第六章 楓と水芭蕉①
四月も下旬に入って、この鬼無里の一夜山にもようやく夏の気配が漂ってきた。
朝晩はまだ冷えるが、昼に日向に出れば、眼に痛いほどの陽射しと新緑が眩しい。
新右衛門がこの寺に来たのはまだ三月だったから、鬼助が剣術の稽古を初めてもう半月以上になる。
だが新右衛門が手合わせをしてくれたのはあの日以来なく、ほとんど一人で素振りをする毎日である。
ただこの頃は掌のマメもしっかりと固まって、腕も以前に比べて少し太くなったような気がする。
そんな自信が芽生えるにつれて、鬼助は一人稽古への物足りなさも徐々に感じるようになっていた。
普段新右衛門は、寺の坐禅堂に籠って何やら書をしたためていることが多い。
一度だけ松代城下に行くと言って、何日か寺を開けたことがあった。
久安は、新右衛門の気ままな行動を特に咎めることもなく、好きにさせているようだった。
最近では鬼助に言い付けられる作務も減って、新右衛門の加わった新しい暮らしを歓迎しているように見えた。
そんな或る日、鬼助はいつもの通り庭に出て素振りをしていた。
この日は晴天で、まだ夏本番にはなっていないとはいえ、少し動くと全身に汗がにじむ。
鬼助は小休止しようと、境内にあるブナの木陰に入ってみた。
ごろりと横になると、心地よい風が鬼助の頬を撫でていく。
眠気をもよおしそうな昼下がりである。
鬼助は寝転びながら、やや退屈な心持でいた。
今日も新右衛門は留守だし、一人稽古では物足りない。
何かいい考えがないかと思案を巡らしていた時、かつての剣豪新免武蔵は、西国の山麓にある霊厳洞という洞窟で修業を積んだ、という話をふと思い出した。
この一夜山の北側には、木曽殿安吹と呼ばれる岩屋がある。
この岩屋は、その昔木曾義仲が北陸道に進軍した際、兵三百名を休めたという場所で、洞上には流れがあって、その水は洞口に落ちかかって簾を成して、水晶を思わしめる美しさだとされている。
鬼助も一度だけこのあぶきには行ったことがある。
それゆえ武蔵の話を思い出し、剣豪の真似をして岩屋で修業をしたら、きっと楽しいだろうな、という考えが頭に浮かんだ。
一度そう思うと鬼助は、もう居ても立ってもいられなくなって、
「おらちょっと山へ入ってくからシロを借りてくど」
克林へ言い残して、筒袖の帯に木刀を差して、シロを供として山へと分け入った。
丁度午の下刻を過ぎたあたりだった。
繰り返しになりますが、旧暦の四月なので、新暦では六月くらいになると思われます。




