ピンクのお人形
お母さまに『嫌なマリエッタ』のことを話しても信じてくれないし、そんなことを言う私を「一体あなたはどうしちゃったの」と悲しそうな顔で見る。
お父さまには叱られるし、乳母には泣かれてしまう始末。
もう何も言えなくなった私に、マリはこっそり近付いてきて耳元で笑うのだ。
『あんたってバカ? この私が全力でいい子ちゃんを作ってるんだから、七歳児程度にひっくり返されるわけないでしょ』って。
口を開けば悪口ばっかり。
汚い言葉で思いやりのないことばかり話して、ちっともレディーらしくない。
でもそれを言うとマリに意地悪をされるから、マリがしゃべり出したら口を閉じて待つことを最近覚えた。
今もひとしきり不平不満を口にして満足したのか、最後にふんと鼻を鳴らしておしゃべりをやめた。
悪口を聞かされ続けると嫌な気持ちになるからようやく終わってホッとするけれど、こちらを見るマリの意地悪そうな目つきに警戒する。
「……なあに?」
「あんたの人形を貸して。ほら、私のを貸したげるから。本当はこっちが欲しかったんでしょ」
無造作にオレンジの人形を差し出されて、目をぱちくりした。
「私のを貸してあげるって言ってんの。グズグズしてないで、あんたのを渡しなさいよ」
腕に抱えていたピンクの人形を強引に奪われて、代わりにオレンジの人形を放り投げてくる。
取り損ねて地面に落ちたマリの人形を慌てて拾い上げた。
「あーあ、ジュリが落としたから泥がついたんじゃない? あんたのせいだからね、このグズっ」
「マ、マリが投げるからでしょう。どうしてお人形を投げるの!? 可哀想じゃない!」
「人形に可哀想って発想が笑うわー。さすが七歳児」
バカにしたように鼻を鳴らして、マリは私のピンクの人形を持って歩き出す。
「待って、マリ。私のお人形をどこに持っていくの?」
来た道を戻っていくマリを慌てて追いかけた。
返事もせずにどんどん歩いていくマリだが、木立の向こうにお屋敷が見えた所でぴたりと立ち止まる。
振り返って私を見て笑ったあと、すぅっと大きく息を吸った。
「きゃあっ!? 何をするの、ジュリ姉さま――――っ」
突然悲鳴を上げたかと思ったら、人形を抱えたまま小川に飛び込んだのだ。
「マリっ、何をしてっ――、早く上がって! マリっ」
水嵩は膝下までしかないけれど、春先の今の時期はとても冷たい。
そんな小川に何のためらいもなく飛び込んだマリに私はすっかりパニックになった。
腕に抱えていたオレンジの人形を地面に置くのももどかしくマリに駆け寄る。
「マリ、マリっ。ああ、この手に掴まって! 早くっ!」
「お姉さまはひどいっ、ひどいわっ、ひどいひどい――――っ」
私は手を伸ばして助けようとするのに、マリは小川に座り込んだまま甲高い声を上げるばかり。
ヒステリックに泣き叫ぶその声に、屋敷から両親や伯母さまや使用人達が駆けつけて、私は心の底からほっとして声を上げた。
「お父さまっ、マリを助けて。マリが突然小川にっ」
「マリエッタ、大丈夫かっ。今助けるぞ!」
あっという間にお父さまが小川からマリを抱き上げた。
小川に飛び込んだあとは座り込んだせいで、マリはずぶ濡れだ。
顔色は真っ青で体はガタガタ震えている。
「マリっ、大丈夫!?」
駆け寄って差し伸べた私の手を、けれどマリは邪険に払いのけてキッと睨みつけてきた。
「ひどいわっ、ジュリ姉さま! 小川にお人形を捨てるなんて!」
マリは私の物であるピンクの人形をぎゅっと胸に抱いて、強くなじる。
「ピンク色のドレスは好きじゃないからって、何もお人形を捨てなくてもいいじゃないっ。そんなにオレンジの方が欲しかったなら私に言えばよかったでしょう!? 小川に捨てたらソフィ伯母さまに新しいのを買ってもらえるからって、お姉さまがこんなひどいことをするなんて思わなかった。こんなの、こんなのお人形が可哀想じゃないっ! お姉さまがいらないならこのお人形は私がもらうわ。私が小川から救い上げたんだから私の物よ! 可哀想にっ」
寒さに震える声で一気に責め立てると、マリは人形を何度も抱きしめる。
そんなマリに私はただただぼうっとするしかなかった。
「ジュリエッタ、今のは本当かい。おまえは本当にそんなひどいことをしたのか。だからマリエッタが小川に飛び込むことになったのか!」
お父さまが怒って問いただしてくる。
私は必死で違うって首を振るけれど、お父さまの目から怒りはなくならない。
傍に座り込むお母さまも驚いた顔で私を見つめたままだ。
ソフィ伯母さまもメイドや従僕達も私を非難の目で見る。
何度も首を横に振った。違う違うと口にし続ける。
「私、そんなことしないっ。絶対しないもんっ。マリが勝手に飛び込んだのっ、私は何もしてないっ」
「何もしてないのに、マリが小川に飛び込むわけないだろうっ。嘘をつくんじゃない!」
「嘘じゃ、ないもんっ。嘘じゃない。違う……も、っひ、ぅ、う~……っ」
「泣いて誤魔化そうとしてもダメだ。そのせいでマリはこんな――」
お父さまがさらにきつく声を上げたとき、マリが大きくくしゃみをする。
それでハッと大人達が気付き、慌てたようにマリを毛布で包み込んだ。
「そんなことより今はマリを温めなくては。早く屋敷へ連れていこう。風呂の準備を頼む。部屋も十分に暖めるんだ。一刻も早く着替えさせなくては」
「お父さま、寒い……」
「ああ、マリエッタ。こんなに冷たくなって可哀想に!」
お父さまはマリを毛布で包んで抱き上げると足早に歩いていく。
お母さまや使用人達もおろおろしながら一緒に付き添っていく。
残ったのは私とソフィ伯母さまだけ。
止まらない涙の向こうに、伯母さまの水色のドレスがぼんやり見えてそうとわかった。
そうだ。ソフィ伯母さまならっ。
すぐに顔を上げて、縋るように伯母さまを見上げて口を開く。
「ソフィ伯母さま、わ、私は――っ」
「ジュリエッタ。あなたにはがっかりだわ」
今まで聞いたことがない厳しい声で言葉をさえぎられた。
息をのんだせいか、呼吸が止まったせいか、喉がひくっと変な音を立てる。
「そんなにピンクのお人形は気に入らなかったの? だったらちゃんと口で言いなさい。私の前ではいいように言って、陰ではこんな卑怯なことをする子だったなんて思ってもなかったわ。ああ、なんてこと。ずっと騙されていたなんて!」
「伯母さまっ」
「ねえ、ジュリエッタ。自分がどんなにひどいことをしたのかわかっているの? 泣いてもダメよ、マリエッタの方があなたより何倍もつらくて悲しい思いをしているんだから。ちゃんと反省しなさい。今日はあなたは晩餐に出なくてよろしい。夕飯も抜きにさせます!」
伯母さまの声がどんどん甲高くなっていく。
「ああ、なんて恐ろしい子でしょうっ。ジュリエッタを見損なったわ!」
涙を流す私を三角の目で見下ろしたあと、ソフィ伯母さまは屋敷へ戻っていく。
その姿が小さくなるごとに、体がぶるぶる震えてしまう。
信じてくれなかった。
誰も、誰ひとり私の言うことを信じてくれない。
そのことがショックでたまらなかった。
マリみたいに上手に話せない。
けれどだから全身で違うと訴えたのに、皆はマリの言葉だけを鵜呑みにした。
お父さまもっ、お母さまもっ、ソフィ伯母さまもっ、皆、皆がっ。
何で!
何でっ!?
「ぅ、う、ぅわああああ……っ」
胸の奥から、お腹の底から悲しみが声となって生まれて、口から飛び出していく。
大粒の涙が次々と溢れてしたたり落ち、頬を伝って顎からこぼれていった。
苦しい、苦しい、苦しいっ――――。
どんどん外に悲しみを放り出すのに、体の中から全然なくなってくれない。
指先にまで満ち溢れている悲しみのせいで、体がつらくて苦しかった。
空を見上げるように大きく口を開けて、手をぎゅっと握って、喉が痛くなるほど泣き声を上げる。
お母さまが戻ってきて抱きしめてくれるかと思った。
お父さまが走ってきて抱き上げてくれるかと思った。
こんなに泣いてるんだから乳母が飛んできてくれると思った。
なのにいつまでたっても誰も来てくれなくて、私は泣き続ける。
その時、ようやくわかったんだ。私はひとりになってしまったんだって。