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聖女じゃないです。清掃員の清城です。  作者: 荒瀬 維人


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第26話 大浄化

 門の先は、空洞というより傷口だった。


 歪んだ鉄扉を抜けた瞬間、空気の重さが一段変わる。灯り石の明かりが黒く濁り、床も壁も天井も、長い年月をかけて染みこんだ汚れで鈍く光っていた。広間の中央には円形の窪地があり、その底で、泥とも影ともつかない塊がゆっくり脈打っている。


 人の形ではない。獣でもない。けれど、見た者に王だと思わせるだけの圧だけはあった。


 瘴気の王。


 誰かがそう呼んだ理由が、見ただけでわかる。


 塊は呼吸するように膨らみ、縮み、そのたび広間じゅうへ濃い靄を吐き出す。靄の中には、古布の腐臭、血の乾いた臭い、香油の焦げ、熱病の汗、そして祈りの失敗した痕跡まで混じっていた。消えなかったもの全部が、ここで一つの圧になっている。


 その窪地の縁に、エルミナ・セラフィが立っていた。


 白銀の法衣はところどころ黒く汚れ、足元には砕けた術式札が散らばっている。彼女の周囲だけ、淡い光の膜が辛うじて保たれていた。だが、その膜もひび割れ、水面のように不安定に揺れている。


「来たのですね」


 振り返った声は、いつもの穏やかさを保とうとしていた。だが掠れている。


「下がってください」


 リュシエンヌが即座に言う。


「そのままでは呑まれます」


「呑まれません」


 エルミナは笑った。笑顔の形だけは美しい。


「ここで私が浄化を成せば、王都は再び奇跡を信じる。揺らいだ秩序は戻ります」


「戻りません」


 誠司は広間全体を見回した。四方の壁際に古い排水溝、崩れた側廊、上層へ通じるはずの換気孔跡。全部が黒い靄に塞がれ、流れを失っている。


「それは浄化じゃない。押さえつけです」


「押さえつけて何が悪いのです」


 エルミナの声が、初めて鋭くひび割れた。


「人は弱い。弱いから、完全なものが必要なのです。聖女が全部を清めてくれると信じられるから、不安に呑まれずに生きていける」


 彼女の足元で、黒い靄がずるりと伸びる。光の膜に触れた端から、じゅっと嫌な音がした。


「だったら、あなたは何を見てきたのですか」


 リュシエンヌが言う。


「現場を。病人を。戻ってくる臭いを。祈るだけでは足りない場所を、何度も」


「見たからこそです」


 エルミナは窪地の底を見つめたまま答えた。


「全部を救えない現実を知っているからこそ、せめて象徴は守らねばならない。人々から最後の拠り所まで奪うわけにはいかない」


 誠司はその言葉を聞きながら、地上班から届いた報告札を頭の中で繋ぎ直していた。南門圧上昇。市場第二手順。下水北路濃化。つまり、核がこちらで刺激されるたび、地上へ噴き返している。


 一撃で消そうとすれば、その反動は街全体へ走る。


 この塊は奇跡で倒す相手ではない。


 流れを取り戻して、分けて、逃がして、減らすしかない。


「ガロさん、左側の側廊。あの崩れ、向こうに抜けてます」


 誠司が言うと、ガロは広間を見回し、すぐ頷いた。


「換気路か」


「たぶん上の北路と繋がる。詰まりを割れれば、地上班の風が通る」


「やる」


「リュシエンヌさんは右側の封印痕を見てください。完全浄化じゃなく、圧の偏りだけ止めたい」


「わかりました」


「何を」


 エルミナがようやくこちらを正面から見た。


「何をするつもりですか」


 誠司は窪地を指した。


「片づけます」


「こんなものを?」


「こんなものだからです」


 王だとか、呪いだとか、象徴だとか。


 大仰な名はついている。だが正体は、捨てられず、見捨てられ、見えない場所へ押し込められたものの総量だ。ならば対処も現場の延長でいい。


「流れを作る。出口を開ける。上から溜まるものを止める。残りを薄める」


 誠司は一歩前へ出た。


「一人で全部消す必要なんてない」


 その瞬間、窪地の塊が大きく脈打った。


 広間全体へ黒い靄が噴き上がり、灯りが半分消える。誠司の膝が揺れた。肺の奥へ熱い刃のような痛みが走る。だが、次の瞬間には左側で石の砕ける音が響いた。


 ガロが鉄棒を振り下ろし、崩れた側廊の詰まりを叩き割ったのだ。


 遅れて、どこか遠くから風が来た。


 ほんの細い流れだ。けれど確かに、広間の空気の一部が動く。


「北路と繋がった!」


 ガロの怒鳴り声と同時に、走り役が新しい札を持って滑り込んできた。


 北路、換気成功。臭気、わずかに下降。


 誠司はそれを見て、胸の奥に火が点くのを感じた。


「続けて! 地上へ伝えて、北路を広げる。南門側は流入止め優先、市場は第三手順の準備!」


 札が飛び、走り役が戻る。


 リュシエンヌは右壁の封印痕へ手を当て、短い祈句ではなく、抑制の術式を重ねていく。白い光が線になって走り、黒い圧の偏りが少しだけ均される。


「完全には押さえられません!」


「十分です。偏りが減れば、流れが読める」


 誠司は窪地の縁を回った。黒い塊は広間の中心に見えて、実際には四方の溝と細く繋がっている。つまり核は一点ではない。長年の流れがここで束ねられているだけだ。


 ならば、束ね方を崩せばいい。


「下へ流す溝じゃなく、上へ抜く穴を使うべきだったんだ」


 誠司は半ば独り言のように言った。


「全部を地下へ落とすから、ここが底になった」


「いまさら理屈を言ってどうするのです」


 エルミナが苦しげに眉を寄せる。


「目の前のこれを止めなければ、王都は今夜保ちません」


「だから止めてるんです」


 誠司は答えた。


「上も下も同時に」


 次の札が届く。市場、第三手順開始。孤児院、避難完了。宿場、洗い水保持。南門、圧持ち直し。


 ひとつひとつは小さい。だが小さいからこそ、実際に効く。


 黒い塊が再び脈打った。今度は窪地の縁からいくつもの腕のような靄が伸び、エルミナの光膜へ絡みつく。彼女の膝が折れかけた。


 誠司は反射的に駆け寄る。


「離れて!」


 彼女を引こうとした瞬間、頭の奥へ刺すような声が流れ込んだ。


 誰かの泣き声。祈り。恨み言。熱にうなされる息。助けを呼ぶ声。全部が区別なく重なり、耳ではなく心臓の裏を叩く。


 これが、長年ここへ沈められたものの残響なのだろう。


 誠司は歯を食いしばった。


 同情して呑まれてはいけない。否定してもいけない。必要なのは、聞き分けることではなく、流れを与えることだ。


「エルミナさん」


 誠司は彼女の肩を掴んだ。


「あなたが守りたかったものは何ですか」


 彼女は苦しげに目を見開く。


「王都の、秩序を」


「違う」


 誠司はきっぱり言った。


「人でしょう」


 その一言で、彼女の表情が崩れた。


 ほんの一瞬だけ、完璧な聖女の顔ではなく、誰かを助けたいと思って神殿に立ったひとりの女の顔になる。


「人を守りたいなら、全部を一人で背負うのはやめてください」


 誠司は窪地の向こう、走り役の持つ札を指した。


「もう王都は動いてる。市場も、孤児院も、下水も、宿場も。あなたが奇跡を見せなくても、守ろうとしている手はある」


 エルミナの唇が震える。


「……そんなものでは、人は縋れません」


「縋る必要がない形にするんです」


 言い切ったとき、右側の封印痕が大きく光った。リュシエンヌが圧の偏りを押さえ込み、ガロがもう一度側廊の詰まりを割る。上から強い風が落ちてきて、窪地の靄がわずかに崩れた。


 そこへ新しい札が届く。


 全区画、準備完了。合図待ち。


 誠司は札を握りしめた。


 王都全体が、同じ瞬間を待っている。


「合図を出します」


「何をする気ですか」


 リュシエンヌが息を呑む。


「一斉に動かす。流入停止、換気解放、洗い流し、抑制。全部同時です」


「それでこの量が捌けるのですか」


「捌ききれなくても、底を崩せる」


 誠司は窪地を見据えた。


 完璧に消す必要はない。二度と王になれないほど、薄めて、分けて、流してやればいい。


「エルミナさん」


 彼女へ最後に手を差し出す。


「奇跡じゃなくていい。あなたの力を、押さえ込みじゃなく流れを整える方へ使ってください」


 長い、ほんの数秒の沈黙があった。


 やがてエルミナは、ゆっくりとその手を取った。


「……一度だけです」


「十分です」


 誠司は頷き、走り役へ札を渡した。


 合図は単純だ。鐘を三つ。


 地上の各班に伝えてあった、作業開始の音。


 遠く、王都の夜の中で、ひとつ、ふたつ、みっつと鐘が鳴る。


 その瞬間、広間の空気が変わった。


 北路から風が通り、南門側で流入が締められ、市場の水が一斉に流され、孤児院の窓が開かれ、下水路の蓋が順番にずらされる。見えないはずの地上の動きが、地下の黒い塊の崩れ方でわかった。


 塊の輪郭が乱れる。腕のように伸びていた靄が千切れ、側廊へ、換気孔へ、排水溝へ引かれていく。


 リュシエンヌの抑制が偏りを崩し、エルミナの光が一点を焼かずに全体を薄く照らす。ガロが風の通り道を守り、走り役が札を繋ぐ。


 誠司は窪地の縁で、流れの変化を必死に追った。


「左を開けるな、そこは戻る! 右側を先、上段の穴へ!」


「北路、もっと!」


「南門、持ちこたえています!」


「市場、第三手順完了!」


 報告が飛び交う。


 塊は苦鳴のような震えを広間へ撒き散らしながら、少しずつ崩れていった。巨大なひとつの王ではなく、ただの無数の澱みに戻っていく。


 それでいい。


 王でいさせないことが、勝ちだ。


 最後に、窪地の底でいちばん濃かった核がひび割れた。


 黒い光のようなものが一瞬だけ膨れ、次の瞬間には風に引かれ、細かな灰となって舞い上がる。


 誠司はそこで膝をついた。視界が白くなり、耳鳴りがする。けれど遠くで、地上から届く歓声のようなざわめきが聞こえた。


「終わった、のですか」


 リュシエンヌの声が震えている。


 誠司は荒い呼吸のまま、窪地を見た。


 まだ汚れは残っている。壁の染みも、溝の澱みも、消えたわけではない。


 だが中心の脈動は止まっていた。


「終わってません」


 彼はかすれた声で言う。


「でも、もう“王”じゃない」


 広間へ新しい風が流れ込む。


 それは奇跡の残光ではなく、上と下、町じゅうの手が繋いだ、ただの空気の流れだった。


 それがひどく、きれいに思えた。

最後までありがとうございました!


楽しんでいただけたら、

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それでは次回の更新をお楽しみに

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