第五章 浪人と剣術⑤
翌日、早速鬼助の稽古は始まった。
まず午前中は、鬼助はいつも通り作務を行う。
新右衛門は水垢離の後、木刀で軽く素振りをして、その後は坐禅堂で何やら書をしたためたり、山の散歩をしているらしかった。
午後になれば鬼助は、一旦作務を切り上げ、一刻ばかり新右衛門との稽古を行う。
構えや簡単な型を教わって、あとはひたすら素振りをする。
一見地味なその光景を、克林は恨めしげに眺めているばかりである。
時折新右衛門は、鬼無里の里に下りて夜まで寺に帰らないことがある。
そういう時でも、鬼助は独りで素振りをして鍛錬を欠かさなかった。
そんな日々が続いたある日、新右衛門は庭石に腰かけて、黙々と素振りをする鬼助をぼんやりと眺めていたが、
「そろそろわしが受けてやろうか」
言っておもむろに立ち上がった。
庭に落ちていた長さ一尺ばかりの薪を拾うと、
「さあどこからでも打ち込んできなさい」
半身になって構えた。
新右衛門が手にしているのは、脇差ほどの長さに過ぎない薪である。
鬼助の木刀は二尺二寸はあるから、本気で打ち込めば到底受けきれそうにない。
鬼助は新右衛門の面体に向かって、
「えいっ!」
と気合を込めて打ち込んだ。
だが新右衛門の身体がヒラリと横に流れたかと思うと、眼の前にその姿は既になく、鬼助の背後に平然として立っている。
そして息一つ切らさずに、
「いいぞ。その調子で打ってこい」
と白い歯を見せて笑っている。
鬼助は自棄になって、必死に力を込めて新右衛門に斬りかかった。
その度に、新右衛門の身体は鬼助の前から消える。
そして何度めかを打ち込んだ後に、
「鬼助、そなたこの村の割元どのは如何様なる人物か知っておるか?」
三間ほどの間合いを開けて、不意に新右衛門が聞いた。
「……」
鬼助は息が上がって答え得ない。
だが鬼無里で暮らす者ならば、喜左衛門の人品を知らぬ者はいない。
鬼助が黙ってうなずくと、
「実は昨日村で喜左衛門殿の話をいくつか耳にしてな。この鬼無里にも随分と立派な士がいたのだと感心したところだ」
新右衛門は問わず語りに言いいながら、間合いを保って対峙し続ける。
「喜左衛門どのの剣の腕前、いかほどかそなた存じておるか?」
鬼助も段々と呼吸が整ってきて、返事ができるようになっている。
「なんでも松代でも喜左衛門様に敵う人はいないって話です」
「ほうそれほどか。村の者たちからも随分と頼りにされておるとも聞くが、それも真か?」
「それも本当です。誰にでも分け隔てなく接してくれるし、いつもみんなのことを気にかけてくれる。あんな立派なお人そうそういませんよ」
喋りながらも、二人の間合いは一向に詰まらず、鬼助は構えているだけで体力が削がれていく思いがする。
ただ新右衛門のほうは、心ここに在らずといった様子で、鬼助の持つ木刀の切先を見るともなく見つめている。
その様子を鬼助が訝しむと、
「いやなにどうということもない。さあ思いっきり打ち込んでこい。この距離であればそなたでも容易いであろう」
と間合いを詰めてきた。
鬼助は言われた通り、新右衛門に向かって最後の力を振り絞って躍り込んだ。
赤樫の木刀が空中に勢いよく弧を描いたが、
「まだまだだな」
新右衛門は、不敵な笑みを浮かべて身を翻したかと思うと、発止と薪で木刀を受け止めた。
それから鬼助の木刀は、ピタリと薪に吸い付くようにしたまま、乾いた音を立てて地面へと落下した。
新右衛門は落ちた木刀を見遣りもせずに、
「今日は鬼助のお陰でいい稽古ができたわ。また明日からも頼むぞ」
と、満足そうにして坐禅堂へと消えていった。




