ねこみみしっぽとメロンパン
雲ひとつない空の下を、地竜の引く幌車に揺られて北の地へ。
あまりに心地良いのでうとうとしてしまいそうだけれど、そうはいかない。
仕事中なのだ。僕は。
……でも眠い。
……眠い。
僕はもともと猫なんだから、昼は寝てたいんだよ本当は。
ごろごろしたい。ごろにゃーしたい。
「眠いなら寝てもかまいませんよ」
店主どのが、苦笑しながら御者席から声をかけてきた。自ら地竜を走らせるのが好きらしい。
慌てて姿勢を正して、返事をする。
「お、おかまいなくっ。大丈夫ですのでハイ、仕事中ですのでっ」
「仕事中といっても、このあたりの街道はモンスターが出にくいですから。それに、普段ならお昼寝の時間でしょう?」
あう?
「にゃ、にゃんで知っているんですかっ!?」
僕の毎日のお昼寝は秘密のはずなのに!
「ああいえ、ウォールド氏――お父上から、先日うかがいました。『毎日窓際の暖かいところで丸くなって寝ている』そうで」
「う……父上ぇ……」
そういうことは秘密にしておいて欲しい。僕だって一応は乙女なのだ。
けどまあ、おかげで目が覚めた。
しゃっきりしないと。なんせ、僕はもうフリーの冒険者ではないのだから。
「シロお嬢さんが、まさか僕の護衛をしてくださることになるとは思ってもいませんでしたよ。近衛をお貸ししてくださるとは、陛下も大仰なお方だ」
「はあ……陛下は人が悪いというよりも、その、直情的な方ですので。本当は一個中隊を動員しようとしていたのですが、近衛全員で諌めさせていただきました」
店主どのがくっくっと笑う。男なのにこういう仕種がまったく嫌味っぽくない。
総合料理店『フォー・アイリー』の店主で、〈世界最高の料理人〉とも呼ばれる彼は、夏の暑い時期に北の大農場地帯へ視察へ行く。
しかし、国王陛下ですら「週に一度は必ず『フォー・アイリー』でランチを食べる、食べなきゃワシ働かない」と豪語するほど(しないでほしかった)超越した腕前を持つ店主どのが、護衛もつけずに王都から離れるのは少々まずい。
例年通りであれば、奥方のアイリーさんが――〈凍土の魔女〉どのと二人でいちゃいちゃ小旅行と洒落込むらしいのだけれど。
「ところで、アイリーさんのご様子は? ご懐妊なされてからは、お会いしていないのですが……」
「順調ですよ。今年の視察は、さすがに断念してもらいましたけどね。もう七ヶ月ですし。デイシーさんこそ、どうなんです?」
デイシー・ウォールド。僕の家族で、父上の伴侶。ようするに……
「お母さ――ごほん、母は元気です。はっきりわかるくらいお腹が膨らんでいるのに、いまだに家事全てをメイドに任せようとしません」
また、店主どのはくっくっと笑った。
「まあ、積もる話もありますけれど、ゆっくり行きましょう。時間はありますしね、シロ・ウォールド十六位騎士どの?」
「ええ、そうですね。こうして話すのも随分久しぶりですし……〈食聖〉どの」
言いあって、同時に吹き出す。
あのクリスマスの夜から、もう二年も経つのか。
黒髪から生える一対の黒い猫耳と、臀部から伸びる先端だけが白い黒尾が特徴の、中性的な女騎士。
それがいまの僕。シロ・ウォールドは、二年でこんなにも出世しました。
● ● ●
夏だというのに、北部は少し肌寒い。
ごてごてしい近衛隊服が、このときばかりは少しありがたい。
あたり一面が緑緑しい小麦畑で覆われたこの場所は、北部大穀倉地帯――の一部。
ヤサカ商会が所有する、大規模小麦畑だ。
護衛として意気込んでいたもののに、到着するまでひとつの悶着もなく、到着してからは店主どのの仕事の邪魔をしないようにひっそりと大自然を満喫していたら三日が過ぎていた。大自然すげえ。
ほんとにただの休暇じゃんか、これ。仕事じゃないよなあ。
「しかし、まあよくもこれだけ広大な土地を……」
店主どのがヘタな貴族よりも金持ちだとは知っていたけれど、ここまでとは。
ヘタな貴族どころか、ほとんどの貴族は太刀打ちできないだろう。
少なくとも我がウォールド家では無理だ。そもそも領地がない。
欠地貴族。
領地経営に失敗し、多額の負債を抱えた貴族の末路である。
かつてのウォールド家がそうだったらしい。
曽祖父から三代かけて全ての負債を返済したけれど、いまだに領地は戻らない。買い戻すには、少々高額すぎるのだ。
つらつらと考えながら畑を眺めていると、後ろから人の臭いが漂ってきた。
乾いた麦わらと、健康的な汗の臭い。
農場責任者のレディ・カンザサだろう。
「広ェからって高額なわけじゃねェぜ、おねいちゃん」
どうやら僕の独り言を聞いていたらしい。耳の長い種族は耳ざとい。
大きな麦わら帽を目深にかぶった、健康的な小麦色の肌を持つ背丈の小さな少女。に見えるけれど、ドワーフ族なので見た目で信用してはいけない。王都のろりばばあを僕は許さない。
「そうなんですか?」
「おう。土地ってのァ、広けりゃええっちゅうもんちゃう。大切なのは付加価値やっちゅうてな」
そう言って、手に提げていた麻袋からトマトを取り出した。真っ赤でみずみずしい。
「いまァ取れたとこやけ、食いね」
「おや、ご丁寧にどうも。いただきます」
「ああ、チョイ待ち。塩持ってきたからかけて食い」
岩塩をちょんとつけて、丸ごとかぶりつく。
少し固めのしっかりした果肉を歯で抉ると、内側に閉じ込められたゼリー質が口の中に広がり、旨味の詰まった岩塩と見事なハーモニーを奏でる。
これは……美味い。
「旨いしょや? 管理所裏の小屋で育てとるんよ。トマトは湿気高くないと育たんけ」
からからと、レディは闊達に笑った。
「それとな、その塩、西の海で採れた岩塩やけ、旨味が濃ォてトマトとよく会うんよ」
「へえ……西の海っていうと、ガレア国の産出物ですか。よくそんなものが手に入りましたね」
というか、塩にも産出地で違いがあるのか。確かにこの塩は、なんというか甘味のようなものがあるけれど。
「ふふん。ま、大陸上の腐らんモンならヤサカ商会で集められんものはない、ちゅーてな」
「あ、じゃあ店主どのがこれを?」
「おうおう。ヤサカの旦那ァ、ありゃあ大した男やね。アイリーちゃんがおらんかったら、わしがイの一番に押し倒しとるわ」
「あはは、その冗談はイマイチ笑えませんよ」
「……冗談やないンじゃがな」
そんな会話を楽しみつつ、しばらく、無言でトマトを味わう。
二つほどいただいて、その酸味と旨味を楽しんだ。
「ところで、レディ。先ほど言っていた土地の付加価値というのは……?」
「ん? そんな話しとったなァ、確かに。ええとやな、うーん……」
レディ・カンザサは麦わら帽の下に手を入れて、がりがりと頭をかきむしる。
「例えばやな、おねいちゃんにこんな話が来たとしよ。『広い土地と狭い土地、どちらかを買ってくれませんか? ただしどちらも同じ値段です』てな。どうする?」
「そりゃ、広いほうです」
明らかに得だ。
「ン。じゃ、今度は『広いけれど整備されてないし交通の便も悪いし、モンスターもいっぱいおる土地と、狭いけれど野生動物がいっぱいおる平和で美しい土地』や」
「……」
なるほど。
「さて、どっちが欲しい?」
「狭いほうですね」
即答した。レディがしたり顔で頷く。
「な?」
「ええ、納得しました。つまり、それが土地の付加価値ですか」
「まあな。そもそも、このあたりの寒さになるとマトモに育つもんも限られとるでな。小麦なら王都でも栽培できるっちゅうし」
確かに、王都近郊の畑でも小麦が育っているのをよく見る。
「まあ、そのへんの話は旦那のほうがよォ知っとるし、話し上手やわな。興味あるンやったらあとで聞きに行き。……ほいだら、わしはそろそろ働かにゃね。おねいちゃんもするかい? 畑仕事」
「んー……お手伝いしたいのは山々なんですけれど、あいにくお昼寝の時間ですので」
また、レディ・カンザサは陽気に笑う。
「そうかい。ンじゃま、昼寝が終わったらでええから、旦那ンとこ行ったってみィや。旦那、いまパンつくっとるから、あと二、三時間で焼きたて食えンで」
「焼きたてパンですか。それはそれは」
いまトマトを食べたばかりだというのに、店主どのの焼きたてパンと聞くだけでお腹がすいてくる。
寝過ごさないようにしなければならないけれど、木立のハンモックが僕を待っているのだ。
寝ないという選択肢はない。
● ● ●
感覚は敏感なほうだ。
もともと嗅覚、聴覚ともに純人間より鋭敏で、近衛騎士としての鍛錬もあったからか、昔よりも調子が良いくらいなのだ。
寝ていたとしても、索敵能力が損なわれることはない。
鼻腔をわずかに刺激する香り。
瞬時に脳を覚醒させ、意識を鼻へと集中させる。
「……この匂いは……っ」
太陽の位置からして、昼寝を始めてから一時間半ほどか。
予定よりも早い。
さすがは店主どのというべきか。
僕を昼寝から起こせる人間が騎士団長と父上のほかにいるとは思いもしなかった。
ハンモックから飛び降り、手鏡で寝癖などを確認する。……うん、大丈夫。
騎士として、貴族として面目を保てる程度の身だしなみは必要だ。面倒臭いけれど。
広大な畑のいたるところに、ぽつぽつと小屋が存在する。
管理所支部と言われるそれらの小屋には、ひとりひとりドワーフ族が住んでいて、畑の管理をしている。
そして、彼らを束ねるのが農場責任者のレディであり、管理所本部――畑の真ん中にでんと建つ、巨大な四棟からなる館だ。
半分以上は貯蔵庫と従業員の部屋だから、並外れて豪華というわけではないらしいけれど。
その巨大な建築物の一角に、調理室がある。
「来ると思っていましたよ、シロお嬢さん」
「……なんですか、その『食いしん坊め』みたいな言い方は」
店主どのは、くっくっと笑う。
「いえ、ウォールド家は食べ物の気配を感じ取る能力については王都一ですから」
「むう。父上と一緒にしないでくださいよ、店主どの。僕はあそこまで底ぬけた食道楽ではありません」
父上は本当によく食べる。底ぬけというより、底なしか。
魔法を生業とするものは、損失した魔力を補填するために山のような食料を詰め込む必要がある。
だから僕が美味しい料理をたくさん食べてしまうのもある程度仕方ないのだ。という言い訳を用意しておくと太ることが怖くならない。
「いや、でもシロお嬢さん、ここに来てから鍛錬してないですし魔法も使っていませんから、たぶんそろそろ」
「店主どのっその甘い香りのするパンはなんですかっ!?」
「シロお嬢さん、現実は叫んでもどこかに行ったりはしてくれませんよ」
うるせえ。睨みつけると、目を逸らしてあさっての方向を眺めながら口笛など吹く始末。
なんでアイリーさんはこんな一言多い男と結婚したんだろう。確かに料理は美味しいし優しいし紳士的だし頭もいいし外見も悪くはないけれど――あれ、マイナス要素がほとんどないぞ。
「……店主どの」
「はい、なんでしょう」
「僕は機嫌を損ねました」
「それは申し訳ございません。ひらにご容赦を」
すっと綺麗に一礼すると、丸いパンをこちらに差し出して、
「お詫びの品です、シロお嬢さん」
と言って、微笑んだ。
「……ひょっとして、店主さん。僕以外の良家の娘さんにもこんな気障なことしてるわけじゃないですよね?」
「え? しちゃダメなんですか?」
…………。
ダメだこの人! なんかダメだ!
天然だ、天然の誑しだ!
小首なんか傾げるな! 二十代後半なのになんでその仕種が似合うんですか!
アイリーさん、結婚するまで――というか、結婚してからも、やきもきしっぱなしだったろうなあ。
レディ・カンザサの『押し倒す発言』も、意外とマジなのかもしれない。
「……店主どの、そういう言動は慎んだほうがいいですよ。アイリーさんの心労が増えます」
「……? まあ、アイリーのためになるというならそうしますけれど」
そうしてください。
● ● ●
メロンパンという名前のパンだ。僕の好きなパンのひとつである。
別にメロンが入っているわけではないそうだけれど、メロンパンというらしい。
「見た目がマスクメロンの網目に似ているからとか、メレンゲパンが訛ってそう呼ばれるようになったとか諸説ありますね。僕もなぜメロンパンというのかは、知りません」
店主どのも知らないのなら、たぶんだれも知らないだろう。
美味しければ名前はなんでもいい。少なくとも、僕にとっては。
かり、と小気味よい音を立てて、パンをかじる。外皮が口の中でほろほろと崩れ、広がる甘さがふかふかもっちりしたパンとの絶妙なハーモニーを奏で出す。
パン自体もほんのりと甘味があって、外皮の甘さに負けていない。
ぺろりとひとつ、平らげてしまった。
「美味しかったですよ、店主どの。ご馳走様でした」
店主どのは僕よりも、少しゆっくり食べおわる。
「いえいえ。お粗末さまでした。試作品のご感想をいただいても?」
「試作品……なんですか?」
王都の『フォー・アイリー』でも売っているのに?
「試作品です。ようやく春小麦の生産量が安定してきましたし、甜菜の栽培も順調ですし。いわば廉価版ですね。安いんです」
「天才? 天才って栽培してできるものなんですか?」
凄いな店主どの。
「なにか勘違いしているようですが、甜菜――サトウダイコンという野菜があるんですよ。汁を絞って煮詰めると砂糖になるんです」
「へええ。砂糖ってサトウキビだけじゃないんですね。ダイコンからもとれるんですか」
「いえ、サトウダイコンは見た目がダイコンっぽいだけで別にダイコンというわけではないんですけれどね」
ややこしいこと言わないでほしい。
「デュバル王国の緯度だとサトウキビは育てにくいですからね……代わりに、甜菜を育てました」
……よくわからない。
「まあ、あれです。砂糖が作れるんですよ」
最初からそう言って欲しかった。
「……そういえば、店主どの。レディ・カンザサに店主どのに聞けと言われたのですが――」
昼の一幕を説明し、質問する。
「なぜ王都で栽培できる小麦を、わざわざこんな離れたところで栽培するのです?」
「あー……いろいろ理由はあるんですけどね。土地が安いとか、広域農業のついでに牧畜もできるとかあるんですけれど、一番の理由は――実は簡単な理由なんです」
店主は一度言葉を止めて、微笑みながらこんな質問を僕に投げ返してきた。
「小麦って、いつ育てる植物か知っていますか?」
● ● ●
「どうせ向こうで美味いもん食ったんじゃろっ? うらやましいやつめ!」
ひと月に及ぶ出張から王都へ帰ってきて、最初にぶつけられた言葉がこれだよ。
「陛下、僕は美味しいものを食べに行っていたのではなく、護衛に行っていたわけでですね」
「でもちょっと太ましくなってるし」
……。しゃきーん。
「陛下、よく聞こえませんでした。もう一度おっしゃってください」
「十六階位の騎士シロ・ウォールドよ、此度の仕事、良くぞ果たしおおせた。過酷極まりない試練だったと思うが、その、剣をしまえ。ワシ先端恐怖症じゃし王族じゃからそういうのよくないと思うな、ウン」
「お褒めに預かり光栄の至り」
腰に得物を戻す。王の無駄口は国を滅ぼすとはよく言ったものである。
「ふう……。で、シロよ。どうじゃった? いろいろ話すネタはあるじゃろ。ほれほれ。なんせ、ようやく送り込めたスパイじゃからの。そりゃもう沢山見聞きしてきたじゃろ?」
なんかウザいけれど、これでも一国の主である。
「さあキリキリ吐け!」
凄くウザいけれど、これでも一国の主である。ぶん殴りたい。
「陛下、小麦っていつ育つ植物か知っていますか?」
「……冬じゃろ?」
当たり前のように陛下が答えた。
そう。
そうなのだ。
王都では、小麦は冬に育つ。
理由は単純明快で――夏に育てると、暑すぎて育たないのだとか。
腐ってしまう、と言っていた。
「そこで、春小麦と冬小麦の概念だそうです。冬小麦というのが王都で育てている小麦で、春小麦がヤサカ大農場で育てていた品種だとか」
「ふむ……つまり、栽培時期をずらすということじゃな? 王都の寒い時期に育てるものを、さらに寒い地域の暖かい時期に育てると」
「そういうことですね」
品種そのものも違うそうだけれど、発育条件はそう変わらないのだそうだ。
「もっとも、収穫量は冬小麦のほうが多いそうですが……あれほどの規模になると、王都周辺の収穫量と同等かそれ以上になる――かもしれないそうです」
「……ぬぅうん」
陛下が呻いた。それも、強烈に痛々しく。
「……どうしました?」
「どうしました、じゃないわ馬鹿者。あれか、お前はオツムも猫なのか」
どうしよう、凄く切り刻みたい。
「いいか、王都の小麦は周辺の村々から仕入れるものが大半じゃ。それの量が突然二倍になってみい」
「……あ」
小麦の価値の大暴落だ。量が多くなれば、取引値段が下がる。
「しかも、その半分はヤサカ商会の独り占めじゃ。暴落どころじゃないのう」
「……浅慮で申し訳ありません」
「いや、構わん。そもそもお前は『武』よりの近衛じゃしな。知性には期待しておらん」
それはそれで凄くむかつくけれど、まあ、事実だ。勉強は嫌いですよ、僕。
「あの店主は経済においても一流じゃし、農村を滅ぼすようなことはせんじゃろうが……しかし、それでもなあ。税もとれるし問題ないといえば問題ないのじゃがなあ……」
どうしてだろう、苦悩なさっている陛下を見ると……部下である僕まで……その、胸が締め付けられるというか、気分爽快で凄く機嫌がいい。月いちくらいで店主どのはこういう行動をしてくれないだろうか。
「……おぬし、いまちょっと気分よいとか思ったじゃろ」
「いいえ、滅相もございません」
すまし顔で受け流す。あ、ダメだちょっと頬が緩んだ。
「……ったく、店主にも困ったもんだわい。ワシより人気あるしなあ。料理は美味いし優しいし紳士的だし頭もいいし、しかもワシの次くらいにイケメンじゃからなあ」
「失礼ながら、陛下。陛下はひょっとして人生において鏡をご覧になったことがないのですか?」
「お前本当に失礼じゃな! 階位下げるぞ! 十八位くらいに下げるぞ! 一週間後くらいに、このやり取りを忘れたころあたりを狙って突然十八位くらいに下げるぞ!」
「そこで不敬罪で打ち首にしないあたり、陛下もお人よしですよね」
ぐ、と陛下は言葉を詰まらせる。
「……ふん、それをわかっていてそのような言動をとるおぬしらのような近衛がおるからの」
「お褒めに預かり光栄の至り」
にやり、と笑いあう。
「いや、笑いあったところでなにも解決しとらんのじゃがな」
「知りませんよ。そういう高度に政治的な話は宰相さまとしてください」
● ● ●
くっくっと、ひそやかに笑い声をあげてみる。
「どうしたんだ、ダーリン」
安楽椅子に座ったアイリーが、怪訝そうに聞いてきた。
妊婦になっても美しい。なんというか、妊婦だからこその母性があるというか、まあアイリーの美しさを言い表すとキリがないのでこのあたりにしておく。
「いやね、そろそろ国王陛下と宰相どのが頭を抱えている頃かなと思って」
「ああ、あの助平爺と石頭か。……ダーリンも人が悪いな、周辺の村の農家とは全て契約済みで、ヤサカ商会の従業員として組み込み終わっているということを知らせてやればいいのに?」
僕の奥さんは呆れ顔も美しい。
「それもそうなんだけれどね、ハニー。陛下はともかく、宰相どのはヤサカ商会を国家に組み込むチャンスを狙い続けているからね。食卓外交を否定はしないけれど、僕の料理と大切な従業員を政治のダシに使われるのはごめんだよ」
お客さま、飯が不味くなる行為は当店では謹んでいただきたい――というのは、ちょっと格好つけすぎかもしれないけれど。
「まあ、とにもかくにも、これで年中通して安定した価格で小麦を供給する算段はついたし――そろそろ、広げようかと思うんだ」
「……ようやくか。長かったな」
「うん。でも、時間をかけたぶん、確実に成功には近づいている。僕の目標にね」
「……ふふ。まさか、自分が気持ちよく料理をするためだけに経済そのものに革命をしかけるとはな。それでこそダーリンだ。格好良いぞ」
お腹を撫でながら、ゆっくりとアイリーは立ち上がった。
「しかしまあ、えらく回りくどく立ち回るな。ダーリンは。普通の人間はもっと即物的に動きそうなものだが」
「ハニー、残念なお知らせだよ。僕は普通じゃない。実は異世界人なんだ」
「こちらからも残念なお知らせだ、ダーリン。実は私も普通じゃない。王都で一番強い魔法使いだったりする」
顔を見合わせて苦笑する。
「まあ、お腹の子が生まれて、十五歳になるまでには流通を掌握したいね……ちょっと長いかな」
「長いものか。ダーリンと一緒ならどんな時間だって、百年だって千年だって一秒に等しい」
「……うん。ありがとう、ハニー」
生涯のパートナーにアイリーを選んだことを、僕は誇りに思う。
荒唐無稽な僕の夢に、付き合ってくれる人を選べたのだ。
いや、選んだのはアイリーかもしれない。
どちらにせよ、共にいる相手はアイリーしかいないと、僕は確信している。
実のところ、シロお嬢さんがヤサカ大農場を視察しにきたスパイだというのを、僕は知っていた。
その上で、遠まわしに陛下に伝えているのだ。
これからだぞ、と。
僕はこんなもんじゃないぞ、と。
食の革命は、流通の革命と同義であり、農家が資産を持つということだ。
地球においても、中世の西ヨーロッパで起こった農業革命はそのまま人口の増加につながり、産業革命へと発展した。
今日、帰ってきてからメロンパンの種を仕込んだ。
ひと月後、廉価版のメロンパンを持ち帰り用として市民向けに発売するつもりである。
そのための販売ブース――ヤサカベーカリーも、王都内に四店舗確保して、開店準備中だ。
野望というほどではないけれど、食は世界を変えるのであると、証明しよう。
そして――そして、過保護と言われるかもしれないけれど。
僕とアイリーの子どもが、健やかに成長できるような世界を。
● ● ●
「姉上、なにやってんの?」
「ん? ああ、これ? これはね、店主どの直伝のメロンパン作りだよ。こないだひと月仕事で大農場に行ってたから、そのときにね」
「へー。姉上が料理するなんて……というか、我が家の台所が紅茶を入れる以外の用途で使われるなんて思わなかったよ」
「えへん。どうだ、すごいだろう」
「うん。で、いつできるの?」
「あと一時間くらいかな。……言っておくけれど、カースのぶんは一個だけだからね。そんなにいっぱい作れるわけじゃないし」
「えー」
「えー、じゃない。……ったくもう、食いしん坊なんだからさ」
「それはウォールド家の宿命だよ。……ひとつじゃ足りないよう」
「……はあ。仕方がないから、お姉ちゃんのぶんをあげよう」
「ウォールド家らしからぬ発言だね。どうしたの。あ、もしかしてダイエ――」
「カース、それ以上言ったらきょうだい喧嘩になるよ」
「ごめんなさい」
「よろしい」




