和時計事始め
※本作は史実を元にしたフィクションです。
「父上。折り入ってお願いしたき儀がございます」
平伏する若者に、どこか狸に似た容貌の初老の男は穏やかな視線を向けた。
「下野守がおねだりとは珍しい。関ヶ原の勇者の折り入っての頼みとあらば、聞かぬわけにはいくまい。何なりと申してみよ」
細面で整った顔立ちの若者は顔を上げ、今や天下をほぼ手中に収めたと言っても過言ではない父に、臆する様子もなく言った。
「ではお言葉に甘えまして。津田助左衛門を賜れませぬでしょうか。尾張へ連れて参りとう存じまする」
「助左衛門をか? うむ……、よかろう。そなたにくれてやろう」
狸顔の男はしばし考えた後快諾し、若者は莞爾として微笑んだ。
――時に慶長五年(西暦1600年)、冬。
天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利を収めた狸、もとい、徳川家康は、形式上豊臣家を主家と仰ぎつつも、事実上の天下人となった。
跡継ぎである三男・秀忠に新都・江戸を任せ、ここ駿府で四方に睨みを利かせている。
関ヶ原の論功行賞も、無論家康が差配するところであり、今彼の前にいる若者――彼がもっとも目を掛けている四男・松平下野守忠吉には、尾張・美濃五十二万石を与えることがすでに決まっている。
忠吉は家康の四男であり、三男・秀忠の同母弟だ。
松平家の分家の一つ・東条松平家に養子に入り、十三歳(数え年。以下同じ)の時、武蔵忍十万石の城主となった。
美人の誉れ高かった母・西郷の局の血を受けて、彼も涼やかな美形顔である。
また、幼い頃から学問に励むとともに、武芸の鍛錬も怠らなかった。
そしてその武勇の片鱗は、初陣である関ヶ原の戦いで遺憾なく発揮されることとなった。
徳川四天王の一人・井伊直政の娘を娶った忠吉は、関ケ原の戦いにおいて、舅の後見の下、齢二十一にして遅ればせながらの初陣を飾る。
福島正則の手勢と競い合うようにして先陣を切った忠吉は、東軍に囲まれた中で孤立し決死の敵中突破を図った西軍・島津勢を追撃。鉄砲傷を負いながらも、徳川の武名を轟かせた。
兄・秀忠率いる徳川勢本隊が真田の軍勢に阻まれた上悪天候にも見舞われて合戦に間に合わず、石田三成対反三成派の豊臣家内部の抗争の様相を呈していた――実際、そういう側面は多分にあったのだが――関ヶ原の戦いにおいて、忠吉の手勢が徳川の存在感を示した意味は大きく、家康もこれを大変喜んだ。
そして、その後の論功行賞において、忠吉に尾張と美濃の領地を与えたのである。
尾張・美濃は東海道の要衝であり、また織田家ゆかりの地でもある。
その極めて重要かつ慎重な扱いを要する地を任されたことは、家康の忠吉に対する並々ならぬ信頼と期待の表れであった。
忠吉が尾張に赴くにあたって父・家康に所望した津田助左衛門正之とは、家康の洋時計――当時は自鳴鐘と呼ばれていた――を修理した人物である。
二年前のこと、朝鮮から贈られた自鳴鐘が故障した際、家康は京・大坂で修理ができる職人を募った。
しかし、手を挙げる者はなかなか現れなかった。
それはそうだろう。
この当時、西洋の時計を実際に見たことがある人間はほんの一握りで、ましてや中の構造を知る者など皆無に等しい。
そんな未知の機械を預かって、結局修理できませんでしたとなればお手討ちも覚悟しなければならないのだ。
誰もが尻込みする中、恐れながらと名乗り出たのが、安芸の国の生まれで京の町で細工師をしていた助左衛門だった。
齢四十にもならない、独り立ちしてはいるものの職人としてはまだまだ若手に属する助左衛門を見て、家康から修理の手配を命じられた役人たちは不安を覚えたが、他に引き受け手がいないのだから仕方がない。
助左衛門の元親方にも打診してみたが、親方は血相を変え、自分は細工の腕には自負があるがからくりは専門外だ、と丁重に断った。
そして、かつての弟子・助左衛門に、お前本当に直せるのかと尋ねると、助左衛門は幾分おどおどしながらも迷うことなくはいと答えた。
役人たちはその様子を見て、ええいままよと自鳴鐘を助左衛門に預けたのだった。
三月の後、助左衛門は自分の弟子たちに風呂敷包みを二つ持たせて参上した。
一つは言うまでもなく家康の自鳴鐘。そしてもう一つは、その自鳴鐘の複製品であった。
外観の装飾については、入手できなかった材料もあって多少質素になっているが、中身はほぼ同一で、もちろん同じように動くという。
役人たちは半信半疑でゼンマイを巻き、二台が同じように動くことを確認して大いに驚いた。
一つ修理に出した自鳴鐘が二つになって戻って来たことに家康も驚き感心して、助左衛門を称賛した。
そして助左衛門は、八十石十人扶持の俸禄をもって家康に召し抱えられ、津田姓を名乗ることとなったのである。
家康は駿府に伺候した大名たちに自鳴鐘を見せて自慢した。
忠吉もまた、駿府を訪れた際に父から自鳴鐘を見せられ、津田助左衛門という男に興味を抱いた。
今回、尾張に転封されるにあたり、忠吉は思い切って父に助左衛門をねだってみることにし、無事聞き入れられたのであった。
忠吉がかつての織田信長の居城・清須城に入ると、助左衛門は尾張藩御時計師という役職に任じられ、清須城下に屋敷兼工房を与えられた。
「と、と、殿!? こ、このようなむさくるしいところへ……」
その工房に突然姿を見せた忠吉に、助左衛門も弟子たちも慌てふためいた。
「ああ、そのまま、そのまま。今日は忍びじゃ。大げさにするでないわ」
そんなことを言われても、五十二万石の殿様であり、駿府の大殿のご子息でもある貴人が気安く訪れていい場所ではない。
しかし忠吉は、座敷でもてなそうとする助左衛門を強く制し、工房での作業を見学することを承知させた。
「ずいぶんと細かい作業じゃな」
助左衛門の手元を覗き込み、忠吉が感心したように言う。
最初のうちは忠吉に気を使っていた助左衛門だったが、いつの間にやら作業に没頭してしまっていた。
今やっているのは、鋼の円盤にやすりで歯車の歯を切る作業だ。
この時代、一定の品質の部品を量産できる工作機械などというものは存在しない。
歯車の一つ一つから、すべて職人の手作りである。
「はい。この歯が寸分でも狂っておりますと、歯車は止まってしまいまする」
「なるほど。気が遠くなりそうじゃ。ん? これも歯車か? 妙な形をしておるの」
机の上に並べられた部品の中から、忠吉が手に取ったのは、三角の歯が付いた筒状の鋼に軸を付けたもの。三角といっても二等辺三角形ではなく直角三角形で、ちょうど鋸を筒状に丸めたような形状をしている。
「それは雁木車と申しまして、自鳴鐘の肝とも言うべき仕掛けにございまする」
「ほう、肝とな?」
「はい。時計を動かすには、ゼンマイバネを用いたり、あるいは紐にぶら下げた錘を落として歯車を回したりいたします。されど、そのままですと歯車はあっという間に回り切って止まってしまいます」
「まあそうであろうな。釣瓶を井戸に落とせば滑車が回るが、井戸の底に落ち切ってしまえばそれまでじゃ」
「はい、まさに仰せの通り。そこで、歯車をゆっくりと回させ、なおかつ定まった時を刻めるようにせねばなりませぬ」
「それがこの仕掛けというわけか?」
「さようでございます。その雁木車と、こちらの棒天符と申す仕掛けを組み合わせまする」
そう言って助左衛門は、真ん中に軸が付いた棒を手に取った。
丁字型をしたそれは、棒の両端に分銅が取り付けられており、また軸の中ほどに二ヶ所、板が取り付けられている。
「歯車によってこの雁木車が回ろうとしますと、この棒天符の軸の下側の羽根板に引っかかり、速さが押さえ込まれます。それでも雁木車が回ろうとすると、やがて羽根板は押しのけられますが、そうすると今度は上側の羽根板が引っかかります」
助左衛門が実際に雁木車を手で回してみせた。
下の羽根板が雁木車の歯に押されると、今度は上の羽根板が雁木車の回転を止め、やがて押し切られて……というのを繰り返すと、二枚の羽根板の角度の範囲で上の棒天符が軸を中心に左右に振れる。
「このように棒天符が振れるのですが、この間合いは決まっておりまして。これを積み重ねることで、正確に時を刻むことができる、というのが自鳴鐘の仕組みでございまする」
「ほほう、なるほど。面白いのう」
忠吉は感心しながら、ふと浮かんだ疑問を助左衛門に投げかけた。
「それにしてもおぬし、どこでそのような知恵を学んだのじゃ? まさか、父上の自鳴鐘を開いてみてそれだけで仕組みを解き明かしたわけではあるまい?」
その問いに、助左衛門は少しばかり恥ずかしげな様子を見せながら答えた。
「はい。実はまだ二十歳にならぬ頃、堺の町に行きまして、そこで南蛮渡りの自鳴鐘を見る機会がございましたのです。それ以来、そのからくりにすっかり引き込まれてしまい、四方手を尽くして、明国の自鳴鐘に関する書物を手に入れました。私はどうも、細工の精緻を極めるよりからくりで物が動く仕掛けを考える方が性に合っておりますようで。親方には、不肖の弟子じゃと随分叱られましたが……」
「はは、そうであったか。じゃがそのおかげで、父上の自鳴鐘を直すことができたのじゃからな」
「お恥ずかしゅうございます。殿にも駿府の大殿にも、格別のお引き立てを賜りまして、お礼の言葉もございませぬ」
「何の。才ある者はしかるべく遇するのが、上に立つ者の務めというものよ。さて……」
そこで忠吉は言葉を切り、助左衛門の顔を覗き込んだ。
「おぬし、自鳴鐘というものをどう思うておる?」
「は……。どう、とおっしゃいますと?」
「からくり仕掛けで時を刻むというのは面白いが、実際の役には立たぬもの。そうではないか?」
「そ、そのようなことはございませぬ。確かに仰せのとおり、南蛮や明国朝鮮から渡ってきた自鳴鐘そのままでは、本朝では使えませぬが、いずれはちゃんと物の役に立つ自鳴鐘を……」
頬を紅潮させそこまで言って、助左衛門はふっと我に返り平伏した。
「こ、これはとんだご無礼を。お許しくださいませ」
「ああ、良い良い。気にするな。実を申せば、おぬしが本朝で使える自鳴鐘を作りたいと言うておったという話は聞き及んでおってな。父上に願うておぬしを清須に連れて参ったのも、それが理由よ」
「お、恐れ入りまする」
助左衛門はひたすらに平伏した。
時計が役に立たぬ、というのは、この当時の日本における時法に起因している。
当時日本では、日の出から日の入りまでと日の入りから日の出までをそれぞれ六等分して「一刻」とする不定時法を採用していた。
この方式だと、当然季節ごとに一刻の長さは異なってしまう。
それに対し、西洋では今日と同様に、季節にかかわりなく一日を二十四等分する定時法を採用しており、これに基づいて作られた時計は、日本では実際の時間感覚と合致しなかったのだ。
家康も、洋時計を諸大名に見せびらかし自慢してはいたが、所詮は物珍しい玩具にすぎず実用性はないと考えていた。
「どうじゃ、助左衛門。本朝ならではの自鳴鐘、作って見せてくれるかの」
忠吉から期待に満ちた眼差しを向けられて、助左衛門はかくかくと頷いた。
「は、はい。必ずや!」
その後も、忠吉は度々助左衛門の工房を忍びで訪れた。
最初のうちは委縮していた弟子たちも、若く気さくな殿様にすっかり慣れてしまい、特にまだ年若い者たちは、物怖じすることなく話しかけるようになった。
「殿さま、関ケ原のお話を聞かせてくだされ」
「薩摩の大将を討ち取りなされたとか」
「こら、お前たち! 無礼であろう!」
人のことを言えた義理ではないと内心思いつつも、助左衛門が叱りつける。
しかし忠吉は、にこやかに笑ってそれを制した。
「ああ、良い良い。じゃが、儂は大将首を挙げたわけではないぞ」
「そうなのですか?」
「うむ。西軍が劣勢になった時、薩摩の大将・島津兵庫頭(島津義弘)は果敢に敵中突破を試みた。我らはそれを追撃したのじゃが、殿軍を務めた島津中務大輔(島津豊久。義弘の甥)というお人がまさに鬼神の如しでなぁ」
「そのお人を殿さまが討ち取られたので?」
「じゃから討ち取ってはおらぬと申しておろうが。中務大輔はまだ齢三十ほどじゃったと聞いておるが、鉄砲隊を率いてまさに獅子奮迅の暴れっぷり。結局、かのお人の首級は挙がらずじまいじゃ。まあ、生きて薩摩に落ちのびたわけではないようじゃが、さて、今頃は地獄の鬼を相手に大暴れしておるのやもしれぬなぁ」
そのような話を面白おかしく語りながら、忠吉は自鳴鐘の上でカチカチと振れ続ける棒天符に目を向けた。
「これは、いくつも溝が刻んであるな。ひょっとして分銅の位置を変えられるようになっておるのか?」
「ご明察でございます。分銅の位置と重さを変えますと、棒天符が振れる間合いが変わります。そうすることで、季節ごとの昼夜の長さに合わせることができると思うのですが、どの位置にどの重さのものを付ければよいのか見極めるのが、なかなか難儀でございまして」
「ほほう、なるほど。完成を楽しみにしておるぞ」
嬉しそうに微笑んだ忠吉であったが、完成した自鳴鐘を彼が目にするのは、随分と先のこととなった。
その頃から忠吉は、病にその身を蝕まれ始めたのだ。
清須に入ってから三年半ほど経った慶長九年(西暦1604年)五月には治療のため但馬の国へ湯治に赴き、一旦良くなったかに思えたが、翌慶長十年になると体に腫物ができ、十二月には危篤に陥るほど悪化した。
その時は薬でどうにかこうにか持ち直し、床を離れると、忠吉は助左衛門に謁見を許し、自鳴鐘の完成品を持って来させた。
清須城の謁見の間で、着慣れぬ裃に身を包んだ助左衛門が平伏する。
その傍らには、人の背丈ほどもある自鳴鐘が置かれている。
時計部分自体は一尺半ほどで、下の部分には動力となる錘が紐でぶら下がっており、上には半楕円球型の鐘が取り付けられている。
その下に棒天符があり、分銅の位置が調節可能になっている。
針は真上を向いて固定されており、文字盤の方が回転する形式だ。
「……このように、明け六つと暮れ六つに分銅を掛け替えることで季節ごとの昼夜の長さに合わせることが出来まする。いずれは、この切り替えもからくり仕掛けにしたいと思うておりまするが……」
助左衛門の解説に笑顔で聞き入っている忠吉であったが、その顔色は土色だ。
不吉な予感に胸を騒がせる助左衛門に、忠吉が言った。
「助左衛門、大義であった。さらなる改良を加えた自鳴鐘が出来上がるのを、楽しみにしておるぞ」
「ははっ。精進いたしまする」
忠吉からお褒めの言葉をいただき、褒美の品も頂戴して城を後にした助左衛門であったが、彼が忠吉と会ったのはこれが最後となった。
その後も忠吉は病臥と回復を繰り返し、投薬や湯治も病魔を駆逐するには至らなかった。
慶長十二年(西暦1607年)三月。
忠吉は江戸に赴き、父・家康と兄・秀忠に面会するも、ほどなくして帰らぬ人となる。
享年二十八歳。
家康が最も愛したと言われる息子の、早すぎる死であった。
忠吉の唯一の男児は早世しており、尾張藩は彼の異母弟である徳川義直、家康の九男が継いだ。
助左衛門もそのまま義直に仕えることとなり、清須から名古屋への藩庁移転に伴い名古屋へ居を移す。
そして二十数年の歳月が流れた。
助左衛門も齢七十を超え、病に臥せることも増えてきた。
「父上! あまりご無理をなさいませぬように」
寝床に臥せったまま、紙を広げ筆を走らせている助左衛門に、助左衛門の名と尾張藩御時計師の職を継いだ息子が声を掛ける。
初代助左衛門は、息子に紙を見せ、満面の笑みを浮かべた。
「ようやく出来たぞ。昼用の棒天符と夜用の棒天符を切り替えるからくりじゃ。これで、毎日朝晩分銅を掛け替える手間は無うなるぞ」
二代目は紙を覗き込み、父が考え付いた仕組みを理解すると、感嘆の面持ちで言った。
「おお、さすがは父上。では、早う元気になっていただいて、これを実際に作りましょう」
「うむ、そうじゃな」
初代は横になって、天井を仰ぎながらぽつりと呟いた。
「殿に、ご覧いただきたかったのう……」
「え? はい、左様ですね。ですので早う元気になってくだされ」
息子の言葉に、初代助左衛門は曖昧に頷いた。
初代津田助左衛門は寛永十五年十二月(西暦1639年)にこの世を去ったが、その子孫たちは代々尾張藩御時計師の職を継ぎ、和時計の技術を継承・発展させていった。
初代が考案した二本の棒天符を自動で切り替えるものから、やがてより精度の高い振り子式の時計が作られるようになり、文字盤上の文字の間隔を伸縮させて季節ごとの昼夜の長さに対応させる「割駒式」と呼ばれる形式のものも開発された。
さらにその割駒の切り替えを自動で行う機構のものまで作られ、小型携帯化も進んでいった。
斯様にガラパゴス的進化を極めた和時計は、明治時代に入って文明開化の波が押し寄せると、西洋式の定時法の採用により歴史的役目を終えた。
しかし、忠吉が種を蒔き、助左衛門とその後継者たちが代々育んでいった技術と工夫は、やがて中京地域の機械産業・自動車産業を支える基礎として結実していくこととなる。
――了。
蛇足ですが作品解説
「カクヨムお題チャレンジ(KOC)2026秋」の第1回のお題が「機械」ということで、西洋の自動人形やら日本のからくり人形やら、あれこれ調べてみたのですが。興味深いネタは山ほどあれど、小説にするとなるとぴちっと嵌ってくれるものがなかなか見つからない。
頭を悩ませているうちに、日本におけるからくりの機構のルーツは西洋からもたらされた時計、という記述を見つけ、ふと興味が湧いて当時の時計について調べてみました。
すると、日本では季節ごとに変わる昼夜の長さをそれぞれ六等分する時法(不定時法)を採用していたため、一年中変わりなく一日を二十四等分する西洋の時法(定時法)を元にした時計は役に立たない。じゃあ日本で使えるものを作ろうと、魔改造された「和時計」が製作されることとなった、という話が出てきました。
日本人すげえな、と思いつつ、その歴史を掘り下げてみると、最初に和時計を作ったとされているのは、徳川家康の洋時計を修理した津田助左衛門という人物で、彼は家康に召し抱えられ、家康の息子松平忠吉が尾張・美濃に封じられると、清州の地に赴き、その後名古屋に定住したとありました。
もちろん、本人の意志だけで自由に居を移せるとは考えられず、家康が命じたか、それとも忠吉が望んだか、どちらかということになります。
家康が助左衛門をあえて手放す理由はちょっと考えにくい。
工芸の発展に寄与させるため? いや、当時の尾張はすでに上方に次ぐ国内随一の先進地域だし。そういう理由ならむしろ開発に着手したばかりの江戸に行かせるだろう。
となると、やっぱり忠吉が望んだからと考えるべきかな、ということで、ようやく話が転がり始めます。
津田助左衛門という人は、生年は不明ですが没年は1639年と判明しており、そうなると家康の時計を修理した1598年当時は、まだ三十代くらいと考えるのが自然。
一方の松平忠吉は、家康の四男ですが、初陣となった関ケ原でかの島津勢を相手に奮戦し、武勲を挙げた人物です。
そんな次第で、からくりオタクな細工師と若者らしく好奇心津々なお殿様、というコンビが誕生しました。
残念ながら、忠吉は若くして病死してしまうのですが、二人の間にどのような交流があったのか、色々想像が捗りますね。
実際のところ、確実な史実と言えるのは、
・津田助左衛門なる京の細工師(「鍛冶師」と記述してる文献もありますが、つまり金属加工の職人ということでしょう)が、家康の洋時計を修理した上に複製まで作って、その功で家康に召し抱えられた。
・助左衛門の没年はそれから四十年ほど後(つまり当時はまだ若かったはず)。
・松平忠吉の尾張転封を機に、助左衛門は尾張藩に仕えることとなり、そのままかの地に骨を埋めた。
以上。
助左衛門の人物像や、忠吉との関係性は、完全に平井の創作です。
あくまで歴史フィクションとしてお楽しみいただけましたら幸いです。




