らのべっぽいみたいな回想録 12
英艦隊を蹴散らした日本海軍はそのままルソン島を包囲するように艦隊を展開させ、陸軍の支援にあたることにした。
物語ではこの包囲は未来知識によるものとしている。
特にコレヒドール島周辺は電探を装備した新型駆逐艦を配したのはその為だったという。
未来知識か否かはともかく、この時駆逐艦が夜陰に紛れて脱出を図る魚雷艇を発見し、乗組員を拘束した事は事実である。
駆逐艦ではそれが誰であるかの身元確認まで十分に出来なかったが、家族連れであることから高位の軍人であるという認識だけは持って居たらしく、扱いは丁重だった。
その後の取り調べで在比米軍司令官と家族、高級幕僚の一部と判明し、抵抗を続ける米軍にたいして司令官拘束を伝達して降伏を促している。
主要な部隊は降伏に応じ、フィリピン作戦は僅か半月でその戦闘を終えることとなった。
このため、当初は二正面作戦を覚悟していた陸軍は何の憂いもなく南方英領への攻撃に専念する事が出来るようになる。
9月24日にはマレー半島へ上陸を開始し、僅か一月でシンガポール前面まで英軍を押し込んでいる。
その主力を担ったのは一式ファミリーだった。
57mm砲を備えた戦車、13mm航空機関砲を車載化し武装した装甲兵員輸送車、75mm野砲を車載化した自走砲を基幹とする機甲部隊による電撃作戦だった。
迎え撃った英戦車部隊が装備した英国製や米国製の戦車は尽く57mm徹甲弾に撃ち抜かれて撃破されている。
一式戦車は米軍の装備した2ポンド砲を容易くはじき返し意に返さなかったが、わずかに存在した6ポンド砲によって撃破されるものが出てしまっている。
一式戦車の57mm砲は当然、自身の装甲では防げない事を考えると、同口径である6ポンド砲を防げないのも道理である。しかし、船舶への搭載を前提にした重量制限の結果、自身の砲弾への防御力を欠いた装甲を選択した結果だったが、コレが三式戦車へ転換する大きな動機ともなっていく。もちろん、船舶への積載が現在のフェリーのように自走で行える輸送艦の整備によって解消したという事情も作用していたのは間違いないが。
こうしてシンガポール前面まで侵攻した陸軍は英軍へ降伏を勧告するが受け入れられず、攻勢に出ることになった。
この時、陸軍が装備していた野砲は機甲部隊に追随していた僅かな自走砲だけしか居なかった。重厚な陣地が予想される要塞地帯への攻撃を行うには心もとない。
そこで航空攻撃と共に海軍による支援射撃を要請している。
ただ、海軍による支援と言っても海へは要塞砲が睨みを利かせており容易に砲撃することが叶わない。
そこで、海軍は長門、陸奥による超長距離射撃を選択した。
すでにシンガポール上空の航空優勢を確保しており、観測機をあげての水平線外射撃を実施したのだった。
大和型以降に採用された33cm砲の理論上の最大射程は120kmを超え、砲弾威力を考慮しても90kmに達した。有効散布界を考えれば、それは70km程度に制限されてしまうが、それでも列車砲を除けばその射程、威力共に突出した性能だったと言って良い。
攻撃を受けた英軍もそれを艦砲射撃ではなく、密かに持ち込まれた長距離列車砲だと誤認していたほどだった。
この攻撃によって英軍は日本軍の本格攻勢をまえに各所に大きなクレータを穿たれ士気が崩壊し、僅か2日の攻防で降伏するに至る。
日本海軍もその威力を目の当たりにして対地射撃の有効性を認識し、ハワイ砲撃へと繋がって行く事となった。
そして、シンガポールを落とした日本軍はインド洋へも侵攻し、空母部隊によるセイロン空襲を行い、アッズ環礁に居る英艦隊の誘引を行った。
しかしこれは失敗し、所在を掴めていないと考えた英艦隊はセイロン救援に向かう事は無かった。
しかし、それからわずか一週間後、日本の別動隊がアッズ環礁に現れて空襲を受けることになる。
アッズ環礁はインド洋の小さな環礁であり、インド洋に不案内な日本軍が容易に基地を発見できるとは考えられず、今でもなぜ容易に発見できたかは謎とされている。
もちろん、物語では未来人知識によって作戦開始当初からその存在を前提に作戦立案が行われたとされる。
実際の作戦をつぶさに検証してみると、その様に見えるのは確かで、インド洋進入時点で南方へと潜水艦が派遣され、アッズ環礁の偵察が行われ、基地の存在が確認されている。
広大なインド洋をピンポイントで基地にたどり着くのは余ほど幸運な事であり、物語の指摘への有効な反論を私は持たない。
こうして英海軍はアジア、インドにおける有効な艦隊を喪失してしまい、これ以後日本海軍はインド洋、アラビア海において通商破壊を開始したため、援蒋ルートが遮断され、ペルシア回廊ルートによる対ソ支援ルートや英エジプト軍への補給もやせ細る原因となって行く。
この頃、米国は何をしていたかと言うと、全力を傾けて北アフリカへの上陸作戦を準備していた。英国もそうであり、太平洋やインド洋での敗北はまずは棚上げして北アフリカ奪回が優先されている。
この様に、インド洋奪還の優先順位が低かったことがエジプトの運命をも決したと言えるだろう。
まず高速輸送可能な船舶、艦艇を北アフリカ上陸に割いた結果、インド洋での輸送路は日本のインド洋侵攻以後、やせ細り、ソ連やエジプトへの輸送量は半分以下に落ち込んでしまい、必要不可欠な物資がエジプトで不足してしまったのだから。それでも、アフリカ西岸への上陸作戦が成功したならば、状況は変わっていたのかもしれない。
11月8日から実施された上陸作戦も当初の予想を覆す損害によって再検討を余儀なくされていた。
上陸地点はドイツに漏れていないはずだった。
しかし、実際に開始してみるとアルジェやオランにはドイツ軍が待ち構えており、上陸自体が挫折してしまう。チュニジアにはドイツ空軍が展開し、Fw192を擁する有力な戦闘機部隊が長躯アルジェリアの空を舞い、米英軍の攻撃をはねのけ続けていた。
その間、補給の細ったエジプトへの攻撃を本格化させ、12月24日には英軍司令官はスエズ運河を通り紅海へと退避し、抵抗は事実上終焉を迎えてしまう。モロッコに上陸した米英軍のみが取り残される形となる状況で、チュニジアへ至る絶望的な戦いを展開する以外の手段を無くしてしまうのだった。
当然ながら、物語ではこの作戦も日本からドイツへ伝えられていたモノだとされるが、それを示す資料は何処からも発見されていない。
この間、日本軍はアッズ環礁に艦隊を置いて不完全ながらアラビア海封鎖を実施し、コーカサス方面のドイツ軍への間接的な支援も行われている。