十七話 入京
なおこの小説はフィクションであり登場する人物・団体・組織等は完全な架空の存在です。
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山科で敗北した三好方はそのまま総崩れとなった。篠原長房の連れてきた阿波の兵は秩序を保っていたが、全体の士気がダダ下がりでは立て直すのは難しいと判断。京を捨て河内へ下がることとなり、三好義継の籠る飯盛山城に合流するのを目指した。三人衆は芥川山城へ退き其々守りを固めている。一方今川・六角勢は将軍義輝を奉じ山科を抜け入京する。
形勢は完全に決し、去就を決めかねていた近隣の領主たちは将軍の元に遣いを送った。又三好を駆逐する好機とみて兵を連れて伺候する者も現れた。そして又その中に加わる者が現れた。
「朝倉式部大輔、朝倉左衛門督名代として参りました。公方様の御尊顔を拝し恐悦至極で御座います」
朝倉義景の名代として室町第に伺候したのは大野郡司を勤める朝倉景鏡であった。
「御所様は朝倉の忠心嬉しく思うと申されております」
義輝の執事を勤める摂津晴門が義輝に代わって答える。しかし三好と結んでいた朝倉家への視線は将軍義輝以下冷たい。
「有難きお言葉、主左衛門督に代わり御礼申し上げます」
その視線を物ともせず景鏡は頭を下げた。
◆
「朝倉め、食えぬ奴らよ」
景鏡が下がった後義輝がつぶやいた。
「真に、真っ先に駆けつけ山科で先鋒を勤めるならば兎も角これでは」
摂津晴門が答えると居並ぶ幕臣たちも頷く。
「やはり、今川・六角殿が一番頼りになりますな」
大館輝光が追従すると同意する声が上がり義輝も満更でない顔をする。
それを見ながら細川藤孝は内心苦々しい思いを抱いた。今回の京への帰還も元を質せば三好長慶亡き後の三好家との関係を悪化させたのが原因である。三好と協調して政務を行いながら裏で三好を追い落とそうと各地の大名に宛てて幕臣たちに手紙を持たせたためであった。
幕府の権威を保つためとは言え大名同士の争いに干渉し或る時はいがみ合わせ、或る時は勢いを削がせるため敵対している大名を支援する事までやった。大寧寺の変では重臣たちに働きかけて謀反まで起こさせた。大内が帝を山口に動座させようとしており幕府の権威が地に落ちるかもしれないが、であるならば朝廷にもう少し気を配れば良いのにと思ってしまうのであった。
無論それを顔に出すほど愚かではない藤孝であった。
(今は今川・六角を立てているがいつまでそれが続くかだ)
そう思い暗澹とするのであった、
◆
御前を下がった朝倉景鏡は朝倉勢の所に戻っていた。
「ふん、我らに頼まねば京にも戻れぬ奴らが偉そうに」
戻ってから彼は悪態を付き続けていた。そこへ家臣が近づき何やら耳打ちする。すると今までの不機嫌さを吹き飛ばしたように上機嫌になり別室に向かう。
「これは、よくおいでになった」
「式部大輔殿、もう少し早ければ山科で会えたものを」
「これは、我が主殿がゆるりと評定をしていての、兵を集めるのが間に合わんかったのじゃ許されよ」
「それは是非もなし、しからば今後の事を語りましょうか」
◆
京 今川陣所
「やれやれ、ようやく落ち着いたの、元康もよう働いてくれた。山科での先鋒での働き皆が誉めておったぞ」
「汗顔の至りです、逸る者達が突出したので某は冷汗が出ましたぞ」
御屋形様が誉めてくれるけどこちらはそれどころでなかった。前田慶次が一騎掛けで突出したと思ったらそれに引き摺られて本多忠勝まで飛び出した。相手が思った以上に崩れてぐづぐづになってたらから問題なかったがもう一方の先鋒だった蒲生には京しぐさも真っ青な嫌味を言われるし散々だったよ。当然終わった後反省会という名の吊し上げしたんだけどね。
正座している両名を俺と滝川一益が詰めたんだけど忠勝は小さくなってたけど慶次の奴はストレス発散できたのかお肌つやつやになってやがった。しかも慶次は名のある武士を二人も討ち取ってたし忠勝も阿波からの援軍で来ていた篠原勢を突き崩し首三つ取ってるんだよな。
なんか不本意だったよ。
「まあ、これで公方も京に戻れた訳じゃし早々に駿河へ引き上げたいものじゃがな」
御屋形様も足利の遣りよう(悪行)を知ってしまったからさっさと引き上げたい気持ちが強くなっている。とは言え引き上げ時も考えなくては行けない。
「三好が阿波に逼塞するまで兵を出せと行ってきそうですな」
「それは困るの、芥川山城は兎も角飯盛山城まで落とすとなれば幾等かかるか判らぬ」
「六角殿や畠山勢に頑張ってもらうように話しますか」
「真にの」
正直長居すれば幕府の面々に疎まれるの判ってて居たくないよね。
何とか他の面々に擦り付けて逃げ出す算段をしなくては。
◆
一方御所には摂津、河内の領主たちからの使いが多数訪れていた。摂津池田、伊丹、高山等名のある者たちは山科の戦いでは日和見をしており三好方が敗れると直ちに使者を送ったのである。これに気を良くした幕臣たちは戦後の恩賞について話し合いを始めた。
「六角殿には先代の例に倣い管領代に就任頂くというのは如何で御座ろう?」
「それは良い、益々忠勤に励むことでしょう」
「今川殿は如何いたそうか」
「うむ、尾張、美濃守護職に輔任すれば良かろう、先鋒で活躍した徳川殿は今川殿の婿殿とか先の守護職の一つを与えるのも手ですな」
「いかにも」 「同意いたす」
足利将軍家には与える所領も持っていないため守護識や幕府の職等で埋め合わせするという手を使うしかないのだが自力で得た地を褒美にするという発想が見る者からすれば馬鹿らしいというのが判る。それでも六角には山科他いくつかの地が与えられた。これは南近江という京から近い六角を味方につけて置きたいという意思の表れであった。今川にとって畿内に領地を貰っても飛び地ということで統治が難しいと言うことで文句は出なかった。代わりに今川からは探題職を貰えないかと打診があった。嘗て同族の今川了俊が九州探題に任じられた前例を上げて願ったのであった。今川の領地には過去に探題を置いた前例は無かったが名誉職のようなものだと考えられて認められたのであった。これにより新たに{東海探題}という職が作られて義元が輔任されたのであった。




