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聖女じゃないです。清掃員の清城です。  作者: 荒瀬 維人


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第6話 子ども部屋の浄化作戦

 地下倉庫で見つかったのは、瘴気より先に、捨てるべき順番を捨てた痕跡だった。


 木箱の隙間から覗く刺繍入りの布を、清城誠司は指先でつまみ上げた。湿気を吸って重くなっている。神殿の祭具に使う布地だろう。孤児院の備品には見えない。しかも一枚や二枚ではなかった。壊れた香炉、煤のついた祈祷札、割れた燭台の受け皿。上で子どもが咳き込んでいる建物の下に、神殿の廃棄物が押し込まれている。


「こんなもの、なぜここに……」


 リュシエンヌの声が、灯りと一緒に揺れた。


 誠司は答えるより先に、箱の置き方を見た。壁にぴたりと寄せられ、風の逃げ道がない。重い布は下、軽い紙は上。運び込んだ者は片づけるためではなく、見えなくするために積んでいる。


「理由はあとです」


 彼は短く言った。


「まず、上を守りましょう。ここを開けた以上、今日は子ども部屋まで一気に動かさないといけない」


 マルグリット院長が青ざめる。


「い、いまからですか。子どもたちはまだ眠っている子も」


「だからです。動かすなら朝のうちがいい。空気を入れ替える時間が取れます」


 誠司は地下の扉を半開きのまま固定し、階段へ向かった。閉めればまた淀む。だが開け放しすぎても、上へ瘴気を流すだけだ。通すべき風と、止めるべき空気を分ける必要がある。


 地上へ戻る途中で、彼はもう手順を組み立てていた。


 子ども部屋の寝具を外へ出す。汚れ物と使える物を分ける。窓は一度に全部開けない。風上と風下を決める。床は乾拭きではなく、拭き取り用の薬液を薄めて使う。湿気だけを広げる拭き方は逆効果だ。地下から上がる気配を遮るため、倉庫前には濡れ布を置く。人が足で運ぶ汚れも止めなければならない。


「リュシエンヌさん」


「はい」


「浄化術は、最後に薄く全体へかけてください。先に強くやると、浮いたものが散ります」


 彼女は目を見開いた。


「……瘴気にも、順番があるのですね」


「汚れなら、たいていあります」


 それだけ言って、誠司は子ども部屋へ入った。


 咳はまだ続いていた。だが昨夜より少し軽い。朝の光があるぶん、悪さの形も見えやすい。寝台の下に溜まった綿埃。壁際に寄せられた洗濯籠。窓の桟に残る水滴。見えるものは多いのに、手は足りない。だから順番を間違えると、努力が丸ごと負ける。


「起きている子からでいいです。毛布を持って、中庭へ」


 看病していた少女が戸惑う。


「でも、外はまだ寒くて……」


「干すだけです。本人は厚着をさせて、日向へ座らせてください。寝台は空けます」


 院長がすぐに子どもたちへ声をかけた。夜通し看病していた疲れは顔に残っている。それでも動きに迷いがない。守る相手がいる人間の足取りだった。


 誠司は寝台の配置を変え始めた。壁から拳二つぶん離す。それだけでも風は回る。簡単なことだが、日々追われていれば、その拳二つの余白を作る余裕が消える。


 重い木枠を持ち上げると、下から冷えた匂いが噴いた。


「雑巾を。あと桶は二つ。ひとつは洗う用、もうひとつはすすぎ用です」


「同じ桶では駄目ですか」


 リュシエンヌが問う。


「汚れを戻します」


 誠司は床板の黒ずみを見ながら答えた。


「一度取ったものを、もう一度広げたら意味がない。祈りも同じでしょう」


 彼女は一拍遅れて、静かに頷いた。


「……はい。清めた場へ、濁りを戻してはならない」


 理解の言葉が、少しだけ現場寄りになっている。誠司はそれを聞きながら、持ってこさせた薬液を確かめた。神殿から借りた簡易の浄化水だ。強すぎれば子どもの喉にきつい。薄めて、拭き取りに使うほうがいい。


「この部屋は、まず乾いたものから外へ出します。次に汚れ物をまとめる。床はそのあとです」


「先に床を清めたほうが早いのでは?」


 院長の問いはもっともだった。


 誠司は寝台脇の毛布を持ち上げ、軽く振った。目に見えない埃が朝日へ舞い、薄い黒を帯びて沈む。


「上にあるものが落ちきってません。先に床をやっても、また戻ります」


「……なるほど」


「掃除は、頑張る順番じゃなく、汚れの落ちる順番でやるんです」


 その言葉に、リュシエンヌが小さく息を呑んだ。彼女の目は、地下倉庫を見たときよりも強く揺れていた。たぶん、神殿で覚えてきた浄化の理屈が、ここで生活の手順と繋がり始めている。


 作業が動き出すと、部屋の空気はすぐに変わった。


 年長の子どもたちが毛布を運び、看病の少女が枕を抱えて走る。院長は汚れ物を仕分けし、誠司は窓の開け方を調整した。最初は上側だけを細く開け、淀んだ空気を逃がす。次に廊下側の扉を少し開き、中庭へ抜ける道を作る。風は強ければいいわけではない。通り道がいる。


 リュシエンヌは部屋の四隅へ立ち、瘴気の濃い箇所を指摘していった。


「寝台の脚元がまだ濃いです。あと、窓下の染みと……この壁際」


「その順でやりましょう」


 誠司は膝をついて布を滑らせた。ざらつきが引っかかる。乾いた黒ずみではない。湿気を食って、生き残ろうとする汚れだ。力任せでは散る。押して、含ませて、拭き取る。すすぎ桶の水はすぐ濁った。


「見てください」


 彼が布を上げると、看病の少女が息を止めた。


「こんなに……床、白かったんだ」


 誠司は答えず、次の一筋へ布を当てた。褒められるより、その反応のほうが現場には効く。元の色を知れば、人は次から違和感に気づける。


 やがて中庭では、毛布を干す子どもたちの声が少しずつ増えた。弱々しいが、沈んではいない。洗い直せない寝具は日向へ広げ、使えないほど湿ったものは別に積む。地下倉庫から上げた神殿の廃棄物には布をかけ、子どもの動線から外した。


 その間にも、リュシエンヌは何度か浄化術を試した。


 だが彼女は、いつものように祈祷句を長く唱えなかった。誠司の拭き終えた箇所へ、薄く、均一に魔力を流している。無駄がない。神殿で初めて会ったときの、儀式の正しさへ寄りかかる硬さが少し削れていた。


「誠司さん」


 作業の合間、彼女が低く言った。


「わたくし、ずっと逆だと思っていました」


「何がです」


「浄化術が主で、掃除は補助だと。ですが実際には、整えられていない場所へ術だけを重ねても、持ちません」


 誠司は濡れ布を絞りながら頷いた。


「持たないですね。床が濡れたままなら、また滑るのと同じです」


「……はい」


 返事は短かったが、その声には悔しさがあった。自分の学んできたものが足りなかった悔しさだろう。けれど、その悔しさは前に進く種類のものに見えた。


 昼前には、子ども部屋の匂いが明らかに変わっていた。


 薬草の青臭さは残る。だが底に沈んでいた苦みが薄い。窓から入る風が、ちゃんと抜ける。咳をしていた小さな男の子が、寝台へ腰かけたまま不思議そうに周囲を見回した。


「……息、しやすい」


 そのひと言で、院長は目を伏せた。


 泣くまいとしているのがわかった。誠司は見ないふりをした。現場では、改善した事実だけで十分なことがある。


「今日のうちは、この並びを崩さないでください」


 彼は院長へ向き直った。


「汚れ物は廊下へ出さず、裏手へ。寝具は夕方までに乾いたものから戻す。戻す前に木枠を拭く。地下の倉庫は子どもを近づけない」


「はい」


「できない日があっても、順番だけは守ってください。全部できなくても、回し方が違えば溜まり方は変わります」


 院長は深く頷いた。そこへ、外で毛布を干していた年長の少女が駆け込んでくる。


「院長先生、日向のほう、空いてる場所を広げました。こっちの毛布も干せます」


 声が朝より明るい。子ども部屋の空気が軽くなると、そこで働く人間の足音まで変わるらしい。


 誠司はようやく、地下倉庫へ意識を戻した。


 あれは片づければ済む量ではない。どこから、誰が、いつ運んだのか。そこを押さえなければ、また同じことが起きる。


「院長、帳面はありますか」


「帳面、ですか」


「寄付でも備品でも構いません。神殿から何か届いた記録があれば見たい」


 院長は少し迷ってから、事務机の引き出しから分厚い帳簿を持ってきた。紙の端は擦り切れ、何度も開かれた跡がある。誠司はぱらぱらとめくり、布類、燭台、古家具、寄進品の項を追った。


 すぐに違和感があった。


 記載が途切れている。ある月だけ、搬入欄が不自然に空白だった。しかも紙の綴じ目に、無理に引き抜いたような毛羽立ちが残っている。


「……ページがありませんね」


 リュシエンヌが横から覗き込み、顔色を変えた。


「本当です。ここだけ、切られています」


 院長は息を呑んだ。


「そんなはずは……わたしは、そこまで細かく見ておらず」


「責めてません」


 誠司は帳簿の欠けた部分へ指を置いた。


 偶然ではない。捨てたのではなく、消した痕跡だ。地下倉庫の臭いが少しだけ輪郭を持つ。汚れは溜まる。だが、人の手で隠された汚れは、もっと質が悪い。


 子ども部屋に戻ってきた風は明るかった。

 その明るさのすぐ隣で、帳簿の欠損だけが黒く口を開けていた。

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