第六章 楓と水芭蕉⑦
森の先は広大な湿原になっていた。
そしてその水面には、白い水芭蕉の花が、無数に咲き乱れている。
陽の光に照らされて、白い花がキラキラと輝くその光景は、まるで極楽浄土が眼前に現れたかのようである。
「お、おら…この山にこんなところがあるなんて知らねえ…。きっと村の誰もしらねえど…。おめえはここで暮らしてるっていうんかい?」
「そう。ほらあそこで」
湿原の対岸、フウが指さす方向には、一軒の小屋が見える。
小屋の前には物干しもあって、人が生活しているであろうことが見て取れる。
「さあ行きましょう」
フウは陽の光を受けながら眩しそうに笑って、鬼助のことを再び肩に担いで歩き出した。
花咲く湿原のほとりを、ふたりは他愛のない話をしながら歩いて、やがて小屋の前まで来ると、
「中におっかさがいるはずよ。報せて来るから少し待ってて」
そう言い残して、フウは小屋の中へと入ってしまった。
鬼助とシロは、小屋の前でポツンと取り残された。
フウの母親とは言うが、一体どんな人だろうと想像しながら、ぼんやりと待っていると、ややあってから、小屋の戸口が音もなく開いた。
小屋から現れたのは、まだ三十そこそこと思われる婦人である。
丈け成す黒髪を、フウと同じように一つに結んで、腰に垂らしている。
衣服は村の農婦と異ならない粗末なものを着ている。
その女性は、鬼助の姿を見るなり、
「フウ、何てことをしたんだい!ここには誰も連れてきちゃいけないって、あれほど言ったろう」
と、色をなして怒った。
ただフウはニコニコと笑ったまま、
「このお方が怪我したようだから連れてきたのよ」
「そんなことが言い訳になりますか。ここを知られてしまった以上、わたしらはもうここには住めないんだよ」
「大丈夫よ。おっかさ、このお方誰だと思う?」
「誤魔化すのはやめなさい。誰であろうと知ったことではないよ!」
二人は容姿が似ている割に、母のほうはフウと異なり気が強いらしい。
母は横目でジロリと鬼助を睨んで、すぐにフウへと視線を戻した。
次の瞬間また鬼助の方へ向き直って、
「───ま、まさかあんた鬼助様かい!ああこんなに立派になって!」
歓喜とも驚嘆ともつかぬ声を上げ、腕を伸ばして鬼助を胸いっぱいに抱きしめた。
「く、苦しい…」
婦人の胸に抱かれながら、鬼助は様々な考えを巡らした。
だが答えは何一つ出なかった。
なぜフウの母が自分のことを知っているのか。
なぜここまでの喜びを表すのか。
そして自分はいったい何者なのか───
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