第3話 祈る前に、拭け
東の回廊は、神殿の中にあるくせに、妙に息苦しかった。
窓を開けて風を通したはずなのに、その一角だけ空気が沈んでいる。祭壇前の重さが薄れたぶん、かえって異常がくっきりした。冷えているのではない。湿って、淀み、何かが居座っている。
清城誠司は雑巾を持ったまま、暗がりの先を見た。
「こっちです」
「お待ちなさい」
鋭い声が飛んだ。年配の神官だった。先ほどから露骨に不機嫌な男である。
「東は祭具庫へ続く回廊だ。外部の者を軽々しく入れる場所ではない」
「外部も何も、瘴気はもう出てますよ」
誠司は振り向かずに答えた。
「祭壇まで来てるなら、奥だけ聖域扱いしても止まりません」
「貴様……」
神官の顔が引きつる。言い方はまずかったかもしれない。だが、現場の汚れは相手の立場を見て広がり方を変えてくれない。
隣でリュシエンヌが迷う気配を見せた。彼女もまた、祭具庫が軽々しく踏み込んでよい場所ではないと理解しているのだろう。神殿育ちの硬さが、その沈黙に出ていた。
「リュシエンヌさん」
誠司は少しだけ声を和らげた。
「さっき拭いたところ、どうです」
彼女ははっとして祭壇側へ意識を向ける。白い手袋越しに瘴気を読むように、指先を宙へかざした。
「……軽くなっています」
「なら、戻りたくないなら、元を見つけるしかないです」
短い沈黙のあと、リュシエンヌはまっすぐ前を向いた。
「東回廊を確認します。責任は私が持ちます」
年配の神官が何か言い募ろうとしたが、彼女はそれを聞かなかった。まだ声は若い。けれど、退かない時の固さがあった。
誠司は内心で少しだけ見直した。
回廊へ踏み込むと、床石の色がわずかに変わった。白さが鈍い。磨かれていないわけではないが、隅へ寄った埃が細く湿っている。壁際に並ぶ燭台の下には、拭き残しの輪が重なり、祭具を運ぶ台車の轍らしき擦れも見えた。
人は通っている。
だが、人が通るわりに、手入れの順番が悪い。
「ここ、毎日掃除してますか」
誠司が問うと、後ろについてきた下働きの女が小さく肩をすくめた。
「はい……一応。でも、祭壇前が先ですから、この辺りは後回しで」
「布は分けてますか」
「え?」
「祭壇前と回廊と入口で」
女は返事に詰まった。それで十分だった。
誠司はしゃがみ込み、壁際の床へ指を滑らせる。ざらりとした感触の下に、ぬめりがある。表面だけ乾いたふりをした湿気だ。こういうものは厄介だった。見た目が弱いくせに、じわじわ広がる。
「同じ布で全部やってますね」
「……申し訳、ありません」
「責めてません。ただ、回してるだけだと、汚れは動くだけです」
誠司は立ち上がり、祭具庫の扉を見た。
木の扉は重厚だが、下端だけ黒ずみが濃い。しかも蝶番の金具にうっすら青緑の曇りがある。湿気が長く留まっている証拠だった。
「この中、見せてもらえますか」
今度はリュシエンヌが迷わなかった。
「開けます」
鍵が回り、扉が軋む。開いた瞬間、冷えた臭いが流れ出した。
香木と布と金属の匂いの下に、苦い。喉の奥へ粉が貼りつくような、嫌な重さだ。誠司は思わず眉をしかめた。日本の倉庫でも似た臭いは嗅いだことがある。換気されず、濡れたものと乾いたものが一緒に押し込まれ、しかも誰も中で長く働かない場所だ。
中は整然としていた。だからこそまずい。
棚に並ぶ銀器は光っている。儀式布もたたまれている。だが、その下に敷かれた木箱の角が黒ずみ、壁際には結露が乾いた筋がいくつも残っていた。床には見えにくい灰のような粉。香炉の煤と泥が混じったものだろう。それが箱を動かすたびに散って、湿気へ貼りつく。
「きれいに見せるのが先になってる」
誠司は呟いた。
「え?」
「表に出るものだけ磨いてます。裏と下が溜まってる」
リュシエンヌは息を詰めた。彼女もようやく見えてきたのだろう。祭具は神聖だからこそ、下働きが乱暴に扱えない。動かす許可も、掃除の順番も、いちいち段取りが要る。結果、面倒なところだけが残る。
「……祈祷前の準備で、ここは毎日開けます」
「なら、毎日少しずつ撒いてます」
誠司は箱の間を指した。
「濡れた布を戻したこともあるでしょうし、香炉の灰も落ちてる。床の継ぎ目が呼び水になってる。祭壇前で反応が出たのは、ここから人が運んだからです」
「そんな」
リュシエンヌの顔が白くなる。
自分たちが清めのために使ってきた場所が、再発源になっていた。受け入れにくいのは当然だ。だが、誠司は慰めの言葉より先に、するべきことを見た。
「箱を少し動かします。中身じゃなく、下を拭く。灰は先に乾いてるうちに取る。濡らすのは最後です」
「乾いているうちに?」
「先に湿らせると張りつきます」
言いながら、誠司は布を取り替えた。入口用、回廊用、庫内用。分けるだけで手間は増える。だが、それを惜しむと現場はすぐ元へ戻る。
神官たちはまだ渋い顔をしていたものの、リュシエンヌが自ら祭具箱の端へ手をかけたことで、さすがに黙った。神殿育ちの見習いが、法衣の袖を気にせず床仕事を始める。その意味は小さくない。
「こちらを持ってください」
誠司が言うと、リュシエンヌは一瞬だけ目を見開き、それから頷いた。
「……わかりました」
二人で木箱をずらす。下には黒い輪染みがあった。乾いた布で押さえると、灰色と黒の中間の汚れがごそりと取れる。そこでリュシエンヌが低く息を呑んだ。
「反応が、また」
「下ですか」
「はい。見えていた面ではなく、箱の陰に濃く……」
「隠れる場所ほど育つんです」
誠司は淡々と答えた。
何でもないことのようでいて、実際、何でもないことではなかった。誰も見ない場所にこそ、誰も責任を持たない汚れが積もる。その理屈は建物でも人間関係でも大差ない。だが、今は考えすぎない。まずは現場だ。
灰を取る。
布を替える。
継ぎ目の黒ずみを押さえる。
箱と壁の間に空気が通る隙を作る。
濡れたものは庫内に戻さない。
単純な作業を、順番どおりに積む。
それだけで、回廊の空気は少しずつ変わっていった。
喉へ残っていた苦みが薄れる。足元へ沈んでいた冷えが和らぐ。何より、リュシエンヌの表情が変わった。神殿の常識と目の前の結果が食い違い、その間で揺れていた顔から、ようやく迷いがひとつ剥がれ落ちる。
「……本当に、軽くなっています」
彼女は祈るようにではなく、確かめるように言った。
「こんなに、はっきり」
「祈るのが悪いんじゃないです」
誠司は黒くなった水を見下ろした。
「ただ、拭かないまま祈っても、下に残る」
その言葉を聞いて、リュシエンヌはしばらく黙った。
やがて、ゆっくりと頷く。
「……ええ。そうですね。祈る前に、拭くべきでした」
祭具庫を出るころには、祭壇前まで漂っていたあの重苦しさは、目に見えて薄れていた。下働きたちの顔色も違う。さっきまで胸を押さえていた少年が、深く息を吸って何度か瞬きをしている。
「頭の重さが……楽です」
誰かがそう漏らした。
それは大きな歓声ではなかった。だが、現場の変化としては十分だった。
「……たったこれだけで」
年配の神官が、信じ切れないものを見るように祭具庫の中を見回した。誠司は桶の水面に揺れる黒を見ながら答える。
「たったこれだけ、を揃えるのが一番面倒なんです。場所を分けて、布を分けて、順番を守る。目立たないぶん、後回しにされますから」
リュシエンヌはその言葉を噛みしめるように繰り返した。
「後回し……だから、祈祷のたびに薄く広がっていたのですね」
誠司は頷くだけにした。責めるための言葉を重ねるより、現場が答えを出している。
誠司は濡れた布をまとめ、汚れた水をどう捨てるか考えかけたところで、回廊の向こうから慌ただしい足音を聞いた。
「リュシエンヌ様!」
息を切らせた下働きの少女が駆け込んでくる。顔色が悪い。
「神殿の外から使いの者が……北区の孤児院で、子どもたちの咳が止まらないと」
リュシエンヌの表情が強張る。
「まさか、また瘴気反応が?」
「それが……寝台の下や物置から、ここと同じような黒ずみが出たそうです」
誠司は手を止めた。
神殿の中だけで終わる話ではなかったらしい。
拭いて薄まった空気の向こうで、新しい汚れの臭いがする。しかも今度は、祈りを知らない子どもたちの寝床だ。
誠司は静かに布を絞った。
「案内をお願いします」
神殿の汚れは、まだ外へ続いている。
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