チハたん物語(take2)
味気なかったのでtake2はもっと各国の多脚を活躍させようと思います。
九七式中戦車、或いはチハとネット検索をすれば出て来るのは可愛らしいキャラクターやそのもとになったアニメだ。
今ではチハたんといえば一世を風靡したブームとして知る人も多い。
では、そのもとになった九七式中戦車はアニメの様な戦車であったかというと、少し事情が異なるのだが、アニメの影響か、そこまで悲観的な見方をされている訳でもないらしい。
九七式中戦車が開発されたのは1937年のことで、九七式という名称になったのは当時の日本が皇紀という年号を使用していたためだ。1937年は皇紀2597年に当たっていたため、九七式と命名されている。
この頃はちょうど多脚戦車時代と呼ばれる時期であり、各国で盛んに多脚戦車が開発されている。というのはアニメでも語られている事で目新しい話ではないだろうし、軍事史においても一つの隘路として有名である。
戦車の歴史は第一次世界大戦に当時普及が始まっていたトラクターに装甲を施し、騎兵に代わって戦場での機動戦力とする考えから生まれた戦闘車両である。
当時すでに自動車に対して装甲を施し、機関銃を搭載する事は行われていたが、当時の自動車では不整地走行は不利であった。そこで、履帯を備えたトラクターを改造するという発想が生まれてくることになった訳だ。
この着想は図に当たり、見事に戦場をかく乱する戦果をもたらすことになったが、新たな戦法が生まれるとそこに対策がなされるのも常であり、当時の薄い装甲を撃ち抜く対戦車ライフルの登場や対戦車壕、対戦車障害物などが次々と考案されていった。
戦車は人が籠る塹壕を乗り越える事を前提にした造りをしていたが、戦車が嵌り込むように広く、深く作られた対戦車壕に嵌って身動きが取れなくなり、鉄条網やコンクリート、金属の障害物を設置して通行を妨害され、行き足が鈍ったところを歩兵が携行できる対戦車ライフルで狙い撃たれるという事態が発生していく。
戦車側の対策もなされはしたが、車体が無駄に長くなったり、当時の技術では容易に解決できない重量増を要求されたりと、戦車単独で問題解決を図る事は次第に困難になって行く。
当然、戦車が活躍すればその有効性を知った敵も使い始めるのは当然で、双方での開発競争も起きてくる。
とっても、現代の様な確立された戦車の在り方が存在する訳でもなく、様々なアイデアが戦場で試され失敗を繰り返していたのも事実だった。
そうしたアイデアの中に、現在の戦車の基礎となるルノーFTのような戦車の完成もあった。
そして、終戦間際にドイツで開発されたのが多脚歩行機械だった。
多脚化によって超壕性能は飛躍的に向上し、履帯や車輪によらない駆動によって鉄条網や対戦車障害物への対応力も格段に向上していた。
しかし、実機が完成する以前に戦争は終了し、ドイツは混乱の最中でこの技術を秘匿する事に努めることになる。
その結果、厳しい賠償と軍備制限を課されたドイツにおいて、全く新しい多脚歩行機械は何の制限もなく研究開発が行える環境が出現することになった。
しかし、当時のドイツで多脚歩行機械を開発するのは非常に困難な事だったと言える。
軍備制限によって戦車も飛行機もその開発が厳しく規制されているため大手を振って戦車に代わる戦場の新兵器として開発する訳にも行かなかった。
そのため、まずは農業や林業用という名目での開発が行われ、装甲を纏わない骨格だけのシロモノとして開発されていく。
その姿から欧米ではスケルトンと呼ばれ、後に実用化したタ脚戦車もタンクではなくスケルトンと呼称される由来となっている。
このように開発こそ進める事が出来るようになったのだが、すべてが順風満帆だったわけではなく、その複雑な構造と車輪や履帯ではなく脚構造から来る脆弱性に悩まされることになる。
そして、開発がある程度進んだ段階で、予想された履帯式装甲車両に比して速度の遅さが指摘される事態にも直面していく。
その様に今後の開発の在り方が問題とあった時に起きたのが大恐慌だった。
ドイツもその影響をもろに受けて開発費の捻出にすら困る事態となり、多脚歩行技術の海外移転によって資金調達を行うという方針が撃ち漁れることになる。
この当時、英国を中心に戦車より優れた不整地走破性を示す多脚歩行機械への関心は高く、新型戦車を履帯ではなく多脚に出来ないかという試みが行われているところであった。
最先端を走るドイツでは、速度が履帯に比して劣ることが判明していたが、他の国々では未だその様な事情を知る由もなく、関心は非常に高かった。
ドイツ側が技術売却を決めた背景には、将来的な発展性が乏しいという予測があっての事だったという。
当然、この話に英仏は飛びついた。さらに日本やソ連もそれに倣った。
その売却額はドイツが予想した以上の物で、英仏は気前よく賠償金の減額にまで応じるほどで、ドイツ側を驚かせたという。
その後の多脚戦車開発を主導したのは戦車発祥の英国で、フランスには開発資金が足りなかったことから出遅れることになった。
当のドイツは軍事利用が制限されていたためにあくまで産業用に留めただけであったというのが表向きだが、多脚の欠点を理解した事で開発速度を落としていた。
そのような多脚ブームの中で技術を買い取った日本でも開発が始まるのだが、そのあまりにも高度な技術の塊に手も足も出なかったというのが当時の実態であった。
多脚歩行機械の制御は複雑に造られた歯車式の機構によって制御されていたが、当時の日本でそれを造り出すのは至難の業であった。
もし、歯車機構に頼っていた場合、日本は多脚歩行機械の開発から脱落するしかなかった。
ただ一人、まるで違う解決策をもって開発に当たった白石国倫だけが、意気揚々と開発に乗り出しているだけであった。
彼はドイツから技術を購入する以前の段階から多脚機械に必要な技術として、当時の日本が有していない鉄鋼、機械、溶接、電子といった分野の必要性を認識し、多方面での技術導入や開発にも尽力していたことで知られている。
オカルト界隈にも多くの逸話を残す白石には、ドイツから技術取得した1931年の段階で2009年に白石農機が発売した多脚型移植機を既に設計していたなどという話まで存在するが、さすがにそれは荒唐無稽だろう。
彼はまず、多脚を構成する素材として、当時最先端の合金鋼の利用を提唱した。その開発自体が彼の掛け声ではじめられていたもので、技術購入の時点でそれが必要技術であったことを知った軍や産業界が驚愕したともいわれている。
さらに、当時の日本では再現不可能と判断された機械式制御機構を代替する電子式制御機構の開発にも成功してしまう。
当時、白石が偶然成功させたゲルマニウムの高純度精製によって、真空管に代わる鉱石管なるモノの開発に成功した事がその発端であったが、その制御機構はあまりにも初歩的なモノといって良かった。
そのことは当時、白石も自覚していたことが今に伝わるが、機構の改良や高性能化のために真空管を用いようとして失敗した英国とは好対照だったと言えるだろう。