二十二話 薩埵峠の攻防
駿河国 薩埵峠 薩埵要害
薩埵まで下がった今川勢は武田勢と対峙していた。
「御屋形様が見罷られたというのは真か?」
「噂じゃ、武田の手の者が流しておるんじゃろう、京から名医曲直瀬道三殿を呼んだと聞く、御命に別状はあるまい」
「そ、そうか薩埵の陣に兵糧を運んだ人足が噂していたのは誤りか」
「人足共に噂を広めたのは武田の手の者に違いあるまい。詮議してもらわねば」
要害内では義元の負傷の具合について幾つもの風評が流れており兵の士気は下がり気味であった。
「いかぬなこれは、武田の調略にこのままでは靡くものが出かねん」
要害の主将を勤める岡部正綱は浮かぬ顔である。
「氏真様も知らせを受け戻って居るところであるがまだ刻が掛かろう、それまでは固く守るしかあるまい」
「真に、だがそれまで持つかどうか」
朝比奈信置も先頭に立ち要害の兵を鼓舞するがどうしても士気が上がらないのを深刻にとらえていた。
そこに使番が走ってくる。
「ご報告あり!」
「何か?」
「尾張よりの援軍が到着しました。徳川様の旗を掲げています!」
「何と!伊勢長島はもう片付けたのか?」
「いや早すぎる、攻略を切り上げたのだろう」
岡部が驚くと朝比奈が冷静に指摘する。そうして要害内に着いた部隊の将がやって来た。
「徳川が臣、酒井左衛門尉、主家康に代わり援軍の将として参りました」
「長島攻めを中止しての参戦感謝いたす」
「既に長島は平定して御座います、戦後の差配中に急報を聞き参りました」
「何と!もうあの伊勢長島を落とされたのか。流石徳川殿、既にお聞き及びかと思うが御屋形様が身罷られた。徳川殿はいつ到着なさるのか?」
「御屋形様の事お悔やみ申し上げます。主も悲しみ嘆くことしきりで御座いました。この上は敵討ちとして武田信玄の首を取らんと既に我らよりも先に進んでおります」
「なんと!」
「主より武田勢をなるべく長くこの薩埵要害に引き付けて欲しい、氏真の殿を迎えに行き武田を背後より襲うと言付けを受けております」
「後背を、ではまさか」
「はい、あちらで御座います」
酒井が指さしたのは海、駿河湾であった。
◇
伊豆国 長浜城
北条方の伊豆水軍の梶原氏の城に徳川の三つ葉葵の旗が立っている。駿河湾を渡りここにたどり着いた元康の元に旧知の者が尋ねていた。
「久しいな、次郎三郎、此度は御悔みを申し上げる」
そう言って頭を下げるのは北条氏規、韮山を居城とする北条氏康の四男で現当主氏政の弟である。
「助五郎、気を遣わせたようだな、大丈夫だ、我らは御屋形様の仇討ちで気を張っておる。氏真様は戻られたのか?」
二人はお互いに人質として今川家で暮らしていたためその境遇から仲が良かった。
「今、小田原城に軍勢と供に着いたと遣いが届いた。数日中には韮山に着くだろう。我らも向かおうとしよう」
「うむ」
氏規の案内で元康と配下は韮山に歩を進めた。
伊豆国 韮山城
北条氏規が城主を務める城下には今川の軍勢が犇めいていた。関東から戻った彼らは武田の突然の裏切りと御屋形である今川義元の死を知り動揺しているのが見て取れた。
元康は城内の屋敷に滞在している氏真の元を訪ねる。
「元康、父上が亡くなったとは武田の流した誤報であろう?、あの父上が戦場で討たれることなどありえんではないか」
氏真は突如届いた報を信じていない、いや信じようとしなかった。
「殿、いや御屋形様、残念ながら薩埵要害の岡部殿より知らせが我が手に届きました。武田の奇襲を受け深手を負われ今川館まで戻られましたがそのまま…その知らせを受け、一手を薩埵への援軍として送り某は津島より船で伊豆まで急ぎ申した。氏真様、貴方様が今川の御屋形として武田への敵討ちをしなくてはなりませぬ」
沈痛な表情で元康が氏真を御屋形と呼ぶ事で義元の死を告げると氏真は「父上!」と叫び涙を流す。暫く慟哭をした氏真が気を取りなおし元康に向いた。
「取り乱した、済まぬな元康よ、我らと北条との盟約を破り今また父上の敵である武田は赦さぬ、信玄の首を取り父上の墓前に届けるのが最大の供養となろう。直ちに軍を発し武田を討とうぞ」
先ほどまで涙に暮れていた目は今は敵討ちに燃えていた。
「信玄は必ずや討ち取りましょうぞ、その為には策を練らねば信玄を取り逃がすこととなります、信玄は{速き事風の如し}逃げ足も早うございます。策を為すために陣容を整える必要があり申す」
「策があると申すか」
「はい、ここに来るまで手の者に武田の陣立てを探らせておりました。策を弄した信玄を策にて葬る。この元康にお任せくだされ」
こうして今川勢は韮山で休息を取りながら陣立てを整えるのであった。
その頃信玄は粘る薩埵要害に手古摺る武田先方衆を後詰めするため薩埵より数里の所まで本陣を進めていた。
「なに、伊豆より今川勢が現れたと?」
「は、数は一万を超え大宮城に向かっていると、軍の中に今川赤鳥の旗印を確認して御座います」
渡辺囚獄佑は部下の忍びからもたらされた報告を信玄に伝えていた。
「不味いですな、大宮城を囲む山県勢だけでは城方と挟み撃ちになり申す、そうなれば我らは甲斐に戻ることも出来ず袋に囚われることとなる」
馬場美濃守が言うと諸将は渋い顔をする者、隣の者と小声で話す者などが見られた。
「その為にはこの本軍を返し今川勢を山縣勢と供に挟み討ちにするしかない。無論薩埵の連中も意気阻喪してはいるが、我らが引くと追い打ちを掛けてくるやもしれぬ」
「それはあるかも知れませぬが元々士気の下がった部隊、蹴散らす好機ではありませぬか」
馬場の言葉に諏訪勝頼、信玄の四男で諏訪氏の家督を継いだ人物が異を唱える。
「いや、美濃の言は正しい、それに氏真の軍は父親の復仇で猛っておろう、全力で当らぬと不覚を取ろう、抑えの一隊を遺し残り全軍で当るべし」
結局、馬場美濃守の部隊が残りその他は大宮城に向かうのであった。
なおこの小説はフィクションであり登場する人物・団体・組織等は完全な架空の存在です。
御意見・感想ありがとうございます。
ブックマーク・評価の方もしていただき感謝です。
読んでいただくと励みになります。




