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平井のエッセイ・歴史系

いま何時<なんどき>だい?

作者: 平井敦史
掲載日:2026/10/16

※落語「時そば」のネタバレを含みます。ご注意ください。

 カクヨムで開催されている「カクヨムお題チャレンジ(KOC)2026秋」の第1回のお題は「機械」でした。

 別に歴史ものにこだわったわけではなかったのですが、周り中機械に囲まれている現代を舞台にするより、機械というものに対して物珍しさやある種の憧れがあった時代の方がおもしろかろうということで、ネタ探しを始めました。


 最初は西洋の自動人形《オートマタ》なんてどうだろうと思い、あれこれ調べてみて、興味深いネタがざくざく出てきたのですが、小説に昇華するとなると、なかなかぴちっと嵌《はま》ってくれるものがない。

 ルドルフ二世(1552~1612)時代のプラハを舞台に、機械仕掛けのゴーレムとかちょっと真剣に検討してはみたものの、結局形になりませんでした。


 じゃあ日本のからくり人形はどうだろう、ということで調べてみて、これも興味深いネタがざくざく出てきたものの、やはり形になってくれない。

 そうこうするうちに、日本のからくり人形のルーツは西洋からもたらされた時計、という記述を見つけ、ふむ、時計ねぇ、それもアリか、ということで調べてみました。


 日本における時計技師の祖とされているのは、津田《つだ》助左衛門《すけざえもん》正之《まさゆき》という人物。

 この人は、安芸《あき》の国(現在の広島《ひろしま》県)出身で、京の町で細工師、ないし鍛冶師――まあ要は金属加工職人ですね――をしていたのですが、徳川《とくがわ》家康《いえやす》の洋時計の修理を請け負い、あまつさえその複製品まで製作して、その功で召し抱えられた人物です。

 家康が時計を修理させたという話はなんか聞いたことあるなー、と思いつつ調べていくと、家康の第四子・松平《まつだいら》忠吉《ただよし》が尾張《おわり》に封じられた際、助左衛門はそれに従って尾張に赴きそのままかの地に骨を埋めたということを知りました。


 ん? 家康に召し抱えられて駿府《すんぷ》(現在の静岡《しずおか》市)に居を移したであろう助左衛門が、何故尾張に移ったんだ?

 もちろん、本人の意志だけで自由に移れるはずはないでしょう。

 じゃあ家康の命令?

 しかし、家康の意図がわからない。

 工芸の発展に寄与させるため?

 しかし、当時の尾張はすでに上方《かみがた》(京都・大阪)に次ぐ国内指折りの先進地域。

 工芸振興のためなら、そのまま駿府でそういう役目を担わせてもいいし、さらに言うなら、当時開発に着手したばかりの新都・江戸《えど》に行かせるというのが一番合理的なんじゃないか。

 となると、忠吉がおねだりしたんじゃないか、うん、そうに違いない、という着想から、構想が形をなし始めました。


 津田助左衛門の生年は不明ですが、没年は寛永《かんえい》十五年十二月(西暦1639年1月)と判明しています。

 すると、家康の洋時計を修理した慶長《けいちょう》三年(西暦1598年)当時は、普通に考えて40歳は超えていなかったでしょう(まあ、すでに50歳を超えていて90ウン歳まで生きた可能性も皆無ではありませんが)。

 というわけで、職人としてはまだ若手でからくりオタクな助左衛門さんと、若く好奇心にあふれた忠吉くんのコンビが誕生しました。


 ちなみにこの忠吉くん。

 関ヶ原(せきがはら)の戦いにおいてかの島津《しまづ》勢を追撃し奮戦したのですが、Wikipediaの記事なども含め、「島津《しまづ》豊久《とよひさ》を討ち取った」と明記されているものが少なくありません。

 いやいやいや。豊久の首級《くび》は挙がってませんから!

 自刃したとも、何本もの槍に貫かれて壮絶な最期を遂げたとも伝えられていますが、いずれにしても徳川の首実検《くびじっけん》で確認されていないことは確かです。

 異世界に漂流したかどうかは存じませんが(笑)。



 さて、忠吉に連れられて尾張の清須《きよす》城下へ移った助左衛門。

 その工房へ、忠吉が頻繁に顔を出します。そんな気軽にお忍びで行けるわけないだろう、などというツッコミは野暮というものです(笑)。


 そこで助左衛門が熱く語っているのが、時計の心臓部である脱進機《だっしんき》の仕組み。

 詳しくはWikipediaの「脱進機」の記事より、「バージ脱進機」の項をご参照ください。

 ここで「フォリオ」ないし「フォリオット」と記述されているのが、和時計における棒天符《ぼうてんぷ》です。

 この仕組みにより、歯車の回転を押さえ込み、ゆっくり、かつ一定の速度で回転させて、時を刻ませることができるのです。


 しかしながら、作中でも語っているように、当時の日本では西洋式の時計は役に立ちませんでした。

 その理由は、当時の日本は日の出から日の入りまでと日の入りから日の出までをそれぞれ六等分する、つまり時間単位が季節によって変動する「不定時法《ふていじほう》」を採用していたからです。


 深夜0時を子《ね》の刻《こく》とし、十二支の名前を割り振って一日を十二に分けます。

 元々の中国では等分していたようですが、日本に導入されると室町時代頃から先述のとおり日の出から日の入りまでと日の入りから日の出までをそれぞれ六等分する時法が採用され、やがて時刻をその時に鳴らす鐘《かね》の音《ね》の数で表すようになります。

 正午に九つ鳴らし、一刻《いっこく》ごとに鳴らす数を一つずつ減らしていって、午《うま》の刻が昼九つ、未《ひつじ》の刻が昼八つ、申《さる》の刻が昼(または夕)七つ、酉《とり》の刻が暮れ六つ……という具合で、深夜0時の子《ね》の刻には夜九つに戻り、夜明け時の卯《う》の刻が明け六つとなります。

 この、明け六つから暮れ六つまでの間を、六等分していました。


 一方西洋では、今日と同様に、季節にかかわりなく一日を二十四等分する「定時法《ていじほう》」を採用していました。

 なので、西洋の時計は日本人の時間感覚と合致しなかったのです。


挿絵(By みてみん)


 ちょっと内側のが潰れて見づらいかと思いますが、夏と冬とで、普通に一日を二十四等分したのとはかなりのズレが生じることがおわかりいただけるでしょう。


 この問題を何とか解決しようと、助左衛門やその後継者たちは頭を悩ませます。

 最初は、棒天符の分銅の位置と重さを替え、季節ごとの昼夜の長さに対応させるタイプのものが作られます。

 でも考えてみると、当時基準になる時間を計測するもの自体が存在しないわけで。どの位置にどの重さの分銅を掛ければ何月頃の昼あるいは夜の長さに対応する、というのを割り出すのは、とんでもない苦労だったことでしょう。

 この棒天符が一つのものは、実際に初代津田助左衛門作とされるものが現存しているようです。


 さらに、棒天符を昼用と夜用で二つ装備し、これの切り替えを自動で行うタイプのもの――二丁棒天符式の和時計が発明されます。

 これは、三代目助左衛門作とされるものが残っているみたいです。


 そうそう。この和時計が何で動いていたかというと、当時すでにゼンマイバネは発明されており、今も静岡市の久能山《くのうざん》東照宮《とうしょうぐう》博物館に展示されている「徳川家康の洋時計」はゼンマイ式です。

 ちなみにこれは1611年にスペイン国王フェリペ三世から贈られたもので、助左衛門が修理したのはそれ以前に朝鮮から贈られたものです。

 和時計にもゼンマイ式のものはありますが、大型のものだと、錘《おもり》が落ちる力を利用するタイプのものもあります。

 この錘の落下を動力とするというのは、現在でも、ロンドンのビッグベンなどにも用いられている方式ですね。

 ビッグベンの場合、時を刻む用のものと、鐘《かね》を鳴らす用、四半刻のチャイム用の三つの錘があり、鐘を鳴らす用のものに至っては重さ1トンにもなるそうです。

 これを週に3回、人力で巻き上げているのだとか。


 閑話休題《それはされおき》。

 当初は棒天符で時を刻んでいた和時計ですが、オランダの数学者・物理学者・天文学者であるクリスティアーン=ホイヘンス(1629~1695)が振り子の原理を利用した振り子時計を発明すると、その技術は日本にも導入され、振り子式の和時計も作られるようになります。


 そうすると、精度は飛躍的に向上したものの、昼夜および季節で速度を調整するのが難しくなり、そこで考案されたのが、文字盤上の文字の間隔を変えて季節に対応させる方式です。

 これは「割駒《わりこま》式」と呼ばれ、イメージとしてはまさに上の図のような感じで、昼が長く夜が短い夏場は卯《う》~酉《とり》の間を広げ、酉《とり》~卯《う》の間を縮める。逆に昼が短く夜が長い冬場は酉《とり》~卯《う》の間を広げ、卯《う》~酉《とり》の間を縮めます。

 最初は手動でしたが、やがてこの変更を自動的に行うものまで発明されます。

 Oh! Japanese are crazy!


 まさにガラパゴス的進化の極北といった趣きですが、やがて明治維新が起き、文明開化の波が押し寄せると、明治6年(1873年)1月1日よりグレゴリオ暦(太陽暦)を導入するのに合わせて、西洋式の定時法が導入され、現在に至ります。

 かくして和時計の歴史は終焉を迎えたのですが、今でも各地の博物館などで和時計の展示をみることはできますので、古《いにしえ》の人たちのこだわりの粋をご堪能いただけると思います。



 さて、ここで告白いたしますと、お恥ずかしい話しながら、私平井は江戸時代の時法を曖昧にしか認識しておらず、日の出と日の入りの間を六等分していたというのは何となく知っていたものの、九つとか六つとかいう呼び方は、数が増えていくのではなく減っていくというのが馴染みづらいこともあって、ちゃんと理解していませんでした。

 で、今回、あらためて詳しく調べてみて知識を得た上で、落語の有名な演目「時そば」を鑑賞してみることにしました。


「時そば」は皆様ご存じでしょうか。

「寿限無《じゅげむ》」や「まんじゅうこわい」などと並んで最も有名な落語の演目の一つですので、ご存じの方も多いことと思います。

 そういえば、この前阿良川(あらかわ)一生《いっしょう》師匠も演《や》ってらっしゃいましたね。


 とはいえ、ご存じない方もいらっしゃるでしょうから、ネタバレを回避したい方は申し訳ありませんがブラウザバックをお願いします。



 YouTubeに上がっていた五代目柳家小さん師匠(1915~2002)の噺《はなし》を拝聴しました。

 簡単にあらすじを言うと、ある男が夜鳴きそば屋を呼び止めてしっぽくそばを食べます。

 あれこれ誉めそやしながら食べ終えて、お代の十六文(もん)を払う段になり、ひぃふぅみぃよぅいつむぅななやぁ……いま何時(なんどき)だい? へえ、九つで。とぉじゅういちじゅうにじゅうさんじゅうよんじゅうごじゅうろく、はいごちそうさん。 というわけで、一文ごまかします。


 ちなみに、当時のそばは一杯十六文と相場が決まっていたようですが、一文がどれくらいの価値かというと、高橋克彦氏の『北斎殺人事件』の作中での検証によれば、文化《ぶんか》文政《ぶんせい》(1804~1830年)の頃でだいたい25円くらいだそうです。つまりそば一杯400円ですね。

 ただ、これも執筆当時と物価が変わっているかと思いますので、あくまで参考までに。


 で、その様子を見ていた間抜けな男が、よせばいいのに真似をしようと考えます。

 その日はあいにく小銭の持ち合わせがなかったので、次の日そば屋を呼び止めるのですが、これがとんでもないハズレ。

 でもそのわりには、おかげさまでご贔屓様が付きまして、なんてことを言ってるんですよね。

 値段は一緒だし、何故なんだ。


 というかこれ、先のそば屋に、昨今景気は悪いですがおかげさまでご贔屓をいただきまして、とか言わせておいて、後の方に商売あがったりでさぁと言わせる方が良かったのでは? なんて思ってみたり。


 まあとにかく、不味いそばを食ってお代を払う段になり、ひぃふぅみぃよぅいつむぅななやぁ……いま何時(なんどき)だい? へえ、四つで。いつむぅななやぁ……払いすぎちまった。というオチです。


 つまり、前夜の男は夜九つ(午前0時)頃に実行していたのですが、間抜けは夜四つ(冬の出来事なので午後10時前)に実行しようとして、四文も余計に払う羽目になったというお話。

 もう2時間ばかり待てばよかったのにね。


 具体的な時刻のイメージがわかると、よりお話の解像度が上がるかと思いますので、是非皆様一度聞いてみてください。

 おそまつさまでした。

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本作についてより詳しく解説しています。
「和時計事始め」
こちらもお楽しみください。
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