第一話 涙の理由は
緑の匂いが町中に漂う、よく晴れた五月の日。
この一日の活動日誌は、最も書くべきことが多かったはずなのに、ほとんど何も書けなかった。
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その日、僕はいつもより早く家を出て、通ったことのない道を歩いていた。
刺激を求めて、初めての道で登校しようというのだ。いつもと違う風景を画像に収めながら、校内に足を踏み入れた。
裏門を抜けると、裏庭がある。裏庭には小さな池があり、しだれ桜が裏庭の隅っこにあった。すっかり新緑に包まれていた。そこに、同じクラスの浅川めぐるがいた。
泣いていた。
気が強い人だと思っていたから、とても意外だ。
誰にも見つからないような場所で、ただ一人で、声を押しころして泣いていた。十四歳には見えないくらいに大人っぽくて、落ち着いていて、他のクラスメイトたちとは違う雰囲気をまとっている。男子からも女子からも距離があって、近づきがたい存在だと噂されることも多い。
そんな浅川が、涙。大人っぽくても十四歳だった。
気付けば僕は手を伸ばしていた。泣いている女性がいたら助けたくなるのが男だ。
僕は後ろから、彼女の肩に触れ、彼女の名前を呼ぼうとした。
けれども、長い黒髪をなびかせる強風が襲い、僕が彼女に触れるまえに、彼女のほうが僕に気付いた。
彼女は涙を引っ込めて、震えるのを抑えた冷たい声で、こう言った。
「何も見てない」
「え?」
意図がわからなかった僕は、首をかしげることしかできなかった。
後になって考えて、やっとわかった。何も見てないことにしなさい、という意味だった。
強そうにしか見えていなかった彼女に感じた、初めての意外性だ。泣いている姿を見られたのが、よほど恥ずかしかったのだろうか。
その時から、僕は、彼女のことが気になっている。
朝のホームルームが終わった後に、僕は彼女に話しかけていた。
「浅川。今朝のことなんだけど」
誰にも言わないからと言おうとした。
それを口にする前に、彼女は険しい目で僕を射抜いた。
黙ったまま距離をとられた。彼女を目で追っていると、教室の外に出て行った。浅川は廊下に出てすぐ、一瞬だけ僕と目を合わせて、トイレとは反対に歩いて行った。
それは、さっきの裏庭。しだれ桜の木がある方向だった。
そういえば、朝に僕が来てすぐにその場を去っていたよな。何か忘れ物でもしたのだろうか。そう思いながら、自分の席に戻ると、浅川が戻って来た。
「来て」
彼女は細く長い指を広げて僕の手首を掴み、廊下へと連れだした。
「おい、浅川、どこへ」
彼女は無言のまま、僕の手を引いていく。
そして僕らは上履きのまま、しだれ桜の下に戻ったのだった。
もしや、土の下、根っこの間に、何か重大な彼女の秘密が埋まってたりするんだろうか。僕が足元を見ていると、浅川は言うのだ。
「小道くん、だっけ?」
「大道だよ。大道独行」
「いかにも鈍感そうな名前ね」
突然、とんでもない悪口を言われた。僕が何をしたっていうんだ。
不快感を隠せない僕だったが、浅川は構わず続けて言う。
「伝わってなかったみたいだからもう一度言うけれど、さっきのこと、大道くんは見てない」
「泣いてたこと?」
「見てない。見てないってことは、話題に出さないってことでしょ。さっき、よりによって教室で、何を言おうとしてた?」
「いや、何で泣いてたのかなって」
「それを聞いてきたら、見なかったことにならないじゃないの」
「そうかもしれない。でも気になったから」
浅川は大きなため息を吐いた。
「話にならないわね」
「浅川がさ、教室で誰かと話したりしてるとこ、見たことないんだよな」
「まさか、そんなことで泣いてたとでも?」
「それは違うんだ。じゃあ、家のこととか――」
「そうやって! 詮索するなって言ってんの! 泣いた理由? そんなのあるわけない。あったとしても、大道くんには知られたくない!」
たしかに、今の質問攻めは良くなかった。僕は反省して、
「ごめん」
そう言って、彼女に背を向け、一時間目が始まる教室へと歩き出した。
背中の方から、「何なの」と吐き捨てる声がきこえた。
僕は知らず知らずのうちに、強くこぶしを握っていた。
知りたい。とてもミステリアスな浅川円を、もっと知りたいと思った。
忘れろと言われるほど、忘れられないものになっていく。僕は、魔法にかかってしまったのかもしれなかった。
教室に戻った後、僕は浅川の整った横顔を何度も見てしまった。彼女は午後の最初の授業で、一度だけ僕に厳しい視線をぶつけて、そのあとはずっと無視を続けた。




