らのべっぽいみたいな回想録 19
1945年2月、満州においてもソ連軍の攻勢が開始された。
しかし、対抗する日本軍もその守りは硬く、強固にソ連軍の進撃を阻んでいた。その先頭にあったのは三式戦車や火砲ではなかった。
九九式軽双発爆撃機の後継として配備が始まったジェット攻撃機「火龍」、ソ連兵士からは空飛ぶ重戦車と呼ばれた──これが猛威を振るったのだった。
「火龍」はオーソドックスに胴体後部にエンジンを配した低翼の機体で、飛び抜けて異端ではなかった。「疾風」の先尾翼に比べれば、ありふれた機体構造と言えただろう。
しかし、その性能はそれまでの陸軍系攻撃機を遥かに凌駕し、一昔前の重爆を超える3tの爆装が可能だった。その搭載量でもって700km近い速度で飛ぶのだから、レシプロ機での迎撃は難しい。
しかも、初期のジェット機の常である戦闘機と攻撃機の境が曖昧であるため、機関砲も装備して迎撃機としても利用されていた。
対地攻撃においてはタ弾と呼ばれるクラスター爆弾を多用して、押し寄せるソ連戦車の津波にしがみつく歩兵を薙ぎ払い、機関砲によって戦車の上面装甲をも貫き、次々と撃破していった。
後方で準備射撃を担うはずのカチューシャロケットもタ弾で薙ぎ払う事で日本軍の損害を少なく抑えるに成功していた。
こうした日本軍のジェット機に刺激を受けて米軍もP80の実戦配備を急いだのだが、あまりに性急な配備に現場が付いて行けず、シベリアやカムチャツカに機体こそ送られたが、未だ飛行できる状態ではなかった。
ソ連軍の攻勢は非常に中途半端に終わる。というのも、この頃、ペルシア回廊ルートの回復が行われようとしていたのだが、その拠点となるテヘランはドイツの攻撃圏にあり、補給量は極僅かで推移していた。ムルマンスク鉄道の断続的な寸断で輸送が遅々として進まず、シベリアルートは航空輸送のため多大な輸送量に比して、その輸送内容は貧弱だった。
この頃の北方戦線は空母対決による痛み分けを挟んで、ダッチハーバーやペトロパブロフ・カムチャツキーへの「桜花」攻撃によって米ソ側が多大な損害を受けていた。
カムチャツカにおいてはその損害は顕著で、容易に補給や補充が出来ないソ連に対し、基地がほぼ米軍に占有される状態になっていた。
シベリアにおいても続々と増強される米航空戦力がソ連指導部には脅威となって来ており、戦力駐留の代償としてソ連へのB29やP80と言った最新兵器の供与、更には技術譲渡まで要求されていた。
時の米大統領はそれを容認していたのだが、4月12日、脳溢血により死去し、大統領の席に着いた副大統領が執務室の机の引き出しから発見した書類には驚愕の内容が記されていた。
当時の米国は核開発を行い、彼にとってそれは確かに驚愕に値したが、より取り扱いに困ったのが、後に言うヴェノム文書だった。
日本においてソ連スパイ摘発とそれに関連した工作員捜査を記した書類だったが、そこには米英の中枢に在籍する人物の名が記されていた。
前大統領は送還された駐日大使へ日本側から手渡された捜査資料によって米国にソ連工作員の可能性がある女性記者やその関係者の存在を知らされていたが、一切取り締まりを行ってはいなかった。さらに、「帝国の5人」なる見出しの元に英国中枢にいる5人のスパイの名前が記されていたことについても黙殺していた。
彼はその扱いを躊躇ったが、まず、ソ連から要求されている最新兵器の供与や技術譲渡を拒否することを決定した。
ソ連の反応は過剰なもので、5月初めにはソ連領内からの撤退を要求してくる。シベリア、カムチャツカの使用料として要求された金額はレンドリースによって供与した兵器、弾薬の総額を超えており、全く容認できるものではなかった。つまり、レンドリース料の棒引きに追加の無償供与まで要求したのである。
そうした混乱の最中、ドイツでも政変が起きる。
ドイツ総統が4月30日、突如倒れて5月8日に死亡が公表され、国家元帥が代行首班として政権を引き継ぐことになった。
5月10日には米国政府はドイツ政変によってソ連へのレンドリースは必要なくなったと宣言してシベリアから撤退を表明した。しかし、カムチャッカは対日戦の拠点として貸与を要求、米ソ対立が始まることになった。
ソ連が素直に米国の宣言に応じる事は無く、即時シベリアに駐留した米兵を拘束し、兵器をすべて接収してしまう。
すでに600機に達したシベリア駐留のB29はそのまま対日攻撃に利用され、米兵は銃を手にしたソ連兵を連れて日本への爆撃に飛び立つ状態が現出した。
その後の対日爆撃は無謀と言って良いものとなり、5月20日には稼働220機による低空侵攻爆撃が強行されるに至る。
これまで通常の高高度進入を行っていたが、日本側の迎撃がジェット機であるためその排除はほぼ不可能で、ただ被害を増やすだけで効果を上げる事が出来ていなかった。そこで考え出されたのが、レーダー探知を遅らせる低空進入だった。操縦する米兵はそんな訓練はしていない。しかし、要求するソ連兵に反抗すれば問答無用で射殺されてしまう。その恐怖のなかで米兵は強要された作戦を実施するしかなかった。
220機は沿海州を越えると高度を落とし、1000m以下という低空を飛んで日本を目指した。速度と高度を考えればシベリアの基地への帰還など望むべくもない。しかし、そんなことを知らされていない末端のソ連兵は米兵の抗議など一切受け付けずにただ低空飛行を強要するのみだった。
このような低空進入を想定していなかった日本側も対応が後手に回り、秋田上空ではほぼ自らロケット弾を街にばらまく様な不手際すら引き起こしてしまう。
そのことで攻撃を躊躇する中、爆撃機はひたすら東京を目指し、21日未明には残存する72機が東京上空へ侵入した。それまでの撃墜によって、墜落機の周囲には毒ガスに侵され近寄れなくなっていたが、情報が錯綜する中で東京にそのことは伝わっていない。
盛大に対空砲が打ち上げられる中、ある機は火を噴きながら墜落し、生き残った機はただひたすら東京へと爆弾を降らせることに成功した。
投下したすべては毒ガス弾であり、この攻撃で10万人を超える死者を出し30万人を超える後遺症を抱える被害者を生んだが、米兵たちは何を投下したかすら知らされてはいなかった。日本側は米ソの対立は把握していたが、この攻撃をどちらが主導したかを知るすべを持たなかった。
日本はこの攻撃に報復として伊400潜水艦による西海岸攻撃を計画し出航させる。当然、弾頭には毒ガスが充填されていた。
米国が事態を把握したの1週間後、日本が対米報復を表明した時だった。ソ連は完全に攻撃について沈黙を貫き、一切の声明を出していない。
事態はその間にも進行し、残存機するB29に加えて飛べる大型、中型米機を総動員して満州、日本に対する毒ガス攻撃が行われ、日満では総計200万人に及ぶ民間、軍人への被害が出ることになった。この攻撃に一切、紅い星を付けた機体は使用されていない。もちろん、前線ですら使用されないという徹底ぶりだった。
しかし、日本へ飛んだ双発機が1機、監視のソ連兵を殺害して日本の飛行場へと着陸に成功し、事態が露見することになった。
直ちに潜水艦へと攻撃中止が発せられ、毒ガス配備を進めていた占守でも準備が停止されている。
この毒ガス攻撃強要で米ソ関係は決定的な亀裂が入り、大統領はヴェノム文書を基にした「赤狩り」を推し進める決断を下す。




