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教室での居心地悪さは相変わらずだったが、サアノは気にしなかった。
千鶴が、いつも気にかけて昼休みはいつもメールをくれた。ひらがなだけのメールは、何かを書けばいいのか悩んだ節が見えた。一行、二行のメールだが、サアノは満足だ。用件だけではない、とりとめもないくだらない内容がサアノを元気づけてくれた。そうして無視を決め込んでいたら、サアノの周りのほうが、なんだか白けてきたようだ。
そして、一ヶ月も経つと飽きたらしい女の子たちは、少しだけ気まずい顔をして、挨拶ぐらいはしてくれるようになった。それだけでもサアノは満足だ。
サアノは強いわけではない。むろし、弱い。
ただたまたま千鶴が自分のことに気がついて、守ってくれていたおかげだ。
サアノは千鶴にすごく感謝している。そして胸を張って大好きだといえる。
だからこそ、気になる。
サアノは千鶴の持ち物に目を光らすようになった。
職員室にノートを提出しに行ったとき、千鶴の机の上にあるプリクラや女の子たちからの入念な差し入れにサアノは苛々した。
「なに、このプリクラとかいろいろ」
「もらったんですよ」
千鶴がにっこりと笑う。教える立場としてみれば、こうして生徒に好かれるのは何よりも嬉しいものだ。
「へー」
他の先生の手前、サアノは何も言えないが、むかついていた。だって、自分はそういうものを一切あげていない。
ノートを手渡したあと、サアノは苛立った自分に気がついて、落ち込んだ。
自分がなんだか情けない。
千鶴には何をしてもいいと思うと、つい厳しくなってしまう。千鶴が笑って受け止めてくれるが、それでもサアノはすごく後悔する。自分ってなんていやな子だろうとすら思う。そのあと、千鶴が優しくしてくれてほっとする。もしかしたら、生理が近いのかもしれない。そういう日の前は、すごく苛々してあたりっぽくなってしまう。頭の中で計算すると、もうそろそろだと思うとまたしても憂鬱となる。女の子の体は、本当に大変だ。いちいちこんなことが起こって感情が不安定になって、疲れたりして、本当に男ってラクしていい生き物だと思うと、またしても苛立ってきた。
くそー。
サアノは心の中で思いっきり悪態をついた。
その日は千鶴に当たってしまったことに後悔して、サアノは千鶴の家に寄る前に最近出来たというおしゃれなフランス菓子屋に寄ってクッキーとキャンディを買って行った。
千鶴は笑顔で出迎えてくれたのに、サアノはほっとした。
そのあと、またしても罪悪感が芽生えた。
「あ、あのさ」
「サアノ」
「なに?」
せっかく謝ろうとしたのが、潰されてしまった。だが、とりあえず、千鶴が何か言いたいのならば、聞いてあげたい。
「そのうち、アメリカに一度は帰ろうと思うんだ」
「アメリカに?」
サアノは驚いた。
そろそろ年末。正月は家で過ごすものだ。サアノの家だって、多忙な父も帰ってきて家族で過ごす。
千鶴がアメリカに帰る。
そんな発想はまったくなかった。
千鶴は、もう日本人みたいなものだ。いいや、そこらへんの日本人より、ずっと日本人らしい日本人だ。
彼が、アメリカに行くというのは、なんだかすごく不似合いに思えてくる。
それ以上に、千鶴が自分の前から居なくなるなんてサアノにはまったく考えられなかった。ひどく悪い冗談を聞かされたようにサアノは苦笑いを零していた。
「そのとき、サアノも来ない?」
千鶴が微笑んで言った。
「私も?」
「うん。正月に。チケットなら、僕が出すし。ご両親に説得するのだって協力する」
アメリカに行く。
アメリカに千鶴と行く。
二人きりでアメリカに行く。それは、千鶴にしてみれば、ひどく素敵な提案であったはずだ。だが、サアノは慌てて首を横に振って、とんでもないことのように睨みつけた。
「やだ」
「サアノ?」
「何で、そんな大切なこと、一人で決めちゃうの。私、いきたくない」
思わず口に出したあと、サアノは後悔した。
千鶴の故郷なのにサアノは怖かった。未知の国。自分が住み慣れたところから離れること――未だに旅行は学校の修学旅行と家族旅行で、いつも団体の中にいたから怖くはなかったが、今回は違う。自分と千鶴で行こうというのだ。二人きり。それがサアノをひどく不安にさせた。異国の地が憧れたり、どきどきしたりする前にひどく遠すぎて、そんなところに行こうという千鶴がやっぱり遠くて、サアノはいやだった。
「ちーちゃんの馬鹿」
自分のほうが馬鹿だ。
言いながら自分を罵りながら、外へと逃げ出した。
家に帰って部屋に篭って、自分がひどく馬鹿に思えて泣けてきた。何度か携帯電話が鳴った。見ると千鶴からメールが来ていた。
メールの内容が怖くて、結局中身はみなかった。
一晩寝て、サアノは憂鬱とした気持ちになった。
千鶴に会わせる顔がない。
母には生理痛だといって休ませてもらった。同じ女としてわかる痛みなのか、母は寛大だった。薬もくれて、その日はゆっくりと寝かせてくれた。サアノは眠りながら千鶴のことを考えた。提案するときの千鶴は子供みたいに笑っていた。嬉しそうで、楽しそうだった。
千鶴は楽しみにしていてくれたのだ。
思えばチケット代や両親の説得というものも協力するといってくれた。
千鶴は自分のことを大切にしてくれている。
自分とずっと一緒にいるためにがんばってくれている。
もしかしたら、千鶴の家族に会える機会だった。
千鶴のことをパパとママに認めてもらう機会。
考えれば考えるほどに後悔が募った。
すぐにでも千鶴に謝りたかった。携帯電話を手にとったが、まだ授業中だと思ってメールだけ打った。なんて打てばいいのかわからなくて、迷いに迷って、ごめんなさいとだけいれておいた。そのあとはおなかが痛いのに眠気が押し寄せてきてサアノは眠りについた。
翌日、サアノは学校に出かけた。
そうすると、学校が静かだった。いつも騒いでいる生徒たちが俯いている。
「なにか、あったの?」
思わずサアノはリエに声をかけて問いただした。
「千鶴先生、いなくなっちゃったの」
「はぁ?」
「先生さ、いきなり急用とかでアメリカに帰ったんだって」
「えっ」
サアノは絶句した。
そんなこと、自分は知らない。
たった一日で何が起こったのか。
あんなにも愛しい日々が、突然と崩壊してしまった。
サアノは慌てたが、だからといってなにかが出来るわけでもなかった。ただ千鶴がいないという現実をぼーとした頭で感じとっただけだ。もしかしたら、ひょっこりと千鶴があわらわれてくれる。これは冗談、嘘、と誰かが言ってくれることを期待していたが学校が終わっても、千鶴はいなかった。
サアノは千鶴がいるはずのマンションに向かった。
マンションのドアは、いつも優しく自分を迎えてくれたはずなのに。今は硬く閉ざされてしまっている。
合鍵で開けて中にはいると、サアノは叩きのめされた。
千鶴がいない。
あんまりにもきれいに、ところどころ千鶴がいた気配が残っている部屋。
サチもいなくなっていた。
千鶴は消えてしまった。
自分の前から。
故郷に戻ってしまった。
あっけない。
泣くこともなく、笑うこともなく、怒ることもなく、ただあっけないとだけサアノは思った。千鶴が自分に向けてくれていたすべてがあっけなく消えてしまった。それは風が吹いたように容易くも、脆く、そして跡形もなく。
サアノは家に帰って、窓から外を見た。
学校でちらちらと聞いた話を組み合わせると、理由はわからないが、千鶴はアメリカに帰ってしまったらしい。
自分が否定してしまった。
だから、千鶴は一人で帰った。
あのとき、千鶴の言葉に耳を傾けて、怯えることもなければ、躊躇うこともなく手を伸ばせれば。
この未来はわかっただろうか。
わからない。だからこそ、サアノは泣けないし、怒れない。現実だと受け入れるには、すべてがいきなりすぎた。
千鶴は、きっと明日会える。
そんなことを考えた。
ありえないことだとわかっていながらもサアノは認めたくなった。千鶴が消えてしまったことを。
だから、普段どおりに過ごした。
学校は自由で、少し退屈で、女の子たちは男の子の話をして、騒いで、遊んで、けれどサアノはうまくその中に溶け込めなかった。
千鶴がいない。
その現実が押し寄せてくる。
一週間も過ぎると、千鶴がいない現実が当たり前になってしまった。
それが、サアノの心にまでゆっくりと広がっていって、サアノは慌てて否定した。
千鶴に会いたい。
サアノは迷いに迷って、その日は千鶴のマンションまで行こうと決めた。
千鶴のマンションは、もう冷たい空間だけで、自分を受け入れてはくれない。
泣きたくなった。
けれど、泣けなかった。だって、ここには千鶴がいない。千鶴がいないのに、泣いたって仕方がない。
自分の世界は千鶴が作ってくれた。
今更だが、サアノは自覚して、笑いたくなった。
こんなにも短期間の間に千鶴は自分の世界を包み込んで、作ってしまった。千鶴がいない世界なんて自分の生きる世界じゃない。
千鶴に会いたい。
だから、会いに行こう。
サアノは決めた。
千鶴のいる世界に自分も行こうと。
もう、アメリカに行くことは怖くはなかった。パパやママに怒られて反対されても、行くつもりだった。お金だって溜めればいい時間はかかるかもしれない。英語だって最近、少しよくなってきたところなんだし。
けど、少しも怖くなかった。
千鶴だってしたことだ。
彼は一人でした。
たった一人で自分の血に流れる国を思い、その国へと向かって全力で動き、そこまで辿りついた。そして自分と出会ってくれた。
今度は自分の番。
サアノは決めると、千鶴のマンションに向かう道から、すぐさまに引き返した。
とりあえず、すべきことは山のようにあった。その山のようにあるどれをどうするかをまずは考えなくてはいけない。
暗い道を歩いていると、不意に腕が掴まれた。それがあまりにもいきなりのことだったので、サアノはびっくりした。
コートを身につけた男ということだけはわかった。
「や、ちーちゃん!」
思わず叫んで、サアノは叫んだ。
「サアノ」
「えっ」
振り返ると、千鶴の顔が見えた。
「ちーちゃん」
「サアノ」
千鶴が苦笑いを浮かべる。
「ちーちゃん、あの、どうして」
「サアノに会いに」
「う、ううん。どうして、ここにいるの、アメリカじゃないの? 私のこと嫌いになって、アメリカに」
「へっ?」
千鶴がきょとんとする番だった。
サアノは混乱した。
混乱しているサアノに千鶴は微笑みを浮かべて、手をとってくれた。二人は、そのまま近くの喫茶店に入った。
千鶴はコーヒーを、サアノはオレンジジュースを頼んだ。
「いや、僕のほうは、父がぎっくり腰になったて、一旦、実家のほうに呼ばれたんだ」
「はぁ? いなくなったんじゃないの? 学校やめたんじゃないの?」
「やめてないよ。一週間で帰るって、あー……メールみなかったの?」
「メール、メール!」
サアノは叫んで、携帯を取り出してみた。
「切羽詰ったメールしていたから、すごく驚いたよ。もう少しいなさいっていわれたけども、有給は三日までだったし、サアノのことが気になって、慌てて帰ってきたんだ」
千鶴の説明を聞きながら携帯電話の一番最後に来たメールを見ると家族に何かあったようなので、家に帰ると書かれてあった。
「ばかだ」
自分をサアノは罵った。
一人で悲劇のヒロインをして、なにやってるんだろう。
「サアノ、どうしたの」
「……ちーちゃんのこと好き」
ぽつりとサアノは言った。
「私は、ちーちゃんなくして生きていけないってこと」
「……それは……照れてもいいことかな」
「うん」
サアノは力なく頷いて視線を千鶴に向けた。
「おかえり」
「ただいま……会いたかったよ、たった数日なのに、ヘンだね。すごく会いたくて、たまらなかった」
照れたように千鶴が笑って言った。
サアノは思わず両手を伸ばして千鶴のことを抱きしめていた、そしてありったけの思いを込めてキスをした。