第23話 瘴気の王
王という言葉ほど、片づけを遅らせるものはない。
旧王城地下の調査は、夜明け前から始まった。
人目を避けるためでもあるが、それ以上に、瘴気の流れは気温の低い時間帯の方が読みやすい。湿り気を含んだ空気は重く沈み、出口を探すように古い継ぎ目から這い出してくる。誠司は旧宿舎の中庭で外套を締め直し、古地図を折って胸に入れた。
「本当に来るんですか」
リュシエンヌが小声で言う。
「まだ顔色が万全ではありません」
「現場を見ないで線だけ追うと、思い込みます」
誠司は足元を確かめながら答えた。
「ただし奥には入らない。入口と風、漏れ方だけ見る。昨日決めた通りです」
ガロが肩に縄を担ぎ、鼻を鳴らす。
「その“奥には入らない”ってのを、今日は絶対守れよ」
「守ります」
「昨日も似たような顔して、雨樋の中まで覗いたろ」
「必要だったので」
「今日は必要でも駄目だ」
先に釘を刺されると、反論の余地が減る。
旧王城跡は、いまは王都中央の外れに残る封鎖区画だ。表向きは老朽化と地盤沈下の危険が理由で、人払いの柵が巡らされている。だが本当の理由がそこだけでないことは、近づいた途端によくわかった。
朝の空気の中に、鉄錆びと濡れた灰を混ぜたような苦みがある。
しかも臭いは一点からではない。石垣の割れ目、崩れた見張り台の根元、封鎖された排水溝の縁。見ないふりをされてきた穴という穴から、同じ気配がじわじわ滲んでいた。
「これだけ漏れていれば、下町へ戻るわけですね」
リュシエンヌが口元を布で押さえた。
「封じていた、というより、押し込めていただけだ」
誠司はしゃがみ込み、石垣の継ぎ目へ指先を近づける。触れはしない。だが湿り気の乗った冷たさだけで十分だった。
「古い汚れです。生活排水だけじゃない。香の焦げ、血、薬剤の残り……祈祷で上塗りされた臭いもある」
「祈祷の、臭いがわかるのですか」
「消えてない匂いは、だいたいわかります」
言ってから、誠司は自分でも変な説明だと思った。けれどリュシエンヌは笑わない。いまさら誠司の感覚を疑う段階は過ぎている。
柵沿いを半周したところで、崩れた石階段の奥に人ひとり分の隙間を見つけた。古地図で見た地下連絡路の方角と一致する。風はそこへ吸い込まれていた。
入口が、生きている。
その事実だけで十分に嫌だった。
「中の空気が、まだ回ってる」
誠司が呟くと、ガロが顔をしかめた。
「つまり、どっかで繋がってるってことか」
「はい。しかもかなり広い」
リュシエンヌは携帯用の灯り石を掲げ、隙間の内側を照らした。石段は下へ続き、その壁面には黒ずみとは別に、薄く銀色の紋様が残っている。
「封印術式の痕です。けれど劣化しています。いえ……破られたというより、内側から押し返されて摩耗した形に近い」
「押し返されるほど溜めたんですか」
「そうとしか思えません」
誠司は地図を取り出し、階段の位置を確かめた。ここは旧王城の外周路だ。もし地下全体に同じような圧が残っているなら、中心部に核がある。
そのとき、背後で杖の先が石を打つ音がした。
振り返ると、灰色の外套を着た老人が立っていた。神殿の上層神官に見えるが、胸章は外されている。誠司たちが身構えるより先に、老人は疲れた声で言った。
「そこへ入るなら、少し古い話を知っておいた方がいい」
リュシエンヌが目を見開く。
「フェルナン司書長……」
名を聞いて、誠司は思い出した。神殿文庫の管理をしている老司書だ。以前、孤児院の廃棄記録を探したときに、一度だけ遠くから見たことがある。
「あなたまで、こちら側へ来るんですか」
リュシエンヌの声には驚きと警戒が混じっていた。
「こちら側、か」
老人はかすかに笑った。
「便利な言葉だ。見て見ぬふりをしない側、と言い換えてもいい」
彼は外套の内側から、紐で綴じた数冊の古記録を取り出した。
「旧王城地下は、もとは避難路であり、備蓄庫であり、疫病時の隔離区画でもあった。王家も神殿も、都合の悪いものを地上から遠ざけるために使った」
誠司は記録の一冊を受け取る。紙は古いが、要点は読み取れた。飢饉の年、疫病の年、魔獣の襲撃後。捨てきれなかった死体、処理の追いつかない廃棄物、祈祷で浄めたことにされた祭具の残滓。その搬入記録が、断続的に地下へ続いている。
「……掃除してなかったわけじゃない」
誠司は低く言った。
「掃除したことにして、見えない場所へ移していた」
「その通りだ」
フェルナンは頷く。
「そして、聖女信仰が政治の柱になってからは、なおさら地下の存在は隠された。清められぬものがあると知られれば、象徴の完全性に傷がつく」
「だから押し込め続けた」
ガロが吐き捨てる。
「下に投げ込みゃ、上はきれいに見えるもんな」
「王都全体でやってきたことです」
リュシエンヌの声は掠れていた。
誠司は記録の最後の頁で手を止めた。そこには近年の追記があり、旧王城地下中心部に“王の間”と呼ばれる大空洞があると記されている。正式名称ではない。現場の者が呼び始めた通称だろう。
瘴気が集まり、人の正気を削るほど濃くなる場所。誰も長く留まれず、近づいた者はみな「王に見られているようだった」と証言した、とある。
ぞっとするような書き方だが、誠司にはむしろ実務的に読めた。
そこは、地下全体の吹きだまりだ。
長年の汚れ、絶望、隠蔽、祈りの失敗。その全部が底で固まり、人にそう名づけさせるほどの圧を持っただけだ。
「瘴気の王、ですか」
誠司がそう呟くと、ガロが肩をすくめた。
「王様ってより、でっかいゴミ溜めだろ」
「ええ」
誠司は地図と記録を見比べた。
「ただ、片づけないで育てたぶんだけ、厄介です」
そのとき、階段の奥からふっと風が上がった。灯り石の光が揺れ、三人の影が石壁に伸びる。
風に混じって、耳ではなく皮膚で感じるような圧があった。胸の底に溜まる、重い湿気。誠司は反射的に一歩下がる。
同時に、別の足音が近づいた。
今度は隠す気のない人数だった。神殿騎士が四名、その中央にエルミナ・セラフィがいた。白銀の法衣は朝の薄闇の中でもよく目立つ。微笑みはいつも通り穏やかだったが、その穏やかさがかえって冷えた。
「そこまでにしておきなさい」
彼女は崩れた石段を見つめたまま言った。
「その下は、王都のために閉じられてきた場所です」
「王都のため、ですか」
誠司が返すと、エルミナはようやく視線を寄越した。
「そうです。人は不完全です。すべてを救えず、すべてを清めきれない。ならば、守るべき秩序のために、どこかで引き受けるしかない汚れがある」
「引き受けたんじゃないでしょう」
誠司は古記録を掲げた。
「押し込めただけです」
微笑みがほんの少し薄くなる。
「言葉遊びですね。結果として王都は保たれ、人々は聖女の加護を信じて生きてきた。信じる柱があるから、社会は崩れずに済んだのです」
「その柱の下で、熱を出した子どもや、臭いの戻った寝床は保たれていません」
リュシエンヌが言った。語尾は震えていない。
「私は現場を見ました。祈祷の名があっても、掃除も換気も隔離もされなければ、再汚染は止まらない」
「あなたはまだ若い」
エルミナは諭すように言う。
「理想だけで王都全体は支えられません」
「理想じゃありません」
誠司が遮った。
「仕事です。溜まる場所を見て、順番を決めて、手を入れるだけだ」
「その“だけ”を、誰が支えます?」
エルミナの声が初めて少し硬くなる。
「人は象徴なしにはまとまらない。聖女という奇跡を失えば、不安は暴動へ変わる。あなたの手順は有用でしょう。けれど有用なだけでは、人は従わない」
誠司は少し考え、ゆっくり息を吐いた。
「従わせるために救うんじゃない。助かるために使うんです」
短い沈黙が落ちた。
エルミナはその言葉を不快そうにも、愉快そうにも聞いていない。ただ、どうしようもなく面倒なものを見る目をしていた。
「やはり、あなたは危うい」
「現場から見れば、そちらがです」
ガロが吐き捨てる。
神殿騎士たちの手が剣柄へ寄る。だがエルミナは止めた。
「今日ここで争う気はありません」
彼女は地下への階段へ一度だけ視線を落とし、それから誠司たちへ告げた。
「ただし、王都は間もなく選択を迫られます。そのとき、象徴を壊した責任の重さを、あなた方は理解することになるでしょう」
そう言い残し、彼女は踵を返した。
騎士たちが去ったあともしばらく、石段の前には嫌な静けさが残った。
フェルナン司書長がぽつりと言う。
「彼女はあれで、本気で王都を守っているつもりだよ」
「でしょうね」
誠司は答えた。
「だから厄介なんです」
単純な悪意だけなら、掃き出し口は見つけやすい。だが正義のつもりで積まれた汚れは、自分で汚れだと名乗らない。
誠司は古地図へ新しい印を加えた。地下階段の位置、漏れの強い箇所、風向き、繋がる排水路。点が増えるほど、個人でどうにかする話ではなくなっていく。
「旧王城地下だけ掃除しても足りません」
彼は二人を見た。
「上の流れを止めないと、また溜まる。各区画の班、避難路、搬出路、換気の確保。王都全体を同時に動かす必要がある」
「大仕事だな」
ガロが口笛を吹く。
「でも、もうそこまで見えたなら、やるしかない」
リュシエンヌも頷いた。
「神殿の協力者を当たります。全員ではなくても、手順の意味を理解している者はいます」
「市場と下水区画には俺が話を通す。あいつら、追放の件で逆に腹くくってる」
「私は配置表を作ります」
誠司はそう言って、もう一度地下階段を見た。
瘴気の王。
たいそうな名だ。だが実体は、誰も片づけなかったものの総量にすぎない。
ならば勝ち方も同じだ。ひと息で消すのではなく、流れを断ち、出口を作り、持ち場ごとに減らしていく。
王を討つのではない。
王都じゅうの現場が、ようやく同じ仕事を始めるだけだ。
朝日が石垣の上へ差し込むころには、次に必要なものがはっきりしていた。
人員、配置、手順、報告線。
そして、王都全域を一斉に動かすだけの覚悟だった。
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