らのべっぽいみたいな回想録 18
1944年12月、世界の地震観測所では日本近辺を震源とした巨大地震が観測された。
米ソはこの地震を好機と攻勢準備に入るのだが、実際の影響は限定的であったことなど彼らは知る由もなかった。
当時、名古屋に航空産業の一大拠点がある事は周知の事実だったが、援蒋ルートが遮断された1943年から九州振興策として軍需工場が建設されることになった。
こうして1944年には九州にいくつもの工場が出現した事で生産力が大幅に強化されると共に、地震の被害による損失すら補填できるほどになっていた。
そんなことは露と知らない米ソ両国は、日本の工業力、特に航空生産力が半減したと予想して作戦を練っていたのだが、そもそもが旧式の零戦や「烈風」を中心に生産していた名古屋の工場に対し、九州では海軍が新たに開発したレシプロ艦戦「台風」の生産が軌道に乗っていた。
「台風」は日本が唯一開発した18気筒エンジン、ハ43を装備する艦上戦闘機であり、当然その設計思想は零戦のそれを引き継いでいた。しかし、同時期に液冷エンジンの限界を感じていた三式戦闘機に金星エンジンを装備した三式戦闘機三型が、ドイツから購入したFw192の排気管処理を参考に性能を向上させたことを目の当たりにして、同様の処理が行われ、より一層の高性能が得られている。奇しくも、米国で開発されていたF8Fベアキャットも似たような設計思想であったのだが、この頃のレシプロ戦闘機にとって、そのデザインこそが最適であったのだろう。なお、外国では今でも「台風」の事を和製ベアキャットと呼ぶ場合もあり、日本においてもベアキャットの設計図を盗んだ日本が「台風」を作った等と主張もされているが、機体構造がまるで違う事を考えると、その様な主張はただの言いがかりでしかない。
しかし、物語では「台風」の開発にあたって、ベアキャットの性能や外観を元に比較検討されたとされているが、ベアキャットの開発時期(1943年11月開発開始)を考えると、それより先(1942年8月)に開発に入ることなど到底不可能である。
なお、軍事関係の知識にある程度の興味を持つ人には、「台風」の外寸は零戦に近いベアキャットではなく、シーフューリー並みの大型機だという事は常識である。この結果が、ジェット機の発展で早期退役してしまったベアキャットと、多用途機として長年運用された「台風」の違いと言えるだろう。
1944年12月に発生した遠州沖大地震の結果、海軍は母艦航空隊へ配備可能な機体が「台風」一機種になるという大惨事に見舞われることになる。「彗星」や「烈風」といった東海一円で生産されていた機体が入手できず、損耗の穴を埋めるのが「台風」だけとなってしまった。
この結果、元から戦闘爆撃型として設計されていた「台風」は2月には早くもその胴体下にケ号爆弾を抱いて出撃することになる。
1945年2月の北方戦線では攻勢のために増強されつつある航空戦力に加え、海軍も加わって一大攻勢が行われることになった。
この時、日本海軍は保守部品の不足から「彗星」の飛行可能機が不足し、本来二線級と見做していた「天山」艦攻を投入するしかなくなる。
しかし、「彗星」三三型の様な高速機を前提にした編成に移行しつつあった当時の攻撃隊には最高でも450km程度の機体を使う事に不安があった。
実際、海戦においてはその不安が的中し、なけなしの「烈風」隊による掩護むなしく、多くの天山が失われてしまう。
その結果、艦隊直掩として配備が始まっていた「台風」に急遽ケ号爆弾を取り付けて第二次攻撃隊を編成するという行動に出たのだった。
「台風」は2300馬力エンジンでもって爆装して「彗星」三三型並みの高速飛行が可能であったことからその後も戦闘爆撃機としての運用が行われていくことになる。
当然、爆撃後に燃料の余裕があれば戦闘機として運用され、空母部隊では非常に重宝されることになった。 これが現代空軍の主力であるマルチロール機の先駆けとなったことは最早言うまでもない。
このように、日本が北方戦線に集中できたのは、インド洋にいた英軍に年明け早々に打撃を与えていたことが大きく影響している。
その主役は伊400型潜水艦だった。
伊400型の主要な武器は今でいう巡航ミサイル、特殊爆弾「桜花」だった。
このころドイツにおいてもFi103という同様の特殊爆弾が使用されていたが、あちらの攻撃精度はお世辞にも高いとは言えない。
それに対して「桜花」の攻撃精度は非常に高く、攻撃成功率は7割を超えている。この差は搭載されたシステムの差にある。
Fi103は主に慣性航法によって誘導されたのだが、その完成度は低く、大都市などを狙ってさえ到達は覚束なかった。対して「桜花」に採用されたのは、慣性航法に逆探や電探を組み込んだ非常に高度なシステムであった。
このシステムを作動させる事が出来たのは当時日本だけで、その根幹となったトランジスタ(当時、鉱石管と呼んだ)の開発が無ければ不可能だった。
鉱石管の元となる論文は1925年にはカナダにおいて特許出願がなされていたが、必要とされる高純度のゲルマニウムの取得が非常に難しく、実用化は程遠かった。
日本においては当時、すでにシリコン素子の開発が始まっていたのだが、その材料取得や精製技術の開発が出来ず、たまたまその過程で発見した高純度ゲルマニウム精製法によって1936年には鉱石管の開発に成功している。
その利用法については試行錯誤が続いていたが、1943年には一定の成果が出たことで一気に実用化の道が開け、ケ号吸着爆弾や「桜花」の実用化につながっている。
「桜花」はまず、逆探を用いた電波誘導によって飛行する方角を決める。発射後は慣性航法によって飛行を安定させ、最終的に本体に搭載した電探を作動させて攻撃目標を定めることとなっていた。この複雑な制御機構を小型飛行機程度の機体に搭載するには、鉱石管の完成無くしては不可能な事だった。
そして、「桜花」の推進装置はFi103の様なパルスジェットではなく、ネ20が搭載されていた。
このため、速度もFi103より高速で、760kmで巡航する事が出来た。
伊400型2隻は大晦日にアッズ環礁沖に現れ、搭載した各4基の「桜花」を発射している。アッズ環礁にはその内の6基が到達し、搭載した電探を作動させて在泊する大型艦に突入すると、巨大なキノコ雲を発生させた。
もともと命中精度が疑われたこともあって、弾頭には新しく開発された燃料気化爆薬が搭載され、広範囲に爆風効果をもたらすように意図されていた。
同じころ、別動隊はボンベイにも進出し、そこでも12基の「桜花」を発射して8基がボンベイを襲っている。
偶然にも司令部を加害範囲に収めたことで英印軍は完全に機能がマヒして3か月近くに渡って機能不全を起こすことになった。
さらに、潜水艦による攻撃と知らず、攻撃を仕掛けたであろう空母部隊に怯え、インド洋で無駄な捜索活動を行って無為に戦力を散逸させることになってしまっていた。
太平洋においても北方戦線たけなわの3月、潜水艦隊はダッチハーバーを襲撃し、地勢の関係で目標命中は3基と少なかったものの、米軍を混乱させ、アッツやカムチャツカへの米軍増援を遅らせることに成功している。




