らのべっぽいみたいな回想録 15
1944年6月、ソ連は東部戦線において反攻作戦を開始するが、その攻撃はそれまでに比べてあまりにも精彩を欠いたものとなっていた。
その原因は、満州への侵攻で無暗に新たな戦線を構築してしまい、所定の物資が集積できなかったことにある。
一方で対するドイツは攻勢作戦を予期しており、それを受け止める準備に余念がなかった。
結果、ソ連軍の攻勢は見事にドイツ軍に吸収されてしまい、攻勢開始7日後には停止を余儀なくされた。
同時期、日本ではアリューシャンからシベリアへの航空輸送量の増加を確認している。
それが何を意味するのかは測りかねていたが、海路が使えないことで空路輸送を行っているのだろうと判断していた。
しかし、そうではなかったことを8月に知ることになる。
1944年は米国大統領選の年である。現職大統領は戦時中であることもあって4選という前代未聞の事態にも誰も異議を唱える事が出来なかった。野党も攻勢に出ようとするが、戦時中の政権交代というリスクに有権者の反応は鈍い。
しかし、大統領には大きな弱みがあった。
いくら報道規制を敷いたとしても、負けている戦いを大勝利などと伝える訳にはいかない。大敗北を過小に報道できれば良い方だった。
すでに対日戦線ではフィリピンを失い、ハワイにも攻撃が行われたことは米国内で報道されている。逐次の報道で複数回の海戦での被害のように見せかけながらも、海軍艦艇の損害も隠し通す訳にはいかなかった。
対独戦線にしても、英国支援として英本土からの爆撃での多大な犠牲を隠し通す訳にも行かない。北アフリカにおける上陸作戦の失敗もである。未だアルジェリアの地すら踏み込めていない状況ではどう虚勢を張っても支持を集められるものではない。支那に入り込んだ義勇軍名義の米軍への補給は途絶えて久しく、支那から日本を狙う事もまず無理だった。野党がそこを突いて来ている以上、何らかの戦果が必要なのは明白だった。
しかし、英国からの爆撃で目新しい成果を求めるのは難しい。北アフリカで即時的な攻勢を行う事も現実的ではなかった。
唯一可能性があるとすれば、日本本土への爆撃というのが、米国内での結論と言えた。
1944年春の段階での日本軍戦闘機と言えば、ゼロ戦、その後継として多少大型のエンジンを搭載した烈風、空軍の一式戦闘機や迎撃用の二式戦闘機。液冷の三式戦闘機。
空力的には優れた機体ではあるが、14気筒エンジンであり馬力は知れていた。速度もせいぜい600km少々であり、高高度性能は望みようがないものとみられていた。
ドイツで損害が多いのは、昼間に敵戦闘機が飛び回る中高度を飛行しているからであって、高高度を飛行できるのであれば、昼間飛行でも問題ないと思われた。
ただ、英国に展開している機体はB17が中心だったが、新たにソ連の基地に展開したのは最新鋭のB29だった。最新技術をつぎ込んだ機体はB17を完全に時代遅れにしたと自負できるもので、強力な火力と高高度性能、速度をもってすれば、戦闘機を随伴せずとも日本軍の迎撃を受けるはずがなかった。
8月14日、シベリアに展開したB29は100機を数えたという。この日、所定の物資が揃った事で最初の東京爆撃が敢行されることになった。まずは大事を取って夜間爆撃を行う。
編隊が日本海へ出た頃には日付けが15日に変わろうとしていた。それまでは順調な飛行だった。
北海道を左手に見ながら飛行していたが、迎撃機が上がってくる気配がない。仮に上がってきたとしても、こちらの高度は1万mであり、日本軍機ではこの高度に到達した頃には遥か後方に置き去りになっている事は間違いなかった。
そのまま飛行を続けて牡鹿半島上空から本土を横断して太平洋へと出る。そのまま西へ進路を取って東京を目指す。当初予定したコースを何の障害もなく飛行していた。
牡鹿半島へと接近したあたりから日本軍機が上昇しているのを何度か確認はしていたが、どれも上がってはこれ無かった。B29に対抗する日本機なし。太平洋へ抜ける頃の編隊ではそう判断していた。
しかし、このころすでに上方2000mには日本軍機が待機していたのだが、彼らが上方に警戒の目を向けることなどありはしなかった。
日本軍が攻撃を開始したのは十分海へと編隊が進路を取った後の事だった。
突如としてB29編隊は花火に包まれた。その飛散する火の粉によって10機近くが被弾した。
日本軍による攻撃であることを見て取った編隊は密集隊形を取って下方の警戒を密にしたが、銃弾は上方から降り注いできた。
慌てて見上げた時にはさらに火を噴く機体が増えていく。
結局20分程度の攻撃で三分の一を失い、見たこともない高速の機体が姿を消した。
すると、今度は前方から火を噴く物体が突入して来たかと思えばまた爆発して、花火のように火の粉を振りまいた。
そして、今度は上方も警戒していたのだが、予期せぬ前方からの攻撃で次々と被弾機を増やしていった。
あまりにも被弾機が多いので高度を落とす機が大半だったが、すでに霞ケ浦上空が目前で、高度を下げた機体には待ち構えていた日本軍戦闘機が次々に襲い掛かることになった。
結局、東京に侵入できたのは12機だけであり、爆弾投下を行ってシベリアへと帰り着けたのは4機でしかなかった。
40機あまりが撃墜され30機ほどが太平洋や日本の陸上へと不時着した。日本本土を離脱できた20機の中で16機は被弾がもとで沿海州や日本海への不時着を選んでいる。
帰還した4機がもたらした情報は衝撃的だった。
日本がレーダー網を完備して迎撃態勢が整っている事は事前に分かっていたが、ジェット機を既に実用化して実戦配備までしている事は想定外だった。2000馬力級レシプロエンジンの機体すら実戦配備していない国がジェット機を実用化しているなどと予測しろという方がオカシイ。誰が考えてもそうだろう。
しかし、日本は違った。
日本では1939年の段階で新規のレシプロエンジンの開発をすべて中止していた。
当然だが、飛行機メーカーも軍も反対した。しかし、覆る事は無かった。
そのうち、エンジン技師は空軍技術研究所、通称技研へと招聘され、一基の試作エンジンを見せられた。
それが日本が最初に完成させたジェットエンジン。ネ12であった。会社や組織といった既存の枠組みを超えて、速やかにこれを実用化する。そう、檄を飛ばされた技術者たちは、その日からその開発に没頭することになった。
開発当初の稼働時間は僅か20分程度でしかなかった。1941年においてすら、何とか10時間を超える程度であった。
しかし、ブレークスルーは1942年に起きた。
それまでブレードは溶接や蝋付けが行われていたのだが、差し込み式にしてはどうか、という発想がでた。実際にそれを試してみたところ、なんといきなり50時間をも超える連続運転が可能となった。
それから1年ほどかけ、ようやく500時間の連続運転にも耐える耐久性を発揮できるものが出来上がった。
1943年8月に出来上がったネ20は乾燥重量490kg、推力510kgであった。 しかし、既に実用エンジンとして新規に設計されていた重量820kg、推力1090kgを誇るネ210が9月に完成したのであった。
それに合わせるように機体の設計も行われていた。
まずは試作機が作られ、そこに試作エンジンであるネ17を装備して飛行試験を行い、後は実用エンジンの完成を待っている状態だった。
ネ210の完成に合わせて機体の再設計も行われ、1943年10月にはエンジンより少し遅れて完成。12月には早くも初飛行を行い、1944年3月には量産が開始されるという異例の早さだった。
しかし、そのような突貫作業にも関わらず、欠陥らしい欠陥は見受けられなかったのだから、まさに驚異的の一言に尽きる。
機体は先尾翼という独特な形状であり、1938年からグライダーによる飛行試験が行われ、1942年には実際にエンジンを積んだ試作機へと段階を移行した。この頃にはレシプロ型の開発案もあったものの、これは時速740kmという高速だが、実用高度が8000m程度しかなく、完成時には既に陳腐化している恐れがあったため、結局開発は行われていない。仮にこの時点で排気タービン付きエンジンが存在したのであれば、もしかすると開発されていた歴史もあり得たのかもしれない。
こうして多年の研究、試作によるデータをもとに造り上げたのが、四式戦闘機「疾風」であった。




