点に付け入って御用金を申し付けたのである。
即ち、家老には七百両、郡奉行には三百両、その他重臣六名より二百両、十四人の代官に百両、八人の代官手代に対し三十六両を、「御納戸金欠乏し、殿様御難儀に付き献上すべし」と称して申し渡したと記録にはある。
また、松代城下の豪商八田嘉助には、六千両もの御用金を申し付けたというから、辣腕とも豪腕ともいうべきか。
この嘉助は、原小隼人と通じて応分の美味い汁を吸い続けてきたということで、結局金を差し出したのだという。
乱暴とも言える半右衛門の取り締まりは、当然の如く松代城下だけに留まらなかった。
その魔の手は、やがて領内の村々へと伸びたのである。
御用金は、江戸幕府・藩・旗本などが財政窮乏を補うため臨時で農民、商人などに課した金のことを言います。
この時の松代では、汚職を働いた家臣にも課せられたわけです。
大野九郎兵衛については、吉良上野介を打ち取るための二番隊として米沢に潜伏していたという説がありますが、これは巷説にすぎません。
堀部安兵衛の日記には、九郎兵衛が逐電したことが痛烈に批判されているので、いろいろと事情はあったでしょうが、保身のために逃げたことは間違いありません。




