第5話 孤児院に染みついた夜
孤児院の玄関をくぐった瞬間、清城誠司は夜がまだ残っていると思った。
外はもう朝だった。神殿を出るころには空も明るみ、石畳の白さも見えていた。なのにこの建物の中へ一歩入ると、空気だけが薄暗い。湿った寝具の匂い、煮出しきれなかった薬草の青臭さ、子どもの熱気、それらの底へ、舌に苦みを残すあの臭いが沈んでいる。
「こちらです」
案内してきた女が、疲れきった声で言った。年の頃は四十前後だろうか。髪は急いで結い上げたまま乱れ、袖口には洗っても落ちない染みがある。院長かと思ったが、リュシエンヌが「マルグリット院長」と呼んだので間違いないらしい。
「夜のうちに三人が熱を上げました。今朝、少し下がった子もいますが、咳が止まらない子が二人」
「水場はどこですか」
誠司がまず尋ねると、院長は一瞬だけ目を瞬いた。病人より先にそこか、と言いたげな間だった。無理もない。だが、寝台と水場と物置はたいてい繋がっている。
「裏手です。けれど、まず子どもたちを――」
「両方見ます。順番に」
誠司は短く答えた。言い方が足りなかったかと思ったが、リュシエンヌがすぐに補う。
「この方は、原因の溜まり場を先に読みます。神殿でもそれで瘴気反応を下げました」
院長の目に浮かんだのは納得ではなく、疲弊した人間特有の祈るような諦めだった。信じるというより、もう疑う余力がない顔である。
「……でしたら、どうか見てください。私どもでできることは、もうほとんど」
言葉の最後がわずかに掠れた。
誠司は玄関脇の床へ目を落とした。靴はきちんと並べられている。掃き掃除もされている。放り出している現場ではない。それでも匂いが澱むのは、掃除しないからではなく、回らないからだ。
廊下は狭く、子どもがすれ違えば肩が触れそうだった。窓はあるが小さい。朝の光は入っても、空気を押し流すには足りない。壁際には洗濯したらしい布が掛けられ、その下の床がまだ湿っている。桶の置き跡も濃い。
神殿より、ずっと苦しい現場だった。
きれいに見せる余裕すらないぶん、ごまかしもない。ただ、足りていない。
最初に通された子ども部屋では、六つの寝台が並んでいた。粗末だが、毛布は畳まれている。看病していた年嵩の少女が慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「起こさなくていいです」
誠司はそのまま寝台の間を歩いた。咳をする子どもの胸の動き。枕元の水差し。窓際に寄せた汚れ物。床板の軋み。どこを見るにも理由がある。
熱のある子の額には汗が浮いていた。だが、布団の下は冷えている。湿気だ。寝汗と洗いきれない寝具と、乾ききらない床。そこへ瘴気が絡めば、子どもの体力ではすぐ負ける。
「この寝具、どこで干してます」
誠司が問うと、院長が答えた。
「中庭です。でも、ここ数日は天気が悪くて……乾ききる前に戻すことも」
「戻さないと数が足りないから、ですね」
院長は唇を結んだ。
責められたと思ったのかもしれない。誠司はすぐに言い添える。
「そうしないと回らないのはわかります」
彼は寝台の木枠を指でなぞった。裏側にざらつきがある。見えない面へ、細い黒ずみが線になっていた。神殿で見たものと似ているが、もっと生活の湿気が混じっている。
「誰が悪いかじゃないです。どこに溜まるかです」
その言葉に、院長はゆっくりと顔を上げた。
「……溜まる」
「はい。子どもが悪いわけでも、あなたが怠けたわけでもない。湿気が抜けない場所と、汚れ物の置き場と、水が動く順番が悪い」
誠司は寝台の配置を見回した。窓際に二台、壁際に四台。熱のある子ほど壁際へ寄せられている。看病しやすいからだろう。だが壁際は空気が死ぬ。しかも、そのすぐ裏は物置になっているらしく、板の向こうから冷えた匂いがした。
リュシエンヌも気づいたのか、眉を寄せる。
「ここ、瘴気反応が濃いです。寝台の下と……壁の向こう側」
「物置です」
院長が答えた。
「替えの毛布や古い家具を入れております。片づけたいのですが、手が回らず」
誠司は頷いた。わかりやすい。物が集まり、風が止まり、湿気が抜けない。しかも子ども部屋と隣接している。
「見せてください」
物置はさらにひどかった。戸を開けた途端、こもった夜気が顔へまとわりつく。使わなくなった椅子、割れた桶、薄い毛布、補修待ちの木枠。積み方そのものは雑ではない。むしろ崩れないよう工夫してある。だからこそ、動かす機会がなく、下へ湿気が沈み続けていた。
足元の床板へ膝をつき、誠司は鼻を近づける。土と布の匂いに混じって、焦げた灰のような苦さがある。
「ここだけじゃないな」
「何がです?」
リュシエンヌが問う。
「寝台の黒ずみ、物置の湿気、水場の臭い。全部同じ根なら、ひと部屋だけじゃ説明が足りません」
誠司は立ち上がり、中庭を抜けて裏手の井戸へ向かった。石組みの縁は欠け、桶を置く台がぬめっている。洗濯場と近すぎる。しかも排水が流れ切らず、地面へ染みていた。
井戸水をひと口含む気にはなれなかったが、柄杓で汲んで匂いを確かめる。土臭さはある。だが、それだけではない。長く置いた雑巾のような、鈍い苦みが残った。
「飲み水も、少し拾ってますね」
院長が青ざめた。
「そんな……この井戸は、昔から」
「急に毒になったとは言ってません。周りから負けてます」
誠司は洗濯場の位置と、干し場の影、排水の流れを見た。水を汲む。洗う。すすぐ。干す。どれも必要だ。だが必要なものほど、場所が近すぎると汚れを回す。
リュシエンヌが唇を噛む。
「神殿でもそうでした。清めるための動線が、逆に瘴気を運んでいた」
「ここも同じです」
誠司は井戸の縁を軽く叩いた。
「違うのは、こっちは余裕がないことです。止めたくても止められない」
院長の肩がわずかに震えた。
「申し開きはいたしません。寄付は減り、修繕も後回しで……子どもたちの食事を優先すれば、寝具や桶まで手が届かない日もあります」
「だから責めてません」
誠司は静かに言った。
「現場は、足りない時ほど溜まる場所を先に潰すしかない」
その瞬間、子ども部屋のほうから激しい咳が聞こえた。細く、喉を裂くような咳だ。誠司は反射的に振り向く。小さな体力が削られていく音は、どうにも嫌だった。
「今日中に動かす場所を決めます」
誠司は歩き出しながら言った。
「寝台は壁から離す。汚れ物は部屋に置かない。物置は中身を半分出して風を通す。井戸の近くで洗濯しない。全部は無理でも、順番を変えるだけで違う」
「そんなことまで……本当に可能なのですか」
院長の問いは、疑いというより怯えに近かった。希望を持つのが怖いのだろう。
「少しは」
誠司は言った。
「ただし、まだ下がある」
「下?」
彼は廊下の端で足を止めた。床板の継ぎ目から、冷えた気配が上がってくる。神殿の祭具庫で嗅いだものに近い。いや、もっと古い。湿気と木と、捨て置かれたものの臭いだ。
「この建物、地下か半地下の倉庫がありますね」
院長がはっとした。
「古い貯蔵庫が……ですが、今はほとんど使っていません。鍵も壊れていて」
誠司はもう答えを半分掴んでいた。使っていない場所ほど、汚れは育つ。そして、使っていないはずの場所から上の生活空間へ匂いが上がるなら、そこに何かが溜まっている。
「案内してください」
院長は躊躇した。恥を見せるような顔だった。
「古い布や壊れた家具ばかりです。お見せするほどのものでは」
「そういう場所ほど見ます」
短く言うと、院長は観念したように頷いた。
厨房脇の狭い階段を下りる。途中から空気が変わった。上より冷たく、重い。灯りを持ったリュシエンヌが先を照らすと、石壁には乾ききらない染みが幾筋も走っていた。
地下倉庫の扉は半ば歪み、押すと鈍い音を立てて開いた。
中へ踏み込んだ誠司は、その場で足を止める。
臭いが強い。
湿気だけではない。香の燃え滓、煤、古布、そして神殿で嗅いだあの苦い冷たさが、ここでは隠しようもなく沈殿していた。
壁際に積まれていた木箱の隙間から、白い布の端が覗いている。孤児院の備品には見えない。刺繍の入った上等な布だ。さらに、その下には黒ずんだ香炉の欠片と、祈祷札らしき紙束まで混じっていた。
リュシエンヌが息を呑む。
「これは……神殿の廃棄物、です」
誠司は箱の側面に残る黒い筋を見た。
捨てられたのではない。押し込まれ、忘れられ、ここで夜ごと腐っていたのだ。
子どもたちの寝床の真下で。
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