らのべっぽいみたいな回想録 3
少し話が前後するが、世界恐慌とその後の経済回復の中で日本では複数の成金が現れてくる。
しかも、そうした人々は決まって自主的な献納を行っているのだが、これについては愛国的な行動という以上の事は今も謎である。
ただ、彼らの行動によって日本が急速な経済振興を行えたことは間違いない。
そのような打ち出の小槌には当然のように負の面が存在するのだが、成金たちが儲けた相手というのは、当然のように米国だった。
当時の米国では黄禍論が台頭し、大統領が日本の成金たちを名指しで敵視することも一度や二度ではなかった。
そんな中で満州への国際連盟調査団派遣が行われ、欧米の反日機運に乗せられたように、報告の場において外相は国際連盟の席を蹴って帰国の途についてしまった。いわゆる国際連盟脱退騒動である。
当時、新聞各紙はこれを称賛し、多くの読者も拍手喝采であったが、海軍や政治家、経済界には少なからず反対意見が飛び交う状態だったという。
しかし、一度国の代表が蹴ってしまった椅子に座りなおすことも出来ず、日本の国際連盟脱退は確定した。
そうした逆風の中で始まったのが、新戦艦建造だった。
建造に当たっては列強から以前と違って多くの批判が行われることになるのだが、日本は意に介すことなく建造を続けている。
そして、1937年、異常なまでの速さで完成した一番艦大和は、慣熟もそこそこに英国観艦式へと出発することになった。
この時の大和の状態は、まだ戦闘行動が可能な状態ではなく、搭載できていたのは三連装主砲塔3基と12.7センチ連装高角砲6基のみだった。
それも、本来搭載すべき電探や電子高射装置などの艤装は行われておらず、10m測距儀が2基装備されただけの状態だった。
まさに、観艦式へ出るためだけに外観を整えたと言って差し支えなかった。
そのあまりに急ぎ過ぎた結果が、英国での評価にも表れている。
「史上最大の巡洋艦」
英国では大和の事をそう評価している。
実際、特筆するような点は認められない艦であったことは間違いない。そもそも、本来の性能に直結する電子機器の装備が無く、当然ながら、その使用する主砲弾など公開される事は無かったのだから。
この大和型を視察した米国が対抗するために計画したのがアラスカ級巡洋戦艦だった。
米国は日本が大和型を最大8隻建造すると予想しており、それに対処するには10隻以上のアラスカ級が必要だと見積もっていた。
大和型の速力は33ノットと公表していたので、アラスカ級はそれを上回ることが求められ、35ノットを出すために20万馬力の出力を持つに至った。
大和型は実際は30ノットでしかなかったことを考えると、米国は無駄にコストを掛け過ぎたことになる。
ただ、米国自身はその様には考えておらず、日本が「史上最大の巡洋艦」を複数揃え機動戦に出て来る事への備えを最優先として建艦計画を組み立てていった。
日本が米国の動きにとった対策は、三連装3基を備えた大和型から、砲座を強化して発射速度を速めた連装砲塔4基へと変更した金剛型の建造を行った事だろう。
ついこの間廃艦にした艦名をすぐさま復活させることが異例なら、純粋な戦艦に対して命名規則から逸脱した山岳名を付与するのも異例だった。
米国はこのことで日本の建造する新造艦がさらに巡洋艦化したと見做す様になる。実際には舷側装甲は大和型同様に対41センチ弾防御として360mmの装甲が備えられ、全く防御力は低下していなかった。
艦名が金剛となったことについて、物語では未来人のたっての希望と説明されている。が、米国の反応を見れば、海軍が欺瞞効果を狙って採用したという一般的な説が有力なのは間違いない。
さて、英国で観艦式が行われた1937年の7月、北京の盧溝橋において駐屯する日本軍に対して銃撃が行われた。
近在の国府軍からのモノとされ、小競り合いが発生するが事態はすぐに鎮静化していく。
しかし、事態はそれで収束することなく、たて続く小競り合いや事件報道によって日本の世論は沸騰し、ついには本格戦闘へと突入してしまった。
この辺りの事も物語で詳しく描かれているが、未来人による情報から事前に知っていた人たちが事態鎮静化に動いていたのだという。
確かに、当時、海軍や政治家、そしてこの頃には陸軍においても戦線不拡大を唱えるグループが出て来ていたが、戦闘や事件の頻発とそれを報じる扇動的な報道によって、世論も議会もシナ討伐という掛け声に席巻されていくことになった。
こうして泥沼へと突入していく中で、海軍は着々と建艦計画を推し進めていた。
1937年に竣工した大和を皮切りに僅か3年で4隻を竣工させ、金剛型も40~43年には完成するという、僅か10年前には考えられないスピードだった。
これをなし得たのも、成金たちの献納や産業振興による設備投資と溶接技術やブロック工法の飛躍的な発展によるところが大きい。
ブロック工法が初めて採用されたのは、初春型駆逐艦だったが、当時は溶接も精度も未熟であったため、亀裂の発生や不整合に悩まされる場面もあったが、大和建造と時を同じくするように精度や溶接技術は順調に進展し、溶接に適した鋼材の開発と相まって問題は漸次改善していくことになった。
ただ、今の視点で考えるといささかおかしなことに気が付くだろう。
後の戦争においては戦艦よりも空母が主要な位置を占めることになるのだが、この頃には戦艦ばかりが建造され、空母の建造は比較的低調だった。
空母の建造が始まるのは金剛型の進水によって船渠、船台が空いてからの事になる。
そう、すでにその頃にはどう考えても戦争前に十分な訓練を行った空母部隊を揃えることなど不可能だった。
未来人が居ると言いながら、なぜ、このような措置が取られたのか、物語では、高速徹甲弾の性能故としている。
九五式徹甲弾は初速が秒速2000m近くに達し、戦艦の20~30kmという交戦距離において、わずかに15~30秒で着弾する性能があると計算されていた。最大射程は100kmに達するが、現在と違い衛星誘導など出来ないので必中半数界は1kmに達したという。30km程度ならば300m程度なので、十分に敵艦を捉える事が出来るが、視界外となるとまるで役に立つものではなかった。
一応、榴弾も用意されてはいたが、被弾時の防護を考えれば、榴弾を多く搭載するのは得策ではない。よほどの軟弱地盤でもない限り、小型の隕石と言える威力を持つ九五式徹甲弾は榴弾に近い効果も発揮したので、わざわざ榴弾を積む意味もなかったと言える。




