らのべっぽいみたいな回想禄 11
日本側は戦艦をすべて沈め、残った艦艇への攻撃を行った。
主力となるのは戦艦ではなく巡洋艦や駆逐艦だった。
この間空母は何をしていたのかと言うと、牽制以外目立った動きをしていない。
それというのも、空軍発足に伴って多くの艦攻乗り、艦爆乗りが空軍に引き抜かれ、残ったのが戦闘機乗りばかりだったからだ。
空軍の発足は1939年だから、すでに艦攻、艦爆乗りも育てられているハズなのだが、空軍がそれまでの海軍戦術を引き継いだのに対し、海軍は当時新たに提案されていた、雷撃、急降下爆撃、水平爆撃を一機種でこなす新たな艦上攻撃機の在り方を模索し、これまでの教育方針を継続するか、新たな教育を実施するのかがなかなか定まらなかった。
この時問題となっていたのが、後の彗星となる艦上攻撃機だった。試作時には十五試艦攻と呼ばれ、水冷と空冷の二機種で競作が行われていた。
しかし、競作においても様々な問題があった。
水冷エンジンは2社が個別にドイツよりライセンスを得ていたのだが、空軍創設の折にエンジンの共通化方針が打ち出されたことで独自開発に移っていた2社は混乱をきたすことになる。
試作を行った社において、もう1社とどの様に共通化するかを協議し、新たにエンジンの試作を始めたのだが、コレがそもそもトラブルの元だった。
空冷機の方もエンジンに問題があった。
この当時の日本では空冷エンジンはほぼ統一されたものになっており、小型を関東で、大型を名古屋で製造していたのだが、艦攻が高速機であるため大型エンジンが選ばれたのだが、出力が足りず、要求性能が出ない上に、元々が大型機用のため、単発機では振動によってさまざまな問題が続発することになってしまっていた。
物語ではこの辺りは非常に辛辣に描かれている。
この当時、日本ではジェットエンジン開発をエンジンメーカーが共同で取り組んでおり、すでにレシプロエンジンは何処か片手間に追いやられていたのだという。
そのため、新規のエンジン開発は行われることなく、既存エンジンの改良だけが進行していた。
確かに、計画や構想があったとされる18気筒エンジンはいくつか知られているが、一つを除いて実現していない。
結果的に唯一開発された18気筒エンジンが優秀で使いまわしがきいたから良かったものの、それが無ければどれ程悲惨だったか、この後の歴史が物語っていると言えるだろう。
さて、そうした新型機の混乱が起きている中で、今後の教育も混乱していた。その為、海軍はほぼ1年を無為に過ごしていたが為、1942年9月の段階で敵艦隊を攻撃できるだけの攻撃隊搭乗員を育成できていなかった。
マリアナでの海戦はこうしてわずか数時間で幕を下ろす。
戦果は戦艦6隻、巡洋艦4隻、駆逐艦8隻を撃沈したが、空母は取り逃がしている。ただ、一応攻撃隊を送り出しているため、損害は大きかったが甲板に二発の爆弾を命中させることには成功していた。
海軍はこの損害の多さと余りの戦果の少なさから既存の攻撃法に疑問を持ち、新しい攻撃法へと急速に転換していくことになる。
9月20日には米艦隊壊滅を受けて英艦隊がフィリピン救援へと向かった。
その頃には英国が口実としたように香港への危機も迫っていたので、英首相は内心喜んでいたと言われている。
フィリピン沿岸には陸軍を輸送する船団を護衛し、上陸を支援するために長門、陸奥をはじめとした艦隊が展開していた。
英艦隊の向かう先もそこだった。
すでに英国は米国からの報告によって日本海軍の空母部隊は艦隊に対する脅威ではないという報告を受けており、空母一隻を伴ってフィリピンへ向けて航行していた。
艦隊を発見したのは空軍偵察機だった。
当然のように空軍は艦隊攻撃を命令する。
当時、海軍から引き抜いた艦爆乗りや艦攻乗り達が属していたのが海軍系の航空部隊であり、そこには九九艦爆を空軍仕様とした九九式急降下爆撃機、急爆や九七艦攻を空軍仕様とした九七軽爆を揃えていた。
空母運用を考慮しなくて良くなった両機は機体の強化や改良型エンジンの採用、燃料搭載量の拡大などを行って双発機並みの航続距離を得るに至っていた。
海軍系将校にとって、洋上での漸減作戦を捨てる事は出来ず、その主力となる様に編成されたものだった。
より長距離を飛べる九六中爆とちがい、マリアナへの進出はならなかったが、フィリピン、そしてマレー方面へ向けた作戦では主力になると期待されていた。
そしてとうとう、英艦隊を発見したのである。航続距離はギリギリであるが、発進しない手はない。
台湾にあった司令部では海軍への通知を遅らせる様に工作して空母部隊が到着する以前に英艦隊を襲う計画を立て、実行に移した。
結果は惨憺たるものだった。
そもそも、技量優秀な搭乗員たちを集めたと言っても、距離はほぼ限界に近く、行動は制約されていた。
さらに、海軍に先駆して艦隊へ到達することを前提にしていたので、空軍戦闘機では航続距離が足らず、海軍機の到着まで攻撃隊は丸裸になってしまう状況だった。
海軍系将校たちには英空母が随伴しているという根本的な認識が欠落しており、待ち構えていた英艦載機によって尽くが追い散らされて、英艦隊を襲撃できたのは3割程度だった。
それでも熟練者たちによる攻撃である。急降下爆撃により空母に大損害を与え、4隻の戦艦の内、2隻に魚雷を命中させることに成功した。
しかし、敵の襲撃を回避するために機動した結果、台湾に帰り着いた機体は無く、海軍の所在を推測してフィリピンへと飛んだ機体の一部が救助されただけだった。
この結果を受けて作戦に関わった海軍系将校への厳しい処罰が行われ、抗議する形で最高位の副参謀長はじめ、多くの将校が軍を去ることになってしまった。中には将来を嘱望された者も居たというが、結果を考えれば致し方なかっただろう。
こうして空軍でも精密爆撃を行える人材が不足した事で、新兵器への期待が高まって行く事になる。
空軍の攻撃で損害を受けた英艦隊だったが、戦艦の損害が軽微であったため作戦を続行して日本艦隊を補足するように行動した。
なにしろ彼らは第一波の攻撃を凌いだ後はそれから数段劣る攻撃を受けただけでさしたる支障もなく航行することが出来ていたのだから。
このことがより一層海軍の従来の対艦攻撃法からの転換を促すことになる。なにせ、急降下爆撃は命中せず、魚雷も回避され、墜落事故を含めて大きな損害を出してしまったのだから、その様な戦法に固執する理由がない。
英艦隊からすれば日本の攻撃を侮るに足るだけの状況だ出来上がっていたと言っても良いだろう。英軍人にとって米艦隊の敗北は素人が行った失敗と考えを改めるに至っていた。
しかし、水上戦はそんな楽観を完全に消し去る事になる。
このとき長門、陸奥に装備されていたのは金剛型と同じ33cm自動砲であった。
大和型は従来の戦艦と変わらない発射速度毎分2発だったが、金剛型に採用された自動砲塔では毎分4発を可能にしていた。
そのため、砲身冷却装置として海水による水冷が行われ、その為の外筒が砲身を覆っていた。それは砲身の太さを引き立たせ、一見すれば41cm砲と変わらない程だった。
これが、戦時中、金剛型が41cm砲であると米英に信じさせた一因だ。
当然、長門、陸奥が小口径砲に換装しているなど、気が付くはずもなかった。
わずか2隻の戦艦に対し4隻で挑んだ英艦隊だったが、英艦が想定していた25kmの距離に迫る以前に一方的に打ち負かされてしまい、全く命中弾を与えるに至らなかった。
随伴した巡洋艦や駆逐艦が這う這うの体でシンガポールへと逃げ帰ったのは言うまでもない。




