らのべっぽいみたいな回想録 4
1937年に発生した支那事変は新聞の扇動によって政府は世論を抑える事が出来ずに戦線は拡大の一途をたどり、上海への国府軍の攻撃が行われたことで後戻りできない状態へと引き込まれてしまう事になる。
この事態の最中、軍は支那への派兵よりも空軍創設論争に熱中していた。新聞や世論が支那事変に盛り上がるのとはまるで温度差があったのは間違いない。
そして、政治はそうした軍の冷淡な態度もあって、支那への介入を形だけ行いながら、何とか世論の鎮静化を図るという状態になって行く。
軍、特に陸軍では戦線拡大派将校が派兵を叫ぶのに合わせて、朝鮮半島での募兵を行い、朝鮮兵を主力として支那へと送り出していく。指揮するのは当然、血気盛んな拡大派将校である。
このことにも物語りでは言及されるが、練度の低い朝鮮兵を当てた事は、本土や満州に居る精鋭を無駄に浪費しない為だったという。
軍首脳部の意向と血気盛んな将校の双方が納得する形でこのような編成になったのだが、当然ながら、それは多くの悲劇も生むことになる。
新聞では連日の戦勝報道があり、百人切りや頸狩りの話題も多く取り上げられるのだが、そうした話題以外にも、進撃する各地では略奪暴行が盛んにおこなわれていたという。
最も酷かったのが進撃した先の南京での事件だった。
市街地包囲で混乱した国府軍が市民を巻き添えにしての戦闘や略奪を行いながら撤退したのち、進撃した日本軍も同様の行為に及んでいる。その規模は悲惨の一言で、当時20万人居たという南京の人口は年を越したころには一桁まで落ち込み、諸外国の管理する安全区でさえ、日本軍の暴虐はいつまでも止むことが無かったという。
もし、本当に未来人がいたというのならば、なぜこのような事態を招いてしまったのか疑問というほかない。
物語においてもこのことは大きな誤算として描かれているのだが、歴史を知るはずの未来人が何故、その様な事態を誤算で済ませてしまったのだろうか?
1938年3月になると、南京暴動は国際問題へと発展する。日本においても軍中央は彼らを全く統制できなくなっていた。
そして、勝手に行動する支那派遣軍に自ら加わり実績を得ようという拡大派将校まで出てくる始末だった。当然、朝鮮での募兵数もうなぎのぼりとなる。
対応に苦慮した政府と軍は、進撃中止と支那派遣軍の再編成を命じるのだが、当然ながら支那派遣軍が従うはずもない。
さらに悪い事に、戦勝報道を行う新聞も支那派遣軍を擁護する記事を書いており、世論は政府と軍への批判を強めていくことになった。
一向に事態が改善しない中で、軍は支那問題より空軍創設問題を先に片付けるという決定を行う。
政府も半ば支那派遣軍の事は放置し、空軍創設問題を議会にかけていた。
議会では空軍が憲法規定にない事を理由に反対する勢力が多く存在したが、総理と陸海軍は空軍創設とそれに伴う改憲を天皇へ上奏する。
10月には議会の混乱をよそに改憲の勅が下され、政府と軍部において条文の議論が行われ、11月には早くも改憲案が上奏され、12月には裁可が下ることになった。
完全に無視された議会が騒がしくなるが、一切を無視して改憲が行われ、空軍の創設とそれに伴う総軍統帥部の設置、総理大臣の職権も明記されることになった。
1939年3月には正式に空軍の発足が行われ、およそ10年かけて行われていた陸海軍航空隊の航法や計器の統一が、ここに日の目を見ることになった。
空軍へ移管されるのは陸軍航空隊のほぼすべてと海軍陸攻隊すべて、基地航空隊の半数だった。
海軍では飛行艇を主とした輸送、哨戒部隊はそのまま据え置かれ、英国の事情を鑑みて空母飛行隊も海軍所属となった。
陸軍では少数の連絡機と砲兵観測部隊が属する程度となっている。
当然、各々が独自の指揮系統で動いたのでは、陸軍も海軍も支障が出る事から、空軍との協議、指揮系統の整理のために総軍統帥部という名称で各軍の調整を行う組織を常設することとなった。
そして、軍の改編が進む中で支那派遣軍の在り方が問われることになる。
議会や多くの新聞が擁護しているが、実態は無軌道な愚連隊、盗賊集団でしかなかった。
まずは成金たちが出資した新聞、ラジオ局においてその実態が報じられるようになると国民の間にも変化が起こり、支那派遣軍への批判が徐々に増加していくことになる。
物語において、この辺りはとくに詳しく、当時の報道が様々な宣伝手法を用いて行われたことが描かれている。
ただ、手法はともかく、あまりに遅きに失したと言えなくもない。
この時点で憲法は改正されており、政府における総理の権限強化と軍への発言権の付与まで行われているのだが、支那派遣軍や議会の一部では統帥権干犯を叫び、政府や軍中央の指示に従わない姿勢がみられていた。
補給を絞ればよいと思うが、事はそう簡単にはいかない。
勝手に動く支那派遣軍の行動によって海外での日本の評価も完全に落ち切ってしまう。当初は外相のスタンドプレーでしかなかった行動も、改憲が行われたとはいえ既に後戻りできないところまで来てしまっていたと物語では述べられている。
そのような中で明るいニュースとして、満州での油田発見が新聞紙面を飾ることになった。
実際には1933年から試掘が行われ、38年には操業が始められていたのだが、これまで公表されてこなかった満州南部の油田。しかし、詳しい場所を公表せず、平原の中にある油井の映像がきっかけで、ソ連軍が春とはけた違いの軍勢でノモンハンへと侵攻してくる事態が発生している。軍と政府はこの時点で古い資料から大興安嶺山脈以東は蒙古領域との清による文書を発見しており、それに従いソ連と交渉を行って交戦に至ることなく事態を収束させている。
しかし、そのことは未だ戦意を煽る新聞による政府批判に利用され、世論だけでなく右翼団体によるテロ行動も多く発生する事態へと発展してしまった。
1939年10月にはそうした混乱から政府は準戒厳令として新聞の統制と治安維持活動の強化に乗り出すのだが、時すでに遅しと物語は述べている。史実の研究においても、遅きに失した事が指摘されることが多い。
未来人がいるというなら、どうしてこのような事態を巻き起こしたのか理解に苦しむのだが、物語はそのことについて、歴史が大きくずれた結果としか述べてはいない。