第二章 宮藤喜左衛門②
原家は元々知行百五十石の中身であったが、小隼人は幼少のころから容姿端麗にして才能も秀で、初め藩主真田信安の近習役を勤め、間もなく五十石の加増を受け、御側御納戸役という重役へと進んだ。
小隼人は、生まれながらにして頭が切れたのみならず、文武両道兼備の誉れあり、諸芸に通じ、中でも剣術は最も得意とするところであった。
若年の頃より新当流道場へと足しげく通い、美麗な容貌に似ず、荒々しい凄絶の剣を遣ったそうである。
藩の記録には、
「原小隼人は性質怜悧にして手跡も相応に修業し、武芸に於いては極意を受けて長尺の刀を用い、其の様は竹枹を振るうが如くなり」
との記述がある。
小隼人は、試合ともなれば三尺に迫ろうかという木太刀で、上段から一刀にして敵を薙ぎ払うのを常とし、打ち込んだ相手を不具にしても、気にも留めない冷淡な性格だったという。
だがそんな小隼人も、喜左衛門の精妙な技の前には手も足も出なかった。
それだけに、喜左衛門への嫉妬や敵愾心には、相当なものがあったようである。
道場で喜左衛門に打ち込まれた翌日には、意趣返しに喜左衛門の父喜内へ、ネチネチと職務上の難癖を付けるのが日課となっていた。
父からは、度々苦笑交じりに小隼人の愚痴を聞かされてはいたが、「武芸の上での出来事ならば上役とて手加減は無用」として、喜左衛門は取り合わなかった。
父は、武芸一徹で世渡りの上手くない喜左衛門のことを常に案じていた。
倅の器量は誰もが認めるところなので、どこか良い家に婿入りができれば、蒔田家の家名も上がると考えていた。
しかし、当の喜左衛門は気まま暮らしで、父や兄の勧めがあっても一向に身を固めようとはしない。
いい縁談を持ってきても、今は剣の修業を専一にしたいと断るばかりであった。
そんな喜左衛門が、ある日突然婚姻を結ぶことになった。
そのいきさつは、次の通りである。
*
蒔田喜左衛門が初めて鬼無里の里を訪れたのは、まだ十七の頃である。
代官として現地に赴く父に、随伴してのことだった。
親子は徒歩にて松代を出立し、途中番屋にて馬を借り、村内の巡視は騎馬で行った。
元服して間もない喜左衛門にとっては、馬上から眺める鬼無里の景色は、一際新鮮に輝いて見えたに違いない。
一通りの巡視が終われば、親子共々割元の宮藤家にて饗応を受ける。
若い喜左衛門すら下にも置かぬ歓待ぶりで、贅を尽くした本膳料理が、次から次へと運ばれてくる。
その配膳をする女の中に、一際目を引く美しい少女がいた。
少女が甲斐甲斐しく喜左衛門へ膳を運ぶたびに、宮藤家当代当主である武兵衛は、満足そうな笑みを浮かべている。
喜内がその働きぶりを誉めると、
「これはわしの娘でしてな。あやめといいましてまだ十四ですが、なかなか気の付くほうで。ヨネだけでは人手が足りんので手伝わしておるのです」
と、武兵衛は機嫌よく笑うのだった。
鬼無里の様な農村では、代官が寄宿するとなれば割元の娘といえども女中のような下働きをするのが当たり前だった。
あやめもそれを分かっているから、額に汗を光らせながら、いやな顔をひとつせずにせっせと働いていた。
一方でその召し物はよそ行きで、水浅葱の縮緬に、幅広の帯を吉弥結びに締めて、髪には朱塗りの簪を差している。
化粧もしない素顔のままなのに、肌の色は抜けるほど白く、形の良い眉と長い睫毛が印象的な、凡そ田舎に似つかわしくない可憐な容姿をしている。
武兵衛は、自慢の娘を披露したくて、敢えて手伝わせたに違いなかった。
そんな武兵衛の心中などは露知らず、喜左衛門には、一心に働くあやめの姿だけが、ずっと頭に残っていた。
宮藤武兵衛=当時の鬼無里割元
あやめ=武兵衛の一人娘
原小隼人は、言うまでもなく実在の人物です。




