第二章 宮藤喜左衛門③
それから二年後、喜左衛門が父の名代として鬼無里へとやって来た際、再びあやめへと相まみえた。
二人が偶々屋敷の廊下ですれ違った時、以前とは見違えるほど大人びたあやめの姿に、喜左衛門は思わず心を奪われた。
だが武芸一筋に生きて喜左衛門は、武士が色恋に惑わされるようではいけないと、常日頃から考えてきた。
それゆえ、己の心に芽生えたあやめへの思慕に、喜左衛門は苦悩した。
当時、松厳寺の住職は久安であった。
喜左衛門が巡視に訪れたその日の夜、久安が坐禅堂にて文殊菩薩像の掃除をしていると、口を真一文字に結んだ喜左衛門がやって来た。
こんなところに何用かと問えば、
「和尚、わしは煩悩の塊じゃ。斯様なままでは武士としての面目が立たぬ。しばし坐禅を組みたいゆえ付き合うてはくれぬか?」
青年らしい一徹な眼差しだった。
慧眼たる久安は、この時既に喜左衛門の煩悶を見抜いていたに違いない。
深夜、静まり返った坐禅堂で、喜左衛門は一人坐禅を組んだ。
座敷の広さはゆうに四十畳はある。
その片隅で、喜左衛門は座して呼吸を整えた。
蝋燭が一本ゆらゆらと揺れて、若武者の影を壁に形作った。
久安は、部屋を一周するかのように、畳の縁に沿ってゆっくりと歩いた。
手には警策を携えている。
その形のまま、周回するたびに、喜左衛門の前を通り過ぎる。
そうして何度目かを通り過ぎようとした時、久安は、喜左衛門の真ん前で、ピタリと歩みを止めた。
坐禅をしている時、坐る者は眼を閉じることはない。
眼を開けるでもなく、閉じるでもなく、自然な状態にするのが作法となる。
それゆえ、久安が己の前で立ち止まったことは、喜左衛門にも分かった。
もうこの瞬間、喜左衛門の心中は乱れきっていた。
首筋が凝り固まったように感じ、身体が小刻みに震えてきそうな錯覚を覚える。
その震えを止めようとすればするほど、身体の自由が利かなくなる。
久安の持った警策が、右の肩に触れた。
喜左衛門は観念した。
静かに合掌し、頭を深く垂れると、丸くなった背中に向かって、甲高い音を立てて、警策が打ち下ろされた。
この時久安には、喜左衛門の心中が手に取るように分かっていた。
あやめへの想いと、武士としての生き様。
主君や我が家に対する気持ちと、次男であることの心情。
これからどのように生きていくべきか、喜左衛門は迷いの中にいたのである。
それでも翌朝には、若者らしいすっきりした表情で、喜左衛門は目を覚ました。
午前から割元・肝煎を含めた村役人たちと合議を進め、昼にはそのまま鬼無里村割元宮藤武兵衛の役宅にて昼餐を摂った。
その時、チラとあやめの姿を見た。
お互いに言葉を交わすようなことはなかった。
喜左衛門は、武芸と御家を第一に考え、あやめへの想いを断ち切ろうと、心に決めたのである。
一方のあやめは、心の内で私かに喜左衛門のことを慕い続けていた。
松代の若き剣士蒔田喜左衛門の噂は、城下から遠く離れたこの鬼無里にもつぶさに入ってくる。
浪人某から試合を挑まれ、手もなく打ち破っただとか、家中の重役たる原小隼人をやりこめただとか、武芸の分からぬ娘からしても、いかにも好もしく思えるものばかりだった。
父の武兵衛も事あるごとに喜左衛門の話をするから、否が応でも意識しないわけにはいかない。
二年前、まだ少女だったあやめでも、馬上の喜左衛門の凛々しい姿は覚えている。
瞼を閉じると、いつもその雄姿が色鮮やかに浮かぶ。
それでもあやめは、鬼無里割元の一人娘である。
こちらも己の私情で、縁組が決められるものではないということは、生まれながらに理解している。
あやめも喜左衛門への想いを胸に秘め、夜毎月を眺める日々を過ごしていたのである。
このページのイラストは、早稲田大学漫画研究会の現役学生ぱちこみさんの描き降ろしです。




