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聖女じゃないです。清掃員の清城です。  作者: 荒瀬 維人


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第2話 汚れには発生源がある

 雑巾越しに伝わってきた冷たさは、水の温度ではなかった。


 布の下で何かがぬるりと逃げるように動いた気がして、清城誠司は反射的に手を止めた。次の瞬間、絞ったばかりの白布へ、墨を垂らしたような黒がじわりと滲む。しかもただの汚れではない。色が沈みすぎている。見た目より先に、鼻の奥へ刺すような苦みが来た。


「下がってください」


 誠司が短く言うより早く、リュシエンヌが息を呑んだ。


「瘴気、です……!」


 彼女の声に、神殿内の空気が一気に張り詰める。年配の神官たちがざわめき、騎士が剣の柄へ手をかけた。だが、床石の継ぎ目から立ちのぼった黒い靄は、魔物のように襲ってくるでもなく、ただ低く、重く、その場に沈んでいるだけだった。


 誠司はしゃがんだまま布を返し、今度は乾いた面で黒ずみの縁をそっと押さえた。広げるより先に、輪郭を読む。職場でも、得体の知れない汚れほど力任せは禁物だった。


「瘴気だとわかるのなら、触らないほうがいいのではなくて?」


 リュシエンヌの声音には警戒があった。だが、先ほどの失望よりも切実さが強い。


「広げたくないだけです」


 誠司は床から目を離さず答えた。


「雑にこすると、汚れは周りへ伸びます。まず境目を見ます。どこまで染みてるか、どうしてここに溜まったか」


「どうして、ですって」


 年配の神官が苛立ちを隠さず言う。


「瘴気は災厄だ。発生理由など――」


「ありますよ」


 誠司はその言葉だけ、はっきり切った。


 自分でも驚くほど、声は静かだった。怒鳴る必要はない。ただ、現場で見えていることを言っただけだ。


「汚れには発生源がある。水でも、泥でも、臭いでも同じです。いきなり床の真ん中に湧いたりしません。持ち込まれたか、流れ着いたか、そこで育ったかです」


 神官たちはまだ半信半疑の顔をしていたが、リュシエンヌだけは床の継ぎ目を凝視していた。彼女は白い手袋の指先をかざし、何かを探るように眉を寄せる。


「……濃度が、揺れています。今、少しだけ反応が弱まりました」


「拭いたからです」


「そんな単純なことで」


「単純なことを、やってないからでは」


 しまった、と誠司は思ったが、言い直さなかった。現場では、言いにくいことほど早めに出したほうが事故が少ない。


 彼は立ち上がり、祭壇から入口まで視線を走らせた。白い床石は一見すれば磨かれている。だが継ぎ目だけが黒い。大扉近くには外から踏み込まれた泥が薄く残り、その泥を引きずるように細い線が祭壇脇まで続いている。窓は高く、開閉の気配がない。香炉の煙も上へ抜けず、天井付近で淀んでいた。


「見せかけだけはきれいです」


 誠司は言った。


「でも、空気が動いてない。湿気が残ってる。入口で持ち込んだものを、奥まで引きずってる。拭いても、順番が逆なら汚れを配り直すだけです」


「順番……」


 リュシエンヌが小さく繰り返す。


「はい。人が多い場所からやると、後でまた踏まれます。出口側から閉じるようにやらないと駄目です。あと、乾拭きと水拭きの前後も」


 誠司は大扉の脇を指した。


「たぶん、あそこから泥を入れてる。そこを取らずに祭壇だけ清めても、また戻ります」


 年配の神官が鼻を鳴らした。


「清めの祈祷を愚弄する気か」


「してません。祈祷は祈祷です。掃除は掃除です」


 誠司は視線だけ向けた。


「どちらか片方で済むなら、現場はもっと楽です」


 その言葉に、騎士のひとりが思わず吹き出しかけ、慌てて咳払いをした。緊張で張っていた空気が、ほんの少しだけ緩む。


 リュシエンヌはしばらく黙っていたが、やがて決めたように顔を上げた。


「水桶を追加で。乾いた布も。あと、窓を開けられる者はいますか」


「リュシエンヌ殿!」


「確かめます」


 強い調子ではなかった。だが、退かなかった。


「瘴気反応が実際に下がった以上、見過ごす理由はありません」


 下働きたちが慌てて動き出す。騎士が大扉を押さえ、少年たちが布を抱えて走る。その足運びまで見ながら、誠司は小さく息を吐いた。ようやく現場が現場として動き始めた。


 まず入口周辺の泥を止める。

 次に黒ずみの濃い継ぎ目を区切る。

 そのあと空気を抜く。


 順番が決まると、頭は静かになる。


「何をすればいいか、指示してください」


 リュシエンヌが傍らへ来た。もう先ほどの、外れを値踏みする目ではない。疑いは残っていても、少なくとも仕事の話を聞く顔だった。


「神殿で一番、人の出入りが多いのはどこですか」


「この正面回廊と祭壇前です」


「水場は」


「北側の控え室の奥にあります」


「祭具を置いてる部屋は」


「東の祭具庫ですが……それが何か」


「布や香炉を運ぶ導線が重なってますね」


 誠司は床を目で追った。踏み跡、擦れ、埃の寄り方。目に見える汚れは少なくても、流れは残る。


「人が物を持って行き来するたびに、入口の湿気と泥を奥へ運んでます。しかも祭具庫の前、壁際が乾いてない」


 リュシエンヌははっとして振り返った。


 東の壁際には長い布が垂れ、その下の石がわずかに濃い色をしている。言われなければ見逃す程度の差だ。だが誠司には、そこだけ空気の触りが違って感じられた。冷たく、ざらつき、喉の奥へ残る。


「……本当に、見えているのですね」


「見えてるというより、残り方に癖があります」


「私たちは瘴気を祈祷で弱めることばかり考えていました」


 リュシエンヌは悔しげに唇を結んだ。


「けれど、溜まる場所を読めていなかった……」


「責める話じゃありません。専門が違うだけです」


 誠司は入口に膝をつき、泥を布で掬い取った。見た目より重い。普通の泥ならもっと土の匂いがする。これは湿気に何か苦いものが絡んでいる。


「神殿は広い。全部を一人で見切るのは無理です。だから、溜まりやすい場所を先に潰します」


「溜まりやすい場所……」


「隅、継ぎ目、布の陰、風が止まるところ。人がよく通るのに、誰も立ち止まって見ない場所です」


 その説明は、誠司自身の長年の仕事そのものだった。きれいに見える建物ほど、汚れは目立つ場所ではなく、都合よく見落とされる場所で育つ。誰かが毎日使い、誰も責任を持たず、だから少しずつ蓄積する。


 下働きの少年が持ってきた布を受け取り、誠司は二枚に分けた。一枚は入口用、もう一枚は祭壇脇用だ。


「混ぜないでください。入口を拭いた布で奥を触ると、また持ち込みます」


「そ、そこまで違うのですか」


「違います。汚れは移ります」


 少年は真顔で頷き、両手で布を抱え直した。


 それからは早かった。誠司が順番を決め、下働きたちが動き、リュシエンヌが瘴気反応を見ながら補助する。窓が開け放たれると、春先のような冷たい風が神殿へ流れ込み、淀んだ香の匂いを押し出していった。


 入口の泥を除ける。

 継ぎ目の黒ずみを布で押さえ、広げず吸わせる。

 湿った布を吊るしている場所を移す。

 人が歩く列を変え、濡れた場所へ踏み込ませない。


 どれも派手ではない。

 だが、派手でないことほど、効く時は確実に効く。


「……下がっています」


 作業を始めてしばらくして、リュシエンヌが驚いたように呟いた。


「祭壇前の瘴気濃度が、先ほどより明らかに」


「なら、このまま入口側を維持してください」


「はい。いえ、ですが、どうしてこんな」


 誠司は黒くなった布を水桶へ沈めながら答えた。


「発生源が近いからです」


「近い?」


「ここだけ掃除して、こんなに反応が動くなら、もっと濃い場所が別にある。ここは染み出してきた先端でしょう」


 リュシエンヌの顔色が変わる。


「それは、神殿の中に、まだ――」


「あるはずです」


 誠司は立ち上がった。風が通り始めた神殿は、さっきよりほんの少し呼吸しやすい。だが、楽になったぶんだけ、別の異常がはっきりする。


 東側だ。


 祭具庫へ続く回廊の奥から、冷えた空気が細く流れてきていた。窓の風とは違う。湿っていて、重く、舌の奥へ金気を残す。掃除の現場で何度か嗅いだ、密閉された倉庫の腐りかけた臭いに近い。


 誰もまだ気づいていない。

 いや、気づいていても、意味までは読めていない。


 誠司は布を絞り、東の回廊を見た。


「奥を見せてください」


「奥、とは……祭具庫ですか」


「たぶん、そこだけじゃない」


 短く答えた途端、東の暗がりから、ぞわりと冷たいものが這い出してきた気がした。風ではない。空気の重さそのものが、こちらへ傾いたような感覚だった。


 リュシエンヌが反射的に祈祷句を口にしかけ、しかし途中で止める。


 誠司もまた、その先にあるものをまだ見ていない。ただ、現場の勘だけが確かに告げていた。


 今、拭き取ったのは表面だ。

 神殿の奥には、もっと濃い発生源がある。


 しかも、それはずっと前から、ここで育っていた。

最後までありがとうございました!


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それでは次回の更新をお楽しみに

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