マリの帰館
この世界は思いのほか本が充実している。
子供が読める絵本や図鑑なども多いし、内容もカラーのイラスト入りだ。
さすがに写真は存在しないけれど、私が愛用する植物図鑑シリーズには草木が本物そっくりに描かれており、参考になるし読んでいてとても楽しい。
お父さまとお母さまが本を読む人でもあったのだろう。
以前はマリエッタが、今では私が図書室に入り浸るせいか、興味のある本は出入りの商家に頼めば仕入れてくれるのも大きい。
「デジレ薬って、ラベンダーのエキスに浸して作られるのね」
ポーラたちのために、なるべく早くデジレ薬を渡してあげたい。
そのためにと図書室でデジレ薬について調べていたが、あまり香しくなかった。
大人になってから罹る『十日熱』はデジレ薬が特効薬だ。
自国民であれば自然治癒しやすいが、ポーラのお父さんはその可能性が低い。
だからなるべく早くデジレ薬で治してもらいたいのだが。
「大人一人分の薬としてデジレ蝶の繭が一個必要だなんて……」
私が持っているのは小さなネックレスに加工されたデジレ薬。
それが繭ひとつ分ちゃんとあるのか不安だった。
飲んでも量が足りずに病が治らないとかあったら悲しい。
お母さまに聞いて、いらないデジレ薬のアクセサリーがあったらもらうのはどうだろう。
それとも、もう一つお守りが欲しいとおねだりしてみようか。
どちらにしろ少し待ってもらうことになりそうだ。
ポーラに申し訳ないなと思っていると、屋敷が賑やかになったのに気付く。
王都へ行っていたマリが四日ぶりに帰ってきたようだ。
のんびりした時間もこれで終わりね……。
デジレ薬の本を棚に直して新しく絵本を取り出したとき、慌ただしい足音が聞こえてくる。
「ジュリ姉さま!」
乱暴にドアが開いてマリエッタが飛び込んできた。
後ろから乳母も「走らない!」と小言を口にしながらついてきたのが見えた。
「ほら、見て! 可愛いでしょう。ソフィ伯母さまから特別にいただいたお人形なのよ。この前のお人形よりさらにドレスが豪華なの。私のために特別に誂えてもらったのよ」
マリが見せるのは、刺繍も美しいオレンジ色のドレスを着た人形だ。
「ねぇ、お姉さま。これで一緒に遊びましょう? ニーナ、お姉さまと一緒にお人形遊びがしたいから、二人きりにしてちょうだい。このお人形はお姉さまのものでもあるんだから」
マリが言うと、乳母は感動したように頷いて図書室を出ていく。
ドアがしっかり閉まったのを見て、マリがようやく表情を変えた。
「あー、疲れた」
可愛い声でオヤジのように呟くと、ソファにお尻からジャンプするようにドシンと腰かける。
「王都は楽しかったけど、オバサンの相手は本当に疲れた。好き好きアピールしないと機嫌悪くなるし、ちょっと行儀悪いくらいで怒鳴りつけてくるしさ。こんな人形くらいでオーバーに恩売ってくるんだから、ウザいったらない。やっぱ、クソババアだわ。あんたを行かせればよかった」
人形をソファーに放り投げて、マリは髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。
王都の伯爵家でも誰かメイドに頼んで髪をカールさせたらしい。
が、苛立たしげにマリがかき乱すごとに、ふんわりとした髪は鳥の巣のように膨れ上がっていく。
「そうそう。メガネ豚に会ったわ。あいつって前からあんなにしゃべらなかったっけ? こっちが気ぃ使って話しかけてやってんのに無視すんのよ、全無視。メガネ豚のくせにムカつく! しかも生意気に睨んでくるから告げ口してやったわ。『アントンが教えてくれたけど、昨日の晩餐で出た七面鳥は伯母さまにそっくりなんですってね。七面鳥ってどんな鳥なのかしら』って。おばさん、顔に青筋立ててて笑ったわ。私が帰った今頃はたっぷりお仕置きでもされてるでしょ。ハッ、ザマーミロだわ」
マリの意地悪な話を聞くと、いつも嫌な気持ちになる。
私が思いっきり不機嫌顔しているのに、マリは気にもとめずに自分の好きな話だけをしゃべり倒すのだ。
マリの中にいる『嫌なマリエッタ』は魔物付きみたいだわ……。
怖い魔物が取りついたみたいに残酷なことを平気でする人間のことを、この世界では魔物付きと呼ぶ。
前世での『鬼』や『悪魔』などと同じ悪口だ。
人に対して使うのは失礼だけれど、ついつい言いたくなる。
もちろん心の中でだけれど。
「けど、やっぱアントンはないわ。あのメガネ豚に幾ら貢がれても嬉しくないし、傍に寄られたくもない。告白なんてされたときには鳥肌立つ自信があるわ。小さいのにぶくぶく太っててみっともないったら。あいつ、いつ見ても何か食べてんのよ。あれだけ食べりゃ太りもするわ。あーっ、キモっ。しかも陰気なメガネなんかかけちゃってさぁ」
マリが顔を歪めて嘲笑う。
「金づる候補だったけど、お父さまに甘えたらお金は幾らでも出してくれるでしょ。うちってそれなりに金持ちみたいだし。それか学園で、顔もよくてお金も持ってる男でも見つけるかなぁ。それも楽しそう」
あまりにもひどい言葉に聞いていられなくて、とうとう立ち上がった。
読んでいた本を抱えて本棚へと歩き出す。
「ちょっと! まだ私が話してんのにどこ行くの」
「マリの話はもう聞きたくない」
「はぁ? ジュリのくせに何言ってんの。生意気言ってんじゃないわよっ」
「ジュリのくせにってなあに? マリの言ってることがわからない。どうしてマリの話を私が我慢して聞かなきゃならないの?」
くるりと振り返って、ソファに座るマリを強い目で見返す。