チハたん物語(take2)2
さて、ドイツから多脚歩行技術を得た各国はそれをどのように生かしていただろうか。
フランスは残念な事に多脚歩行技術を発展させる資金をねん出する事が出来ていなかった。
当時、多脚戦車は塹壕を超え、対戦車障害物すら乗り越える究極の突破戦車という発想を持って居たため、ドイツ軍が保有するかもしれない多脚戦車への備えをマジノ線に施すための技術資料とされただけで、資金は全てマジノ線の追加工事の費やされることになってしまった。
米国はそもそも、多脚歩行機構の史料を買い取っていない。自国のモータリゼーションに必要と思っても居なかったし、戦車開発も低調であったために興味を示していなかったのが大きかっただろう。
最も関心を示した英国は、購入した技術を大いに活用して開発に乗り出すが、当時、複数の考えによって半ば隘路に嵌り込んでいた戦車開発をさらに混迷させたというのが後世から見た評価といって良い。
しかし、当時はそうは思われていなかった。
当時、新たに考案されていた陸上艦隊構想、いわゆる多砲塔戦車を中心に軽戦車で周りを取り巻く様な陸上を走る艦隊を模した構想に一石を投じた。
陸上艦隊は敵塹壕の無い地域であればその効果を発揮できるとされたが、塹壕に掛かればいきなりその能力は喪失してしまう。
塹壕戦において必要なのは、如何に打たれ強いか、障害を乗り越える力に優れるかだった。
その考えから生まれたのが、マチルダだった。
マチルダは全周を60ミリ装甲に覆われた機体とそこから生える6本の脚によって構成され、機体の底を地面に引きずるような低姿勢から脚を高く持ち上げた歩行まで数段階の制御が可能だった。
ただし、攻撃力は機関銃2丁と非常に貧弱で、敵のトーチカ破壊すら疑問視される有様だったが、制御機構の国産化に手間取り、登場したのが1937年であったことから、開戦までにより強力な機体を送り出すには至らなかった。
当時、謎のベールに包まれていたソ連はその実態を誰も知る事が出来なかった。スペイン内戦に通常型の戦車をいく種類か投入したものの、そこに多脚戦車の姿は無かった。
海外に多脚戦車の姿が知られたのはノモンハン事件によってで、この時日本軍が鹵獲した歩行戦車1騎が世界に知られる最初であった。
ソ連が歩行戦車の開発を始めたのはドイツとの秘密協定によってであった。公式には1931年に技術購入をしてからとされているが、実際には1929年には原型試作が行われ、試験されている。
ソ連における多脚戦車の評価は高く、後に米国から導入したクリスティ式と並行して開発、配備が命令されている。
国土の非常に広いソ連では行動力の高い車両が求められたことからまず普及したのはクリスティ式のBT戦車だった。
スペインには英国から導入したタンケットの派生型であるT26なども投入したが、その薄い装甲は満足できるものではなかった。
ソ連で多脚戦車の開発を精力的に行ったのはミハイル・コーシュキンだった。
1929年に大学における論文でドイツ製多脚歩行機械よりさらに先進的な多脚戦車を提唱した事から、翌年には早くも多脚戦車を専門に開発するハリコフトラクター工場へと配属され、多脚歩行機械の開発に携わることになる。
かれはまず、制御機構の簡素化と整備性を高めるために分割ユニット化を行い、容積では大型化してしまったが信頼性を格段に向上させることに成功する。
その制御機構を用いてまずは試作であるNT2の開発を行うが、当時主砲として指示された37ミリ砲では、多脚の受ける反動負荷が課題になる。
砲側にマズルブレーキの追加や駐退器の改良なども施されたが、結果的に重量増となるだけで根本的解決には程遠く、コーシュキンは軽量で反動の軽い迫撃砲の搭載を提唱することになった。
しかし、37ミリ砲に相応するとなると50ミリ程度の口径であったが、それでは射程が不足する事は明らかで、射程の面から82ミリが選定され、それに合わせて機体、砲塔の再設計まで必要となってしまった。
ソ連においても多脚戦車は突破戦車として考えられており、機動戦はBTが受け持つものとされていた。その為、多脚戦車であるNT2には重装甲が要求され、75ミリの装甲と迫撃砲とはいえ82ミリの大口径砲を装備することから機体の大きさも相まって25tに達してしまう。
これは当時、コーシュキンが想定した多脚戦車の限界重量ギリギリであり、当時のソ連の技術ではこれ以上の物を造り出すことは不可能だった。
そうであっても、ただ動くだけの試験機では許されず、歩行速度を向上させ、防御力や攻撃力を維持した状態で実用化にこぎつけたのがNT3だった。
NT3では傾斜装甲を多用することで装甲厚を減じることで軽量化を達成し、迫撃砲も自動装填機構を省略して簡略化することで小型化、軽量化を行う事で、機体重量を20tにまで減量し、要求された時速30kmを達成して量産が行われることになった。
英国のマチルダが時速13kmでしか歩行できない事を考えるとこれは驚異的な事だった。
多脚歩行機械の発明国であるドイツはどうだったかというと、塹壕戦から機動戦へとその戦略を転換した事で多脚戦車開発の動きは鈍ることになったが、ヒトラーは再軍備宣言と同時に、多脚戦車開発の命令を行う。
これに応じたのがフェルナンド・ポルシェだった。
他のメーカーが履帯式車両を選択する中でポルシェはただ一人、多脚戦車開発へと乗り出す。
彼は白石の様な電子制御の実用化は行わなかったものの、電気機械式とすることで制御速度の向上を図り、ネックであった歩行速度の向上を達成している。
そのことで、当時低速の突破戦車としか見られていなかった多脚戦車の在り方が大きく変化し、コーシュキン同様に傾斜装甲を導入することで防御力向上も達成している。
ポルシェの開発した多脚戦車はLanzeKäfer(槍の甲虫)と呼ばれることになる。
実用化された多脚戦車はLzk105とよばれ、全周を50ミリの傾斜装甲で覆われ、砲塔には主砲として5cm砲を備えていた。重量は20tあるが時速35kmでの歩行が可能で、NT3に勝っていた。
ポルシェはさらに大型の砲を備えた多脚戦車の試作を行うが、脚が衝撃を吸収出来ず、実用化されるには至らなかった。
しかし、甲虫の名を冠したように、後に駆逐戦車として無砲塔の機体に7.5cm砲を装備した機体は、まさに甲虫のソレであり、今ではLanzeKäferといえば、駆逐戦車型のLzk215の方が有名なほどである。
7.5cm砲を載せたLzk215は脚を強化したり反動の受動吸収が出来るようになったという訳ではなく、射撃の際には脚を上げ、車体で反動を受けることで損傷を回避しているに過ぎなかったが、その姿勢がさらに昆虫らしさを醸し出す事から、アニメ化によって人気が出るようになる。




