プロローグ~転生~
俺の名前は清水彰人、二十三歳。
都内のIT企業に勤める、ごく普通の会社員だ。
社会人一年目。
右も左も分からないまま仕事を覚え、失敗しては頭を下げる。朝は満員電車に押し込まれ、会社では怒られ、修正し、また仕事をする。
気づけば定時を過ぎ、終わらない仕事を片付けて帰宅する頃には、食事を作る気力も残っていない。買ってきた弁当を胃へ流し込み、シャワーを浴びてベッドへ倒れ込む。
そして、また朝が来る。
昨日とほとんど変わらない一日が、何事もなかったように始まる。
――そんな日々だった。
昼休み。
俺は会社の屋上にいた。
社員食堂も休憩室も人が多い。だから昼休みになると、俺は決まってここへ逃げてきていた。
紙コップのコーヒーを一口飲む。
安物の、薄くて苦いコーヒーだ。
それでも、眠気と仕事の重さを少しだけ遠ざけてくれる気がした。
「……ふぅ」
吐いた息が、春先の冷たい風に流されていく。
柵の向こうには、東京の街並みが広がっていた。
無数のビル。
途切れなく流れる車。
豆粒のように小さな人々。
誰もが時間に追われ、何かを抱えながら生きている。
俺だけが特別に不幸なわけじゃない。
けれど、だからといって、この息苦しさが消えるわけでもなかった。
ふと、子供の頃を思い出す。
ヒーローになりたかった。
テレビの中のヒーローは、困っている人がいれば駆けつけ、悪に立ち向かい、最後には誰かを笑顔にしていた。
誰かに必要とされる。
誰かの力になれる。
――そんな人間になりたかった。
「……現実は、そう甘くないよな」
今の俺は、誰かを救うどころか、自分一人の生活を維持するだけで精一杯だ。
残業。
上司。
納期。
ミス。
謝罪。
また仕事。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
「俺、何やってんだろうな」
答える者は、どこにもいない。
疲れていた。
仕事にも、変わり映えのしない毎日にも、何者にもなれないまま時間だけが過ぎていくことにも。
俺は紙コップを握ったまま、背中を柵へ預けた。
ほんの少し、身体の力を抜く。
その瞬間だった。
――ミシッ。
背中越しに、嫌な音がした。
「……え?」
次の瞬間、背中にあったはずの感触が消えた。
支えを失った身体が後ろへ傾く。
視界が大きく揺れ、目の端に、根元から折れた柵が映った。
「う、そ……」
手を伸ばす。
だが、指先が掴んだのは空気だけだった。
足元から地面が消える。
身体が宙に浮いた。
次の瞬間には、ビルの外壁が視界の横を流れていた。
窓。
壁。
非常階段。
見慣れた会社の建物が、凄まじい速度で遠ざかっていく。
風が耳元で唸り、シャツがはためく。
落ちている。
そう理解するまでに、数秒もかからなかった。
なのに、恐怖は湧かなかった。
あまりにも突然で、考える暇がなかったのかもしれない。
ただ、頭だけが妙に冷えていた。
ああ。
俺、死ぬんだ。
その事実だけが、他人事のように浮かぶ。
そして最後に、子供の頃の記憶が蘇った。
誰かを助けるヒーロー。
傷つきながらも立ち上がり、絶望の中にいる誰かへ手を伸ばす姿。
俺が憧れ、なりたかったもの。
もしも、もう一度やり直せるなら。
今度こそ――。
(俺も……誰かを救えるヒーローになれたら、良かったな……)
その願いを最後に、意識が暗闇へ沈んだ。




