第一章 鬼無里村②
この山寺のある鬼無里村は、信州松代藩真田家十万石の領内にある。
戸隠連峰から流れを発する裾花川のほとりに在って、松代城下からは八里ほど隔たっている。
村の周囲には、険しい山道が迷路の如く複雑な経路を成しているため、他所者が鬼無里を訪れることは稀で、正しく秘境と呼ぶに相応しい土地であった。
鬼無里村の背後には、一夜山と呼ばれる風光絶佳なる山が鎮座している。
この一夜山の杣道を一刻ほど進むと、やがて頭上の木々が晴れ、ぽっかりと穴の開いたように拓けた場所に出る。
この鷹目平とも称される山中の平地に、鬼助の住まう山寺、雲海院は建っている。
この地は鷹目というだけあって眺望に優れ、雲海院の門前に立てば里の様子を一望できる。
季節によっては、その名の通り眼下に雲海が広がるが、その寺号は『話尽山雲海月情』との禅語から取られたのだという。
元々は鬼無里村中心部に位置する曹洞宗鬼立山松厳寺の奥之院として建てられたもので、松厳寺歴代の和尚が、隠居後に住持となることが多かった。
*
鬼助は寺の表庭まで一旦出て、境内をぐるりと見回してみたが、どこにも和尚の姿はない。
奥之院といえども、その敷地はゆうに数千坪はあるから、どこか建物や木の陰に入ってしまえば、容易には探し得ない。
それにこの雲海院には、住職の他には鬼助と克林の二人しか住んでおらず、誰かに尋ねるわけにもいかない。
困り果てていると、どこからともなく白い毛をした犬が現れて、鬼助の脚元へとすり寄った。
「シロ、おめ和尚がどこにいるか知らんか?」
頭を撫でて尋ねてみても、物言わぬ犬はうれしそうに尻尾を振るばかりである。
鬼助が溜息をつきながらその場へしゃがみこんだ時、
「鬼助はどこおる!」
怒号ともつかぬ声が、坐禅堂のほうから聞こえた。
鬼助の心臓はドキリと鳴った。