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とある世界の日本  作者: 高鉢 健太 
チハたん
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チハたん物語(take2)3

 海外で多脚戦車が相次いで実用化される中、日本でも開発が続いていた。


 ただ、先に言ってしまえば日本の工業技術の限界から20tという諸外国の多脚戦車の様な重量は望むべくもなく、チハは15t以内に抑えることを前提に開発されている。


 多くの書籍においてこれは当時の輸送環境からの制約と説明されているののが多いが、それは多くの場合が誤りである。


 たしかに、当時の日本の輸送船ではデリックの重量制限から15t程度の荷物の積み下ろしが限界であったが、白石によって陸軍船舶工兵や海軍では直接車両を浜辺や岸壁に自走揚陸可能なフラップゲート式船舶、いわゆるRORO船や戦車揚陸艦の開発が始まっており、1935年の時点で20t程度の車両を前提に開発が行われていた。


 その為、試製チハの開発にあたっての重量制限は輸送問題から出てきたモノではなかった。


 この当時、チハと共に開発されていた95式軽戦車に代わる機動戦車の重量に関する議論が激しく行われたことを見れば、その主目的は予算の問題であったことが分かるだろう。


 当時、突破戦車として開発が行われてていたチハに要求されていたのは37ミリ速射砲を防ぎながら機関銃トーチカを破壊し、歩兵の支援を行う事だった。

 当時の常識として、多脚戦車の運用は塹壕線における突破力であり、そこで開いた穴から機動戦車を敵の奥深くへと浸透させることが基本とされていた。


 ただ、時代の推移と共に当初は15kmとされていた歩行速度は年々要求をかさ上げし、チハの本格的な開発が始まる頃には時速30kmを要求されるに至るまでになった。


 当時の日本の鉄鋼技術、油圧制御技術では、その様な速度を出せる脚機構が耐えられる重量というのが15t程度とされ、チハの開発はこの制約の中で行われることになってしまった。


 技術的な限界からまず制限重量が決まってしまった事で開発は大きな制約を受けたが、それはある意味では幸運であったかもしれない。

 白石が開発した鉱石管によって他国よりもはるかに小型の制御機構に仕上がった走行部は機体の小型化に貢献していた。

 制御機構が小さく、効率的な制御が出来た事で日本で製造する油圧ポンプで十分な駆動が行えた。


 もし、鉱石管の製造が出来なかった場合、15tに抑えた多脚戦車は十分な防御力を持ち得なかったとされている。

 ソ連やドイツが軽量化を意識しながら20tとなり、英国が防御力を重視したがために人二人が乗るのがやっとの小さな機体しか造れなかったのは、ひとえにこの制御機構にあった。


 チハはソ連やドイツと同等の防御力と火力を備えながら、英国並みの重量に抑えることに成功しており、鉱石管の果たした役割は非常に大きかったと言える。


 ただ、完成したチハは大きな矛盾を抱えていた。


 傾斜装甲を採用し、装甲厚も当時の日本陸軍では最大の45ミリに達する為、コレを撃ち抜ける対戦車砲は無く、諸外国の37ミリ級はおろかソ連の45ミリ砲にも耐えるとされた。

 しかし、それは裏を返せば同等の良好な傾斜を持たせた戦車が出現した場合、日本の戦車砲、対戦車砲が一切無効となることも意味していた。


 当時日本で開発されていた機動戦車の主砲も37ミリであり、将来的に47ミリ砲とする考えであったが、それ自体がチハによって否定されてしまう。47ミリ砲では500メートル以内でなければチハを撃破出来ない。チハ級の装甲を持つ敵に対して、自らの被撃破と引き換えでなければ敵の撃破がおぼつかないのは問題だった。


 その為、47ミリ砲と比較されていた長砲身57ミリ砲の開発が急遽決定した程だった。


 白石はこの問題にも対策を講じており、当時最新のプラスチック爆薬を用いて薄い弾殻に充填し、着弾時に変形させた後、遅延信管で起爆する事で衝撃波によって装甲内壁を剥離飛散させる効果を持つ新砲弾も提案していた。

 これは英国でもべトン破壊を目的に同じような着想があったが、実用化は日本の方が早く、英国が同砲弾を装甲目標向けに完成させるのは日本の砲弾を見ての事だった。


 一般に薄殻榴弾と呼ばれるこの砲弾は短砲身しか積めないチハでも同等の装甲を持つ敵を撃破するために用意された砲弾だったが、後に57ミリ砲を装備した一式中戦車でもM4シャーマンを撃破するために用いられることになる。


 こうして開発された九七式中戦車であったが、非常に高価であったため、日中戦争が本格化していなければ採用自体が危うかったと言われている。

 当時、機動戦車として試作されていた通称ケニ(7t)、そしてチニ(15t)についても、当初はケニの採用が有力とされていたのだが、日中戦争の拡大で予算が確保できたことからチニの採用が決定し、九八式中戦車として採用されることとなった。

 

 そして、1939年に発生したノモンハン事件では、主に八九式や九五式戦車が戦闘に参加し、ごく少数の九八式があるにすぎなかった日本軍は苦戦している。

 逐次投入の形で4機の九七式が投入されたのは、ソ連軍にNT3が現れて日本側にまったく攻撃手段が無かったからだった。


 薄殻榴弾を撃てるチハは当時の日本において最強の戦車といえただろう。


 NT3が日本に与えた影響は計り知れなかった。


 当時、まだごく一部の懸念でしかなかった対戦車戦闘における火力不足が一気に噴出し、九八式中戦車に代わる57ミリ砲を装備した新戦車の開発が性急に求められることになった。それまでのストップギャップとして、九八式にチハの主砲を積むというある種の時代錯誤が行われるに至ったのは薄殻榴弾が存在したがゆえに事だった。


 この薄殻榴弾はM4やT34に対して有効で、終戦まで日本の主力対戦車火力として各種砲弾が開発されている。


 

 

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