fin 作:冴吹稔
冴吹稔
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浮標艇の水素タービン・エンジンに火を入れたのはちょうど夜明けとほぼ同時だった。 第二次調査隊の地上班四名は、最寄りの岩礁地帯へ向けて西へ針路をとった。目的地は着水地点からおよそ百二十キロメートルの場所になる。
「風が強いな」
調査隊で最年長の海洋学者、モディリアーニ教授が誰に言うともなくそう呟いた。
地上班を乗せた浮標艇カレッタ号は毎時二十ノットの速度で移動していた。頬に風を感じるのは当然なのだが、頭上の低空を流れていく汚れた脱脂綿のような雲は、周囲の大気そのものが大きなスケールで動いていることを示しているのだ。
「陸地がほとんどありませんからね。恒星からの熱で温められた大気が、遮るもののないまま巨大な対流を作り出すんです」
気象学者のモーリス博士が滔々と――どこか上ずった口調で――説明を始める。
「なるほどな。比較的高緯度のここいらに降りたのは、その影響を軽減するためか」
波しぶきで濡れた禿げ頭をタオルで拭きながら、教授がうなずいた。
メンバー同士が和やかにやってくれる分にはありがたい限りだ――ダンは操縦桿をわずかに右へ倒しながら、胸のうちでそう呟いた。
洋上の風速は今のところ、平均して毎秒十メートル前後。浮標艇の操縦に支障はないものの、艇体が風下へ若干流されるのは否めない。時々操縦桿を動かし、針路を修正してやらなければならなかった。
うねりに乗ってゆっくりとした揺れを繰り返すデッキの上。隊員たちは興奮と緊張を貼りつかせた表情で前方の水平線を睨んでいる。
教授の半白の眉毛にはびっしりと水滴がついて光っている。ダン自身の顔にも、先ほどから風で舞い上げられた海水の細かな飛沫が吹きつけられ続けていた。
気密服やヘルメットなどだれひとり身に着けていない。第一次調査隊の報告で、大気にも海水中にもこれといって有害な物質や病原生物は存在しない、と結論付けてられていた。
(本当のところ、まだどうだかわかったもんじゃないが……)
せっかく呼吸できる大気があるのに、気密服のヘルメット内によどんだ汗臭い空気を吸うのは耐えがたいことだ。
故郷のそれよりもわずかに緑に寄った色の空を見上げながら、ダンはひんやりとした潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「立ちずくめで疲れない? 自動操縦装置に切り替えればいいのに」
声のした方を振り向くと、もう一人の隊員、水中作業のスペシャリストで写真家のジャネット・ヴォーンがそこにいた。操船ブリッジから一段下がったデッキの上で、手すりに頬杖をついてこちらを見上げている。
「自動操縦はあんまり信用してなくてね。まだ海流や海底地形のデータも十分じゃない……それに俺は見張りも兼ねてるからな。要するに立ってるのが仕事さ」
直接目を合わせず、努めて不愛想にそう答える。ジャネットは年のころ三十そこそこ、知的なまなざしをした金髪の美人で、ダンは彼女に対して幾分の気後れを感じていた。
ダン――ダンジュウロウ・フカマチは控えめに言って醜男だ。原始人を思わせるいかつい顎と、左右に間隔の開いた三白眼。それに犬歯はおろか前歯までことごとく三角形に尖った乱杭歯。
人気コミック作家ケンタウリ・ミューラーが描くところの野人戦士が立体になったような、と言えばむしろほめ過ぎになるくらいだ。
傭兵時代にはこの容貌のおかげで舐められることもなく一目置かれたが、平和な世界に身を置いて学術調査組織の末端で働いていると、容貌へのコンプレックスは募るばかりだ。
ジャネットがひどく気安げに話しかけてくるのに悪い気はしない。だがその一方で、ダンの心中には気ぜわしい感じと彼女を遠ざけたい気持ちもつのっている。
「この艇って、今度の計画に合わせて作られた新型でしょう? そんなに難しいの?」
「事前に訓練は受けたが、少なくとも機械任せにできるほど簡単じゃないな。とりわけ今は駄目だ」
カレッタ号は、ウミガメとマンタエイの双方に幾分似通ったシルエットを持つ、X字型をした差し渡し25mほどの平べったい宇宙往還機だ。大気圏に単独で突入し衛星軌道まで再度上昇する能力を持ち、同時に海上での活動に特化した能力を持っている。
浮標艇、と呼ばれる通り排水量に依存しない浮航システムを備えていて、少々の波や強風でも転覆するようなことはない。その分、直進性が犠牲になっている。母船からの観測データと照合しつつの自動操縦も可能だが、現状それには一つ、重要な障害があった。
「風のせいでアンテナマストをあまり高く延ばせない。突風でもあれば折れてしまう。この調査が終わったら仕様変更の要求書をまとめなきゃならんな」
「なるほどね……ご苦労様」
ジャネットは納得したようだった。
通信を阻害する分厚い電離層の影響をカバーするため、カレッタ号の衛星通信アンテナには試験的に大きめのエレメントが使用されている。だが実際に地表で展開してみるととても使えないことが判明した。常時秒速十メートル以上の風が吹く洋上では、アンテナが受ける空気抵抗が大きすぎるのだ。
結果的に、艇のナヴィゲーション・システムに記録された海図と照合しながら、手動で針路を修正し続けなければならない。調査隊は切り詰めた人員で構成されていて、交代要員は存在しないのだ。
目的の岩礁がそう遠くないのがありがたかった。現地に着いて停船すれば、あとは母船とのランデブーまで、極端な話寝ていても問題はない――まあ、現実問題としてはなにかと科学者たちに労働力を提供することになるのだろうが。
ここは人類が到達可能な範囲に存在する、貴重なG型スペクトルの恒星系だ。特に豊富な水に恵まれた、この第二惑星オンディーヌβの質量は地球の百二パーセント。地球型の大気を持ち、全表面積の九十五パーセントが海だ。資源として、居住地として、価値は計り知れない。
地上班の主な任務は、岩礁地帯でのサンプル採取だ。水面下に存在する岩盤を少量削り取って持ち帰り、地殻を構成する鉱物の組成を軌道上の母船で分析する。
同時に、水中の生物についてもより踏み込んだ調査が予定されている。第一次調査隊の観測では顕微鏡レベルの原生動物や微細なプランクトンしか発見できなかったが、水深が浅く条件の整った岩礁地帯なら、ある程度大型の生物も発見できるかもしれない。
――そうなれば、ボーナスは少し期待できるかもな。
ダンはわずかに口元を緩めた。
非常時の統率力と広範な車両や船舶の操縦技術を買われて、この調査隊に編入された身ではある。
だが学識者でない彼個人の地位はごく低い。探査計画に出資している企業の、最低ランクのサラリーマンと同水準の給料が保証されているだけだ。
それでもこの調査が何か著しい成果を上げたとなれば話は別、彼にもそれなりの賞与が出る可能性があるのだった。
『ポータラカ』と名付けられたくだんの岩礁地帯は、大まかに直径三キロメートルほどの規模だった。水深は平均して十メートル前後、周辺の水域と比べると著しく浅い。
「どうやらもとは小規模な海台のようだ。形成された後に海面近くまでさらに隆起して、頂上部が海水の侵食を受けた、というところかな」
キャビン内のモニタースクリーンで海底地形の解析画像を睨みながら、教授が目を輝かせた。
「造山運動や火山活動が存在するのなら、利用可能なレベルで集積された鉱物資源の存在も期待できる」
「あとは生物ね」
ジャネットは潜水用ドライスーツに着替えている。カレッタ号に搭載された水中スクーターを使って、岩礁を見て回り写真を撮るつもりらしかった。
彼女の首から下がっている丸っこいものは、手元から離れると二十秒後に筐体内のタンクを比重の軽いガスで満たす機能を備えた、軍用の水中カメラだ。
「さっそくお散歩にお出かけかね?」
「ええ。あなたも来る?」
ジャネットのそっけない誘いを、ダンは手を振って断わった。
「やっと艇を停めて立ち仕事から解放されたところだ。ゆっくりメシを食わせてくれ」
「そう。じゃあごゆっくり」
冷ややかな苦笑を浮かべて、ジャネットは後部甲板下の船内ドックへと向かった。
ダンは全粒粉のクラッカー一包みとチューブ容器入りのレバーペースト、真空パックされたトマトシチュー、それに炭酸水をトレイに載せてデッキへ上がった。ここなら食事と見張りを同時に行える。キャビン内にいてもマスト根元に設置された全周カメラをモニターできるが、彼は外の空気に直接肌をさらすことを重視していた。傭兵時代からの習慣だ。
ゆっくりとローリングを繰り返す艇体の動きをよそに、分厚いクラッカーを一枚とってレバーペーストをたっぷりと盛り付ける。歯の間でザクッと音を立てて崩れる感触と、ねっとりと舌に絡むペーストの、冷たい脂と塩の味――満足感。軍のレーションよりずいぶん、味がいい。
無糖の炭酸水で口の中を洗い流し、もう一枚――袋に指を突っ込んだその時。漠然と海を眺めていた彼の認識を、異様なものがかき乱した。
水面から黒々とそびえ立つ、三角形の物体。ヒレ。
――まさか!?
ダンはかぶりを振った。ここは地球ではない。サメが生息しているなどというのは馬鹿げた話だ。だがその黒い突出物は、恐怖と警戒感を呼び起こすのに十分だった。
子供のころ科学読み物で得た知識を思い起こす――洋上でのサメとイルカの見分け方。イルカは体を上下に波打たせて泳ぐ。だからイルカの背びれは背中の肉も一緒に水面に出る、云々。全く意味がない。
腰のベルトポーチからレーザー測距儀を掴み出し、ファインダーをのぞき込む。距離インジケーターの数値は百五十メートルを示している。レティクルに並んだ三角形のシュトリヒ表示に照らし合わせると、ヒレの幅は――
「前縁から後縁まで五メートル?!」
ダンは目を疑った。あれが仮にサメだとして、水面下に隠れた体とヒレの比率が地球産のものと同程度だとすれば、全長は優に四十メートルを超える見積もりになる。
「冗談じゃない!」
海中には今、ジャネット・ヴォーンがいる。四十メートルのサメに襲われたら低速の水中スクーターではひとたまりもない。丸ごとひと飲みだ。
バタバタと靴音を響かせてロッカールームへ向かう。モーリス博士が何事かとダンをとがめた。
「どうしたんだ、フカマチ君!」
「サメだ……いや、正確には分からんが、どでかい化け物がいる!」
ロッカーには私物も支給品もごた混ぜだが自衛用に若干の武器を収めてある。ダンはその中から七十四ミリ無反動ハープーン・ガンを取り出した。
大昔に使われた捕鯨砲――海洋哺乳類を捕殺するために工夫された銛打ち用の火器――を個人携行型に改良したような代物だ。銛の先端には炸薬が仕込まれて殺傷力を高めてある。
デッキに戻ると、怪物は先ほどよりカレッタ号に接近していた。蒼黒いヒレの所々についた、得体のしれない白い傷跡。悠然と水をかき分け手白い波しぶきをあげ、それはジグザグに艇の周囲を回っていた。
「あんな、あんな大きな生物が!」
モディリアーニ教授は舷縁のフェンスを握りしめながらも、艇から飛び出さんばかりに興奮している。
「まさか撃つ気じゃないだろうな、ダン! やめてくれ、この惑星で初めて出会う高等生物なんだ!」
学者の気持ちはわからなくもない。だが、ダンの職分は第一に隊員の安全保持と生還だ。
「モーリス博士、ジャネットの状況は?」
「分からん。スクーターとドライスーツじゃなく硬式潜水服なら有線で連絡が取れたんだが」
海水中では無線電波は減衰して殆ど届かないのだ。
「ヘタすると上がってきたところで鉢合わせだな。いまあいつをぶっ殺すしかない」
「せめて、せめて銛にはロープをつけてくれ! 引き揚げて調べたいんだ!」
「四十メートルのサメを? バカな。カレッタ号が転覆しますよ、あんなものを乗っけたら」
照準器を起こして背びれの根元から五十センチほどの部位に狙いをつけ、トリガーを引く。燃焼ガスの噴出音とともに銛が射出され、狙った場所にあやまたず着弾した。
次の瞬間――ダンは目を疑った。
件の生物は苦し気に身をよじると、水面から高く飛び上がった。だが、そこに姿を現したのは大昔の巡航ミサイルや航空機を思わせる、あの長く伸びた紡錘形の魚体ではなく、ハンググライダーを横倒しにして突き立てたような――言い換えれば競技用のヨットに帆とほぼ同サイズのセンターボードを備えたような――サメとは似ても似つかぬ生き物だったのだ。
それはしばらく断末魔の苦しみにのたうった挙げ句、横倒しの姿勢で力なく水面に浮かんだ。魚市場で使うものに似た鉤付きの棒で手繰り寄せ、カレッタ号の『前肢』部分に引きずりあげる。
拍子抜けと達成感がない混ざった奇妙な感覚に、男たちがこらえきれず笑い始めたちょうどその時、ジャネットが水面に顔を出した。
「一体何があったって言うの? ……何これ。こんなモノがいるなら、生きてるうちに写真に取らせてほしかったわ」
憤慨するジャネットをモーリス博士がなだめた。
「まあまあ、ジャネット。フカマチ君は君の安全を優先したんだ。それに――」
ジャネットがダンの方をちらっと見て、きょとんとした顔になった。
「当然、こんな生き物がいるなら一頭で終わりってことはないさ」
博士が遠くの海面を指さす。言葉通り、岩礁には一つ、また一つとその巨大なヒレが近づきつつあるようだった。
「こういうの、配信映像のお笑い番組でたまにあるよな」
「大騒ぎしたあげく、芸人が大きなヒレだけ背中に付けてビーチに上がってくるあれかね」
「教授もああいうの観るんですか? いやだわ」
その日の残り、四人は夜まで「ヒレ」の解剖と分析に忙殺された。その生きものについての同じような他愛もない冗談が何度も繰り返され、瞬く間に消費される間に、それの実態が徐々に明らかになった。
体のほとんどは『背びれ』で、全長にしておおよそ六~七メートル。口は櫛状になった歯で縁取られ、プランクトン食であることが推察された。
「これは当初の印象よりはずいぶん繊細な生きものだな。この特徴的な背びれを構成する骨格をみたまえ。ちょうど鳥の骨のように中空構造になっているし、根元の関節構造からすると、かなり自由に動かせるようだ」
モディリアーニ教授はディスプレイ上に次第に構成されていく、生き物の全身骨格モデルを示した。
「この下側のヒレは、対照的に堅牢で分厚い骨を持ち、ほとんど動かない。見た通り、ヨットのセンターボードと同様の機能を持っているようだな」
「ヨット、ね」
モーリス博士がそのあとを引き取ってしゃべりだした。
「まさにヨットだ。岩礁に集まってきたほかの個体の挙動を観察する限り、彼らは水面から上に突きだしたこのヒレを縦帆装置として使い、尾ヒレはごく限定的にしか動かさない。つまりこの惑星の洋上に吹き続ける恒常風を利用して、広い範囲を回遊していると思われるね。興味深い生物だ」
「『この生きもの』では呼びにくいな。正式な学名はおいおいつくことに成るんだろうが、我々だけで当面使うにしろ、何か呼び名を考えたいところだ」
「『ディンギー(キャビンを備えない小型ヨットのこと)』なんてどう?」
「悪くないね。愛嬌があるし」
「外見のイメージをうまく伝えていると思う」
ジャネットの案が学者二人の賛同を集める。だがダンは内心で思っていた。
(あんな化け物、ヒレで十分だ)
翌日になると、ポータラカ岩礁へ現れるディンギー――ヒレの数はさらに増えた。その動きがダンの気に障った。
ディンギーは好戦的な生物ではないようだし、鋭い歯も爪も、危険な毒針や触手ももっていない。だが、ひどくせわしない動きでしきりにカレッタ号の周りをうろつくのだ。
「こいつら、何をしたいんだ?」
四日目。ダンはブリッジの上から双眼鏡で、ディンギーの動きを眺めてため息をついた。
大型生物の発見は喜ばしいトピックだったが、その後本命の調査は難航していた。岩礁の内側は海水の流れが速く複雑で、干潮と満潮のそれぞれピークに当たるわずかな時間を除いてはスクーターの助けなしでは思うように動けない。そこへ追い打ちをかけて、ディンギーが執拗にスクーターの進路を遮る。
ディンギーたちの何割かは、さらに奇妙な行動をとっていた。
数頭で列を作り、岩礁内の水路のあちこちで帆の半分ほどを出して沈降し、じっとしている姿が見られるようになったのだ。
「まるで、なにかを待っているように見えるわね」
ジャネットが苛立たし気に水面を睨んだ。ディンギーに妨害されて、彼女の仕事はほとんど進んでいない。
三十メートルほど離れた地点の水面に突き出た二つの岩の間に、ディンギーが等間隔に並んで身を沈めている。その姿を見ているうち、ふとある考えがダンの頭に浮かんだ。
「教授! 博士!」
年長者二人を呼んだ。二人は初日に仕留めたディンギーの体組織から標本をつくる作業に没頭していたが、すぐにデッキに上がってきた。
「何事かね」
「浮標艇を動かします。どうやら俺たちは、奴らがしたがってることの邪魔をしてるらしい」
「ふむ?」
「オンディーヌβで確認された生物の中じゃ突出して高等だが、ディンギーは高い知性を持ってるというほどじゃない……そうですね? 解剖の時聞いた話じゃ、脳らしきものの容積は百五十ccってとこだった」
「ああ、脳化指数の問題があるから単純比較はできんが……彼らはプランクトン食だ。獲物を追跡するような行動をとらないなら、それほど高い脳機能は必要ないはずだ」
「そんなのんびりした奴らが、あえてひと処に寄り集まって、俺たちのような侵入者を押しのけてまでやろうとすることと言ったら?」
「ふむ……」
モディリアーニ教授は眉をしかめたが、すぐにその目を見開いた。
「繁殖か?!」
「ああ。俺みたいな無学な人間でも大体見当がつく」
カレッタ号は周囲に出していた観測機器やブイの類をすべて収納し、ゆっくりとポータラカ岩礁の外縁部に移動した。
「解剖したディンギーに、交尾器として特化した器官は見られなかった――運動性の生殖細胞を体内に持つ、つまり雄性と推定できる個体だったにもかかわらず、だ」
サメは雌雄が体をからみあわせるようにして交尾し、体内で受精する。ディンギーのヒレは遠目にサメを連想させるが、その実体はやはり別種の生物なのだ。
「つまり、彼らは水中に、その……精子を放出する、というわけね?」
「そう推定できるね。だが、あの岩礁は水深こそ浅いが、水流が激しい……受精を行うにはあまり適してないはずだが」
「多分、もうすぐ答えが出る。あれを見てくれ」
そう言ったダンの双眼鏡の視野の中に、見慣れないものがあった。大小三枚のヒレを背中に並べ、スクーナー船にも似た姿でポータラカ岩礁へ入ってくる、紫色をした巨大な物体。
「多分、あれが奴らのメスだ……女王様ってところかな?」
(奴らの下ヒレはあの五メートル下まで伸びている……)
それは、岩場の地形によっては水の流れを半ばせき止める程の深さだ。そんなディンギーが等間隔に沈んでいる。
よく見ると『女王』は、その巨体の後方にさらに数十頭のディンギーを引き連れているようだった。
新たな群れはこれも岩礁の中へ侵入していき、あちこちの岩の間をつなぐように整列して沈降した。
「ああ……海面を見たまえ。波が静まっていくぞ!」
モーリス博士が感嘆の叫びをあげた。
紫色に輝くメスがその鎮まった水面をかき分けて進み、岩礁の中央部で停止した。
「彼らはこの広い海の中の数少ない浅瀬――こうした岩礁地帯で産卵するんだな。だがそうした場所は早い水流が複雑に渦巻く。放出された精子はあっという間に攪拌され押し流されてしまう」
モディリアーニ教授はビデオカメラを岩礁の中央に向け、熱に浮かされたようにしゃべり続けた。
「だから、オスたちは自分の身体を並べて水流を制御する隔壁を作り上げ、その中で……」
吹き続けていた風が、ふと止んだ。
ほぼ同時に、四人の全身を奇妙な衝撃が突き抜ける。
「強力な低周波だ……!」
モーリス博士がうめいた。
「多分、産卵の合図だ」
メスの身体の周りの海水が、沁み出したようにエメラルドグリーンに染まる。
やや遅れて、岩礁に沈んだヒレのすべてからオレンジ色の物質が煙のように水中へ放出された。あたりの大気にある種の樹脂を過熱した時のような、甘くいがらっぽい独特の香りが満ちていく。
「不合理だ……確実な受精を狙うなら、こんな方法よりも体内受精を行う方が戦略としては理に適っている。コストもリスクも少ない」
「だが、現に彼らはこの儀式めいた行動を行っている。きっと何万年も……!」
感嘆の声を上げる三人をよそに、ダンはそっと踵を返してブリッジへ上がった――風がやんだ今なら、アンテナを延ばして母船と連絡をとれる。
大型生物が存在する事実は離昇とランデブーに先駆けて報告する必要があったし、フロートの下部に内蔵されたロケット・モーターに回す燃料は限られていて、ドッキングのためにはシビアなタイミング合わせと座標データが必要になる。そのための送信のチャンスは今を置いてなかった。
* * * * * * *
ディンギー発見のニュースは瞬く間に太陽系まで伝えられ大きな反響を呼んだ。オンディーヌβの今後の開発プランには大きな修正が行われるだろう。原住生物の繁殖に不可欠な場所の地形を破壊するような開発には、慎重な検討が必要になるのだ。
ダンジュウロウ・フカマチは主観時間で三か月後、バーナード星系の軌道ステーションで短い休暇に入った。雇い主の会社からは定額の給料とは別に、彼の普段の生活費半年分に相当する賞与が振り込まれていた。
ステーション居住区の狭苦しいアパートメントの壁には、オンディーヌの海を背景に遊弋する、二頭のディンギーを捉えたホログラム画像が飾られている。調査隊の解散時に、ジャネットから手渡された記念品だった。
「お前らは実に公平な奴らだな。あの岩礁に集まった全員で、子孫を残すチャンスを分け合うんだから」
ダンは壁に泳ぐディンギーたちを一瞥して満足げに呟き、炭酸水をもう一口あおった。
「まあ、悪くない仕事だった」




