らのべっぽいみたいな回想録 2
百聞は一見に如かず
レールガンの実験装置を見た海軍関係者は他の何を置いても、その見たこともない投射装置に興味を持った。
一見して理解した。或いは、構造は理解できなくとも、火薬を用いずに投射出来る事に利便性を見出したと言った方が良かったのかもしれない。
ただ、レールガンの説明を聞いた彼らはさらに技術者も呼んでさらに詳しい説明を聞いたが、一様に落胆することになってしまう。
レールガンは現代(1920年代)の技術ではどうすることも出来なかった。
試験的に一度や二度の投射ならば、ある程度のモノが作り出せるかもしれないが、兵器や装置として実用的なモノを作るには、何もかもが足りな過ぎた。
ただ、説明を受ける中で一つの事に注目する。
彼らの説明において、レールガン本体とは別に、砲弾は既存火砲にも応用可能という話だった。
そこには優れた設備によって、砲弾に関する試算を速やかに行う事は出来たのだが、すぐさま砲弾が実用化出来るかと言うと、それも怪しかった。
様々なものを新しく開発しないと実用化出来ないことがまざまざと突き付けられることになる。
確かに、日本は第一次世界大戦の戦勝国としてドイツから多くの技術を取得しており、この物語に沿ったような展開となっているのは事実である。
物語内では未来人による助力や知識の提供という形で行われているが、それについてはなるほどと思わなくもない。
実際、この戦間期における日本の発展というのはこのような仮定を嵌め込んだ方が納得できるほどの急伸を示しており、一部から疑問が持たれているからである。
さて、物語に戻るが、すぐさまのレールガン実用化は無理と判断したものの、そこに連なる電気技術の取得は有意なものが多く、未来人の助言と技術開示によってモーターやその制御機構などの機器類、その製造や設計に関わる周辺技術など飛躍的に向上していくことになった。
その成果として、1925年に開始された日本でのラジオ放送は僅か2年のうちに国内企業による放送機材の国産化によって、外国を凌ぐようになっていく。この根底にあるのが、当然ながら海軍の電子機器技術であった。
さらに海軍ではラジオ放送の元となった電波技術を発展させて電波探知装置の開発に乗り出すのだが、当然、これも未来知識によって行われることになった。
また、電波技術だけでなく、鋼材や溶接などの技術、生産管理と言った技術なども急速に発展を遂げていくことになる。
そんな中で1930年のロンドン海軍軍縮会議に参加した日本代表団が提案したのが、戦艦主砲の13インチ制限というモノだった。
当然ながらその様な提案が受け入れられることは無かったが、なぜ、その様な提案を行ったのか、今でも謎とされている。
しかし、物語においてはその理由が明確で、開発中の高速砲弾を用いれば、大口径巨砲でなくとも装甲貫通力を発揮でき、威力を欲したとしても13インチもあれば物理的には十分という試算がもたらされていたことによる。
ロンドン条約において13インチ制限が否定されたものの、日本は独自にその条件による代艦建造を宣言し、33センチ砲の開発と公開を行っている。
各国から新型戦艦建造への批判が出ることになるが、その口径が33センチであることから、各国はそれを半ば黙認し、大きな問題へと発展する事は無かった。
物語において、この行動にはもう一つの理由が付記されている。
それは、対英米補助艦比率が目標に達せず、海軍に不満が蓄積され、議会と結託した問題へと発展することを、代艦建造で防いだというモノだった。
実際、海軍には条約に不満を持つグループが居り、議員と頻繁に接触が行われていたが、戦艦の新規建造が認められたことでそこから政局問題に発展する事は無かった。
物語の中では、この不満から政局に発展し、日本が混乱すると言及されていた。
実際、公開された当時の資料を研究した歴史家や小説家の中には、統帥権干犯問題を提起して倒閣運動を行う動きが野党議員の間に存在し、海軍にもそれなりの協力者がいたことから、物語の指摘は杞憂や想像ではないとの指摘もなされている。
実際、それが想像でない事は、細かく当時の議会を見ればわかるのだが、翌年の満州事変において、議会と陸軍は事態収拾のために関東軍首脳を処罰し、軍中央による統制や軍と議会の協調を改めて確認している事からも読み取る事が出来る。
そして、物語と史実の相違点として挙げられる事例がこの頃からいくつか散見されるようになるが、物語においては初歩的な電探の完成が1929年とされ、真空管の安定化や製品品質の向上などが集中的に実施されて、1936年に実用的なモノの開発に至るとされている。
史実においては無線機の開発から真空管の品質の安定や製品品質の安定化がなされたことで1934年に初の試験機が完成しているのだが、確かに、性能的な面から見て、物語の中で三次試作として書かれた1934年の第一号電探試作機がいきなり現れるよりは、筋が通ったものと言えなくもない。軍の記者会見における質問でも、「個人の創作に公式の意見を言う立場にない」と、広報官も答えている。
こうしてみると、史実では比較的順調に発展しているものが、物語では様々な紆余曲折や苦節を経て実現されている。
確かに、良い面ばかりを切り取った史実の歴史に対し、物語とは言え、個人や現場に焦点を当てた結果、より当時をリアルに描写しているからなのだろうが、当時の苦労は脚色された「正史」以上にリアルなものと言えなもない。
さて、九五式徹甲弾についても、その開発に12年を要した事になるのだが、その中身も随分、苦労の連続であったと描かれている。
公開された軍の資料では、装弾筒の発想が出てきたのはより古い1908年とされるが、その後の研究開発はうまく進んでいなかったとされる。徹甲弾開発に27年を要したというのだから、なるほど、どちらを信じても、相当な苦労があったことは間違いない。




