じゃあ次は、異世界でバレンタインの話をします。
この世界――剣も魔法もある異世界アルガルデートに来て、もう随分経つけれど。
いまや、〈世界一の料理人〉なんて呼ばれ方もする僕だけれど。
それでも、再現できなかった地球の料理は存在する。
それは化学調味料的な要因であったり、原材料が未発見であったり……いろいろな理由がある。
そして、その理由はいつも僕にとっての屈辱だ。
忘れられない敗北なのだ。
その敗北のひとつが――二月十四日。
あれは、僕がまだ冒険者集団〈セイクリッド〉の団員だったころの話だ。
● ● ●
金色の髪をポニーテイルにまとめて、紫色の魔女帽と同色のローブを身にまとった、美貌の少女。
稀代の天才魔法使いにして、S級冒険者集団〈セイクリッド〉の最大火力。
アイリー=クレセト。
クールな美貌と、常に冷静なその性格から〈氷の魔女〉なんて呼ばれ方もする。
そんな彼女は、よく僕に声をかけてくる。
「……なあ、料理人」
「……なにかな、アイリー嬢」
「……その、今日のご飯は……なんだ?」
「……野宿だから、大したものはできないけれど。ポトフと乾パン、あとは野草のサラダかな」
「……そうか」
……正直に言おう。僕は彼女が苦手だ。
なにを考えているのか全然わからないし、言葉も少ないから会話が続かない。
にもかかわらず、よく話しかけてくる。
二年前、僕がこの世界に落っこちてきて、魔物に襲われていたところを助けてくれたメンバーのひとりだし、仲良くしたいと思っているのだけれど……。
遠くから僕のほうを見ていたり、料理をしている僕を隣で凝視してきたりするのも苦手意識の原因だ。
料理を美味しそうに食べてくれるのは、とても嬉しいことだけれど。
冒険者集団の一員とはいうものの、僕の役割は料理と帳簿だけだ。
僕は農業高校とはいえ地球では高校三年生だったのだ、帳簿をつけるくらいの計算能力はある――というか、この世界のレベルをはるかに超えた数学力がある。
そして料理。団員には、どちらかというとこっちのほうが好評だ。
この世界、食材こそ地球と大差ないけれど、それを調理する技術に関しては未熟もいいところだ。
酵素のパンすらなく、簡単なスープと簡素な黒パンが食の基本。
肉を焼くときは塩しか振らず、黒胡椒などの香辛料にいたっては使うことすら稀だ。
まあ、香辛料は値段が張るというのも理由のひとつなのだろうけれど――。
言うなれば、地球の中世時代だ。
その程度の――それ以下の料理技術しか存在しない世界。
僕にとっては、地獄である。
農業高校にはもちろんいくつか学科があるけれど、僕の所属は農業科学――バイオテクノロジーを勉強するところだった。通称バイオ。
具体的には、パンを焼くための酵素を作りながらその仕組みを学んだり、中華麺を作りながらその仕組みを学んだり、乳製品を作りながらその仕組みを学んだりする。
ようするに料理関連の授業が多く、そして僕はその授業が目的でバイオを選んだほど、料理が好きなのだ。
食べるのも――作るのも。
だから、この世界の料理が許せず、頑張って再現できる料理――砂糖や香辛料は手に入りづらいので、それらを使わない料理――を作って〈セイクリッド〉のみんなにお礼の意味もかねて振舞った。
その結果、団長に気に入られて入団したという過去がある。
しかし、二年経ったのにアイリーとはいまだにあまり打ち解けていない。
会話はいつも平坦で起伏のない平行線だ。
● ● ●
「なあ、ヤサカよ。ちょっといいか」
短期の冒険を終えて、本拠地であるサルサの港町に帰還したあと、調理場の掃除をしていた僕に、団長が話しかけてきた。
団長はいつも陽気なおっさんだけれど、今日はいつにも増して機嫌が良いように見える。
……こういうときは、大抵――。
「――団長っ。もしかして、珍しい食材でも手に入りましたかっ?」
砂糖や香辛料が手に入ったのだろう。
団長はよくそういったものを調達してきて、僕に料理を作らせるのだ。
「へっへっへ。聞いて驚け、海を越えた大陸にある貴重な樹の実が手に入ったのさ」
団長は喜色満面といった様子で、手に提げていた壺の蓋を開けて中に入っている黒茶けた、どろっとしたペーストを僕に見せる。
途端に広がる、むせ返るような独特の香り。
それは、地球――日本では、なかなか見ることのないものだった。
「……ぁ」
絶句、である。
珍しいなんてものじゃない。食材として使われることはほとんどないだろう。
「……ん? どうした、ヤサカ。呆けた顔して」
団長がなにか言ってくるが、頭に入ってこない。
……これは――この状態のこれは、僕らバイオの人間にはあまりにも馴染みが薄い。
見たことはある。
林学科の連中が温室で育てようとしていたからだ。結局、それは失敗に終わったけれど、あれはなかなかいい経験だった、とかなんとか。
……いやまあ、いまはそれはどうでもいいのだけれど、ともかく。
カカオマスである。
カカオ豆を発酵、粉砕、焙煎したものをすりつぶしたもの。
カカオマス。
まさかこの世界で、カカオなんて扱いにくい食材をこの状態にしている地域があるとは思わなかった。
カカオマスをお湯に溶かして砂糖とミルクをぶち込めば、どろどろの中世ヨーロッパ風ホットチョコレートの完成だ。
相当味が濃いが、豆であるため油分が相当高い。というか、カカオマスは五十五パーセントが脂だ。
ようするに高カロリーなのである。
原産地である熱帯アメリカでは薬として使用されていたほど栄養価が高く、食物繊維も含まれていて、食が十分とは言いがたい中世ヨーロッパにおいては貴族の栄養源として活躍した。
だが、カカオ自体の味は――苦い。
ひたすら苦い。
ゆえに、砂糖とミルク。
甘くして飲むのだ。
同時にカカオにはない動物性の栄養素と糖分を摂れるため、この組み合わせは大発明だと言っても過言ではないと僕は思う。
……けど、僕は固形のほうが好きだなあ……。
おあつらえ向きに、来月は二月だ。
バレンタインには、チョコレートと決まっている。
● ● ●
まずはホットチョコレートを作った。
カカオ粉末をお湯に溶かし、砂糖とミルクを大量に入れる。
どろどろである。
どっろどろである。
そのテカリが脂肪分の豊富さを教えてくれる。すげえよこれ、飲んだら喉に引っかかりそうだよ。
「……なんだ、それ」
「……」
僕が夢中でカップをかき混ぜていると、後ろからアイリー嬢が覗き込んできていた。……僕より背が高い。
「ホットチョコレート。飲む?」
「……泥をか?」
「泥じゃないよっ。……薬みたいなもの、だよ?」
「なんで疑問系なんだ」
なんだろう。泥ではないけれど、お菓子でもないんだよな。とてつもなく高カロリーであることは確かなんだけれど。
「……甘い香りがするな」
カップを手に取り、香りをかぐ。すん、と小さな鼻が鳴った。
「……頂こう」
マジか。本当に飲むとは。
彼女はカップに口をつけ、そのまま少しだけ飲んで、はう、と息を漏らした。
少し頬が赤い。いつも凛々しい彼女の顔が、緩んでいるようにも見える。
……不覚にも、どぎまぎした。
彼女はまたカップに口をつけ、少し飲んで、また口をつけ――。
――繰り返して、飲み干した。
「濃いな、相当」
飲み終わったあとの第一声がそれである。
僕は水を差し出した。中世ヨーロッパでも、ホットチョコレートを飲んだあとは水で口を洗い流す習慣があったらしい。
「まあ、植物性脂肪の塊みたいなものだからね。これを固形にしてお菓子にできれば、僕としては一番良いんだけれど」
そう言うと、彼女は至極真面目な顔で、応えた。
「……氷系魔法で凍らせるか?」
「物騒だなおい」
「……冗談だ」
……。わ、笑ったほうがいいのかな。
なんとなく、お互い気恥ずかしくて目を逸らす。
というか、アイリー嬢冗談とか言うんだ……。
ごほん、と彼女は咳をして(顔が赤い)、話を戻した。
「固形にする、とは言うが、凍らせる以外になにか方法があるのか?」
「ううん……」
ある。
だが、やったことはない。
おおまかには知っているけれど、それがあっているのかどうか、僕にはわからない。
そう言うと、アイリーは首を傾げて言った。
「とりあえずやってみればいいんじゃないのか?」
至極もっともである。
「……いやあ。いやあ、いやあ」
カカオマスを粉々に砕き(団長の粉砕魔法すげえ)、絞って油分を分離させる。これがココアバターとココアパウダーだ。
カカオマスにココアバター、ミルク、砂糖を加えて混ぜれば固形のチョコレートになる……ような、気がしたんだけどなあ。
「混ざらない……」
それもそうなのか、と思う。
ミルクは水分であり、タダでさえ油分の多いカカオマスにココアバターを加えたものとは混ざらない――文字通り、水と油だ。
いっそミルクを加えなければいいのかと思ったけれど、どうも違うようだし……。
僕がううむ、と唸っていると、また彼女が声をかけてきた。ついさっき、団長とギルドに行くとかなんとか言っていたと思ったけれど。
「……うまくいかないのか?」
アイリー=クレセト嬢である。
「ああ、うん……」
「……香ばしい、良い香りだな。甘い……どこか、官能的な香りだ」
うん。
言い回しがエロい。
「……カカオにはポリフェノールが含まれているからね、実際に健康には良いと思うよ。植物繊維も多いし。ただ、食べ過ぎると血液収縮により鼻粘膜から出血を起こす可能性があるから、その辺は注意しないといけないけれど」
「……何語だ、それは」
……あ。
ちょっと、語りすぎたみたいだ。
「……まあその、なんていうか……。食べ過ぎると鼻血が出るんだ」
「……毒なのか?」
「毒じゃないよ」
中毒になる人はいるけれど。
「……」
「……」
会話が途絶える。
「「あのっ……」」
あう。
声がかぶった。気まずい。
「……」
「……」
また、沈黙。お互いにかあ、と頬が赤くなるのがわかった。うわ、恥ずかしい。
「お、お先にどうぞ」
かろうじて、僕は声を絞り出す。
アイリー嬢も、少々どもりながら話し始めた。
「え、ええとだな、その、うん。なんというか、だな。わ、私は……っ、その、料理ができる男は、あの、その……。す、素敵だとっ思うぞっ!」
「っ。あ、あり、がとう……」
赤面しながら言う、アイリー嬢。
その意味がわからないほど、僕は鈍くない。
● ● ●
懐かしい記憶。
僕の敗北の記録。
あのあと、結局『水と油を混ぜる』ことができなかった僕は、団長から受け取ったカカオマスを使いきっても固形のチョコレートを作ることができず――ホットチョコレートは実にウケが良かったけれど――アイリー嬢に、固形チョコをあげることができなかった。
女子が男子にあげる、というのは固定概念でしかない。
愛する人にあげる、というのがバレンタインの意味でいいだろう。
……恥ずかしながら、あのとき、僕は彼女に恋をしたのだと思う。
その後の彼女との、甘くほろ苦い思い出については――割愛する。
いずれ語ることもあるかもしれないけれど。
「なあ、ダーリン。敗北と言っているようだが、結局、三年前に固形のチョコレート自体は開発に成功しているじゃないか」
「……いいや、あれは敗北だよ。粉ミルクなら混ぜられる、なんて簡単なことに気付かなかった僕の、敗北だ」
まあ、地球でもチョコレートが現在のカタチになるまで百年以上かかっていることを考えれば、当然の結果だろうけれど……でも、悔しいものは悔しい。
「……わからなくもないがな、そういう気持ちは」
ぎゅ、と後ろから首に手を回され、抱きしめられる。
僕はその手をそっと撫でる。
「……」
「……」
無言。沈黙。
若い頃の気まずいそれとは違い、優しい時間。
ゆっくりとした、ほどよい甘さの時間が流れる。
ややあって、アイリーが口を開いた。
「なあ、ダーリン」
「なんだい、ハニー」
「今年のチョコレートも期待しているぞ」
耳元で囁くには少々、ムードよりも食欲が勝っている言葉だけれど。
「任せてよ。……去年よりも美味しいチョコを、作ってみせるからさ」
僕にとっては――僕とアイリーにとっては、それはとっても甘くて素敵な言葉なのだ。
……そうだ、今年はチョコレートボンボンでも作ろうか。
アルコール強めの、大人の味で。
いまの僕らに、ぴったりのやつを。