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アントン・ロッシ

話の中で虫が出て来るのでご注意ください。

「こんにちは、アントンさま」


 驚かさないように少し離れた場所から声をかけた。

 けれど無理だったようで、アントンくんは悲鳴を上げて飛び起きると本を抱えて後ずさる。

 私を見とめると、銀縁メガネの奥にある目をパチパチさせた。


「ジュリエッタ? 今日は王都観光に行ったんじゃ……」


「お母さまが体調を崩して行けなくなってしまったの。だからお散歩。素敵な庭ね。アントンさまはここで何をしてるの? 何の本を楽しそうに見ていたのかしら」


 灰色の髪に茶色の目をしたアントンくんは、さっと表情を硬くして俯いた。


「別にいいだろ。奥の庭なんて面白いものは何もないよ。奥様が自慢のバラ園は本邸のすぐ目の前だ。散歩ならそっちへ行けばいい」


 素っ気ない言い方だ。

 それでも伯爵さまやソフィ伯母さまがいた昨夜に比べるとちゃんと返事が返ってくるのが嬉しかった。

 気分も弾んでくる。


「ありがとう。バラ園はもう見てきたの。でも、私は小さな花が咲くこっちの庭の方が好き。夕暮れスズランなんて初めて見たわ。あれって夕方になるときれいな音を出すんでしょう? アントンさまは聞いたことある?」


「それは……もうっ、ぼくは女のおしゃべりになんか付き合わないんだからな。あっちへ行けよ! 奥の庭には本邸の人間は入ってこないんだぞ」


 本邸の人間とはソフィ伯母さまに関係する人達だろうか。

 よくよく目をこらせば、庭のさらに奥に何か建物が見える。


「もしかしてアントンさまはあちらで暮らしてるの?」


「だから何。もう本当に行けって。ここにいるのが見つかったら、ジュリエッタが叱られるんだからな」


「ふふ、ありがとう。でも大丈夫、叱られるのは怖くないわ。最近はいつだって叱られてるからちょっと慣れちゃった。それよりその本はなあに? アントンさまは何を読んでいたの?」


 アントンくんって優しいんだわ。


 よし、まずはリサーチだ。

 趣味や好きなものを知れば会話のきっかけになるかもしれない。


 アントンくんが胸に抱えた本をうずうずと見ると、彼は一瞬嫌な顔をした。

 すぐに意地悪そうな表情になって私を見る。


「見たいなら見せてやる。えっと……ほら、この本だ」


 分厚い本をめくっていたアントンくんが、ページを開いて私に見せてくる。

 載っていたのは、カラーで描かれた青虫。

 説明書きを見るに、どうやら図鑑だったらしい。


「わあ、レモン大アゲハ蝶の幼虫ね。私、この図鑑見たことない。すごく詳しく書いてあるわ」


「……何でびっくりしないんだよ。嫌じゃないのか?」


 どうやら嫌がらせをするつもりだったらしい。


 確かに、普通の令嬢は虫が苦手だろう。

 こんなページを見せられたら、すぐさま悲鳴を上げて逃げたかもしれない。

 けれど前世で庭師の家庭に育った私としては、青虫や毛虫程度で驚いていたらやっていけないのだ。


「嫌じゃないわ、レモン大アゲハの幼虫は刺さないもの。うちの庭師のトム爺が言うにはね、人間が嫌がる虫も植物たちには無くてはならない大切な存在なんですって。レモン大アゲハの幼虫は葉っぱを食べるからちょっと違うけれど」


 この世界でも益虫と害虫がいることはトム爺から聞いて知っている。


「ジュリエッタって変わってるな」


 アントンくんはびっくりしたみたいに大きな目になっていた。

 この屋敷に来て、初めてアントンくんと目が合った。

 きれいなチョコレート色の瞳をしているのに気付く。


「でも……悪くない。だから、ぼくのことはアントンでいいよ」


「うん。じゃあ、アントンね。アントンは虫が好きなの? だからさっきは楽しそうだったの?」


 メガネ越しのその目に警戒心も嫌な感情も浮かんでいないのが嬉しくて歩み寄った。

 今度はアントンも拒絶せずに、私に見えるように図鑑を広げてくれる。


「虫も好きだけど、特に蝶が好きなんだ。ほら、レモン大アゲハ蝶だ。きれいなレモン色だろ? 幼虫のうちは青い葉っぱを食べるくせに、蝶になると羽がレモン色なんて不思議だよなあ」


「もっと暑い国の蝶よね。アントンも実物は見たことないでしょう?」


「へへっ。ジュリエッタ、来いよ。こっち!」


 手を握られて引っ張られる。

 勢いよく走り出した先に、小さな白い花が咲く木があった。


「ええ! これ、レモンの木?」


「氷レモンの木。お祖父さまに頼んで取り寄せてもらったんだ。寒い地方でも花が咲いて小さなレモンが実るんだ。ほら、ここ。見て」


 指差す葉の上に、先ほど図鑑で見た青虫がいた。


「わあ、この国にもレモン大アゲハ蝶っているのね。すごいわ!」


「レモン大アゲハって言うけど、柑橘類だったら何でもいいみたいで――」


 アントンがどんどんおしゃべりになっていく。

 もちもちとした頬が紅潮して、とても楽しそうだ。


「だからデジレ蝶が――っわ、ごめんっ」


 話に夢中になっていたせいか、ずっと私の手を握っていたことにようやく気付いたようだ。

 慌てて振り解くアントンは顔が真っ赤になっていた。


「大丈夫よ、痛くなかったし。それより、王宮には本当に古い精霊さまがいらっしゃるの?」


「う、うん。デジレ蝶を王宮で育てられるのは、その古い精霊さまがいらっしゃるからだって聞く。ぼくは、どうしても幻のデジレ蝶を一度見てみたいんだ。あさって王宮へ行くだろう? その時にちょっと探してみようって思ってるんだ。せっかく王宮へ入れる機会なんだから」


 アントンくんが内緒だぞとひそひそ話してくれる。


 ようやくわかった。

 ジュリマリのマンガで、お茶会からアントン・ロッシがいなくなる理由。

 デジレ蝶をひと目見ようとこっそり抜け出したんだ。


 やっぱり七歳児だわ。

 七歳児といったら小学生だものねえ。


 何だか微笑ましい目でアントンを見てしまう。


「アントンは本当に蝶が大好きなのね。将来は蝶の研究家になりたいの? 王宮にはデジレ蝶を専門に研究する機関もあるんでしょう? 国中の蝶を集めた温室だってあるのよね」


 にこにこしてアントンを見ると、急にしゅんとして俯いてしまった。

 灰色の頭に小さなつむじが見える。


「ぼくはお父さまの後を継いで法曹界に入る。だからデジレ蝶の研究家にはならない。本当はこの図鑑を持っていることも内緒なんだ。奥様に知られたらいつもみたいに燃やされてしまう。法曹の勉強に関係のないものに興味を持つのは禁止されているから」


 アントンは胸に抱えた図鑑を抱きしめた。


 うーん、思った以上に重い内情だった。


 ロッシ伯爵さまは法曹関係の仕事をしている。

 だから息子のアントンにも後を継ぐことを望まれているんだろう。 


 けれど、だからってそれ以外のものを禁止にするなんて。

 ましてや本を燃やすことが日常になっているなんて、ソフィ伯母さまもかなりひどいことをしている。


 衝撃を受けていたら、アントンが顔を上げた。


「だから今だけだ。大きくなったら図鑑も本も何もかも捨ててしまうから、だから今だけは誰にも内緒にしてくれないか。ぼくが蝶を好きだってこと、図鑑や本をこっそり持っていることは奥様にもメイドにも誰にも言わないで。お願いっ!」


 チョコレート色の目で必死に、泣きそうに、けれど真っ直ぐに私を見つめてくる。


 ああ、頑張ってきたんだなって思った。

 ひとりでこっそりこの屋敷で戦ってきたんだってわかった。

 もしかしたら実のお母さまやお祖父さまは味方かもしれない。

 けれど、お父さまの後を継ぐために大好きな蝶の研究を全部捨てなきゃならないというという悲しみや悔しさと今まさに戦っているのは、この小さなアントンなのだ。


「言わないわ」


 だから私も真面目な顔で答えた。


「誰にも言わない。ソフィ伯母さまにもこのお屋敷のメイドにも、私のお母さまにもマリエッタにも誰にも言わないわ。私の胸にだけに納めておく」


 アントンの秘密をしまい込むみたいに、両手でそっと胸を押さえる。


「ジュリエッタ……」


 どうしてアントンがそんな呆然とするのかわからなかった。

 誰にも言わないと約束したのに、さっきと同じような泣きそうな顔をするのか、ちょっと眩しそうに目を細めるのか――感情の機微には聡いはずなのに少しもわからないのがもどかしい。


「アントン、もしかして信じてない? 私が誰かにしゃべると思ってる?」


「ち、違うっ。ちゃんと信じた。ジュリエッタは誰かに言うような子じゃない。ちゃんとわかったから……嬉しかったんだ」


 真っ赤になった顔を逸らして、最後ぼそりと呟いた。


 わあ、目の前で照れられると私まで恥ずかしくなる。


ようやく新しいキャラが登場しました!

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