らのべっぽいみたいな回想録 16
四式戦闘機「疾風」は3月の量産開始から日産1機ペースで生産されていた。
8月の米爆撃機来襲時の実戦配備に就いていたのは30機あまり、50機ほどが転換訓練を終えて実戦部隊での訓練を始めたところであった。
沿海州から高高度で侵入してくる機影を確認した日本空軍は慌てて迎撃を行おうとしたが、高度1万mに届くような機体は北海道や東北にはこの頃配備されていなかった。三式戦が押っ取り刀で舞い上がったころには到底追いつけない程に距離が離れていたという。当然ながら、一式戦や二式戦がそう容易く1万mに駆け上がることなど出来ない。
実戦配備された「疾風」はまずは帝都防空のために関東に配備され、訓練中の50機も故障時の修理を考えて関東において訓練中であった。
それがこの場合は幸運を招いたと言って良い。
ただ、その装備は到底褒められたものではなかった。
ソ連の侵攻を全く考慮せずに開発が行われていたため、本来装備するはずだったロケット弾はこの時点でまだ配備できる状態ではなかった。
そのため、「疾風」の実戦配備に合わせて、ロケット弾の弾頭と信管を利用した対空爆弾が急遽開発されて装備されることになった。
もとは海軍が開発していた焼夷爆弾である三式弾を対空用に改良した焼夷弾頭をロケットに用い、電波信管を備えることで敵編隊へと投射して攻撃を行おうとしていた。
当初は弾頭を30kgで開発されていたのだが、それでは爆撃機編隊に対して威力過少との意見が出たことで、途中で50kgへと大型化されることになった。
当然、そうなるとロケット本体から作り直しになる。
この仕様変更が決まったのが6月の話だった。どう考えても8月に間に合うはずはない。実際、ロケットが量産されたのは翌年2月の事だった。
そのため、7月から実戦配備となる「疾風」に装備できるように、30kg弾頭と電波信管、そして時限信管を組み合わせた爆弾が急遽製作され、とりあえずそれで急場を凌ぐことになった。
さらに、開発時点では電探装備を標準化することになっていたのだが、機上電探の量産も間に合っていなかった。
量産開始の3月の段階では月産10基が精々で、6月になっても月産20基に達していなかった。そのため、実戦配備、転換訓練修了の80機の中で電探を装備していたのは32機しかなく、爆弾を運用できたのがこの電探装備機だけだった。
そのため、空襲当日には実戦配備機の12機が第一波攻撃隊に加わり、緊急に招集された第二派に20機が加わっていた。
そのため、B29より上方から投下された爆弾は、この32機からの64発だった。
その戦果は6機の撃墜に留まっていた。
いくら電探によって距離が分かるとはいえ、ロケットならまだしも自由落下爆弾では風や投下タイミングで編隊から逸れてしまう物が多数あった。
この惨状から、とにかくロケット弾の早期量産が必要と試作段階に入っていた30kg型の試作を急いだ結果、翌年2月の量産に結び付いている。50kg弾頭型の完成を待っていたのでは、ほぼ1年を要することになっていたと言われている。
結局、この時勝敗を決したのは、「疾風」に初めて採用された四式三十粍機関砲であった。開発名称はホ105で、ドイツで開発されていたMk108と非常に似ている。初速が遅く、対戦闘機用には向かなかったが、大口径であるため爆撃機に対しては威力を発揮した。B29といえども2、3発も受けてしまえば墜落は免れなかった。
そもそも、ネ210を装備した「疾風」は対爆撃機用の迎撃機でしかなく、戦闘機の相手が出来る機体ではなかった。
本命はネ230(推力1450kg)を搭載した二型で、その完成は1945年5月まで待たなければならなかったが、物語によると、1944年10月までに最低でも100機を実践配備する必要があるという未来人の提言で性急に対爆撃機型が生産されたのだとしている。
実際、物語の話を裏付けるように二型の量産が始まると一型は当然のように生産を中止している。ちなみに、二型に搭載された機関砲は四式ではなく、長砲身の五式三十粍機関砲であった。
さて、米国は8月15日の爆撃が部隊の壊滅という結果に終わったことに衝撃を受けたが、それをもって爆撃作戦を止めるほどお人好しではなかった。
8月30日には機体、搭乗員の補充を受けて第二回の爆撃を今度は北海道に行い、ジェット機が配備されていなかったためにコレを成功させている。
9月1日には米国では大々的に日本本土爆撃の成功が報じられているが、半月前の惨劇については一切触れられることは無かった。
この爆撃成功報道によって厭戦機運が高まっていた国内世論は一気に大統領支持に揺れ動いた。
そして、急ピッチで施設の復旧を行っているハワイへと集められるだけの戦力を集める作業が進んでいた。
それは取りも直さず、選挙前に大勝利の報を届けるためだった。
1944年10月24日、米大統領が期待してやまない第二次マリアナ海戦が始まる。
米海軍は11隻もの中型、大型空母を太平洋へ展開させ、マリアナへと送り出した。戦艦もアイオワ級4隻、アラスカ級3隻、サウスダコダ級1隻を揃えていた。
たいして日本側は空母10隻、戦艦8隻を繰り出す。
米側は戦艦同士の戦闘となれば不利となることを懸念して、まずは航空攻撃で日本側の航空戦力を叩いてしまう作戦を採り、事実上の空母対決がここに行われることになる。
日本側の主力艦戦は「烈風」だった。
烈風は零戦を金星エンジンに最適化して再設計された機体で、最高速度も空戦能力も米艦戦F6Fと同等だった。エンジン出力は400馬力も低いが、優れた空力設計と零戦譲りの軽量設計が性能を支えていた。
しかし、烈風は零戦とは異なり、厚板構造と量産性を考慮した構造であり、機体強度は零戦より遥かに高いため、急降下制限速度も零戦を凌駕している。米軍側のパイロットが烈風をそのシルエットから零戦と誤認してダイブで逃げようとした場合、振り切ることができず、ほぼ確実に撃墜されるという悲劇が多発した。
そもそも、二機種は並べて比較しないと違いが分からない程外見が似通っており、一見して分かる違いは風防が米軍機同様に骨組みの無いバブルキャノピー化されているくらいしかなかった。
エンジン外径の違いから胴体機銃が無く、風防前方の処理が異なるが、そんな事を空中で見分けるなど不可能と言って良かった。
そして、攻撃機にも大きな違いがあった。
日本側はこの海戦に雷撃を一切用いていない。その代わりに、ネ20から発展した世界初のターボプロップエンジンを採用した「彗星」三三型を投入している。後継機として試作された「流星」が存在するが、すでに時代がジェット機に移行していたため、試験的に少数が配備されたにとどまっている。
この「彗星」三三型にはネ20をターボプロップ化したタ10が装備された。重量はアツタとほぼ変わらず出力は1900馬力もあった。ただ、タービンエンジンのためスロットルへの追随性は悪く、戦闘機には向かないエンジンだったという。
それまで1200馬力であった機体が700馬力も強化され、爆装してなお時速500kmを超える速度が出せた。
搭載した爆弾はケ号二型爆弾で、その重量は900kgに達している。その大きさも相まって、誘導用の赤外線検知器や誘導装置に余裕が生まれ、緩降下での投下が可能になった。副次効果として、従来より高高度から投下することで機体の安全性が高まるとともに、位置エネルギーの増加によって威力も増幅され、事実空母だけでなくアラスカ級にも深刻な損害を与えている。
しかし、旧型彗星や他の攻撃機と余りにも速度差があったため、戦闘機と共に先行して進出する危険な役回りを演じたことで損害も無視できないモノがあった。
ただ、「彗星」三三型による第一次攻撃によって米空母の半数が飛行甲板を損傷し、戦艦や重巡洋艦も半数が対空兵装に損害を出していたことから後続の攻撃隊は最小限の被害で攻撃を成功させている。
この海戦で日本側は空母一隻の沈没に対して米側は全空母が飛行甲板を破壊され、四隻を失っている。結果的にこの海戦では米国式の非装甲甲板と解放式格納庫は全く優位を示すことなく、非装甲という欠点ばかりが露呈してしまった。
米海軍は水上戦では勝ち目がないとして早々に撤退を決断し、日本側の第二次攻撃隊による攻撃で空母を失いながらもなんとか撤退している。
米海軍はこの海戦で空母ばかりが一方的に失われ、同様の攻撃を受けた戦艦が沈没しなかった事で空母を未だ補助戦力として認識することになる。




