第14話 エルミナの微笑み
怒鳴り声より厄介なのは、微笑んだまま片づけようとする相手だ。
王城の洗濯庫に差し込む朝の光は白かった。外された床板も、並べられた証拠の包みも、その光を浴びると妙に輪郭が薄く見える。だが、臭いまでは消えない。漂白剤じみた刺す匂いの奥に、古い排水の澱んだ苦みが沈んでいた。
扉口に立つエルミナは、その白さの中心にいるようだった。
「ここから先は、わたくしが預かります」
柔らかな声だった。命令の形をしていないのに、その場にいた全員が先に従う声でもあった。侍女たちは背筋を伸ばし、管理責任者は青ざめたまま頭を下げる。
エルミナは責任者を責め立てなかった。誠司たちにも、露骨な敵意は向けない。ただ、場の乱れを一枚の布で覆うように、順序よく言葉を置いていく。
「排水経路の確認、関連帳簿の回収、当該区画の一時封鎖。すぐに行いなさい」
指示を受けた侍女たちが慌ただしく散る。
早い。誠司はそう思った。止める気があれば、ここまで早く動けるのだ。下町の井戸や孤児院の寝床が臭っていたとき、この速さはどこにもなかっただけで。
エルミナはようやく誠司へ視線を向けた。
「清城誠司様、でしたね。鋭い観察眼には感謝いたします」
「感謝されるほどのことではないです。下に流れているものを辿っただけなので」
「だからこそ、言葉は慎重であるべきです」
微笑みは崩れない。
「王城の不備だと断じる言い方は、民の不安をいたずらに煽ります。水も祈りも、生活には欠かせません。恐れを広げれば、それ自体が別の混乱を生みます」
もっともらしい理屈だった。実際、間違ってもいない。だが誠司には、その言葉が現場を守るためではなく、現場の上に載っているものを守るために並べられているとわかった。
「不安は、もう下で起きています」
誠司はできるだけ平らに言った。
「井戸の水が苦くなって、吐いた子もいた。孤児院の寝床にも臭いが入っていました。怖がらせたくないなら、先に止めるしかないです」
エルミナの目が、ほんのわずかに細くなる。
「ええ。ですから止めます」
その返答は速かった。
「ただし、止め方には順番がある。正しさもまた、扱いを誤れば人を傷つけます」
誠司は返す言葉を一度飲み込んだ。目の前の女は、汚れを見ていないわけではない。むしろ見えている。見えたうえで、何を先に拭き取るかを選んでいる。
床の染みではなく、言葉の染みを。
リュシエンヌが一歩前へ出た。
「記録の保全は、神殿側でも確認いたします。今回の発見は、正式な報告として残すべきです」
エルミナは微笑んだまま、彼女を見る。
「もちろんです、リュシエンヌ。あなたが現場に赴いたことも、清城様が異変を見つけたことも、正しく扱いましょう」
正しく。
その言葉が、誠司には妙に冷たく聞こえた。
結局その場では、それ以上の押し問答は起きなかった。責任者は連れて行かれ、仮設の逃がし水路は石栓で塞がれ、洗濯庫の作業も半日停止になった。表向きは設備点検。白い壁に、責任の名前までは貼られない。
王城を出たところで、ガロが大きく息を吐いた。
「気持ちわりい笑い方の女だな」
「聞こえますよ」
「聞かせてんだよ」
ぶっきらぼうに言ってから、ガロは城壁の方を睨んだ。
「怒鳴るやつのほうが、まだ殴り返しどころがある。ああいうのは、笑ったまま荷を積み替える」
誠司は否定しなかった。まさにそんな手つきだった。
リュシエンヌはしばらく黙って歩いていたが、人気の薄い通りへ入ったところでようやく口を開く。
「……報告は、私がまとめます」
「助かります」
「助かる、ではありません」
彼女の声は固かった。
「これまでは、あなたのやったことを“現場の補助”として曖昧に記す余地がありました。ですが今回は違う。下流の症状、排水の痕跡、帳簿の不整合。あなたの判断がなければ繋がらなかった」
「それで上が面白くない顔をするなら、困るのはそっちでしょう」
「ええ。とても」
言い切ってから、リュシエンヌは少しだけ目を伏せた。
「ですが、黙殺はできません」
神殿育ちの彼女がそう言う重みを、誠司はもう知っている。
「ありがとうございます」
短く礼を言うと、リュシエンヌはわずかに眉を寄せた。
「まだ礼を言われる段階ではありません。これで終わる話ではないので」
その通りだった。
だが、止まっていた流れが少しでも動くなら、まずはそこを確かめたかった。誠司たちは西区画へ回り、孤児院と共同井戸の様子を見ていくことにした。
昼を過ぎる頃には、排水路沿いにこもっていた白い苦臭が昨日より薄れていた。井戸桶を引き上げた女が、水面を覗き込んで目を見開く。
「濁りが減ってる……」
そばで見ていた院長も、そっと息を吐いた。
「朝より匂いが軽いです。こんなに早く違いが出るなんて」
「上で流れを止めてもらえたんです」
誠司がそう答えると、物陰から覗いていた子どもたちの顔が少しだけ明るくなった。寝床の消毒と換気を続けていた院の職員たちも、どこか肩の高さが違う。
結果が出ると、人はすぐに声を持つ。
「あんた、本当にすごいんだな」
井戸の番をしていた男が言った。
「祈祷師より早えじゃねえか」
「聖女様より頼れるって噂、ほんとだったんだな」
別の女が口にした瞬間、誠司は眉をひそめた。
「そういう比べ方はやめてください」
自分でも少し強い声になったと思う。
「誰が上か下かの話じゃないです。臭いが減ったのは、ここで寝具を干して、水を分けて、掃除を続けた人たちがいたからだ。俺一人でどうにかしたわけじゃない」
子どもたちがきょとんとする。院長は小さく笑い、それから深く頭を下げた。
「それでも、あなたが見つけてくれたからです」
否定しきれなかった。
現場で働いた手順より、誰がやったかの名のほうが先に広まる。そういう広がり方は、あまり好きではない。名前は便利だが、便利なぶん、汚れ方も早い。
リュシエンヌは井戸の縁に触れながら、小さく言った。
「もう広がり始めています。止められないでしょう」
「困ります」
「ええ。私もそう思います」
そう言いながら、彼女はどこか諦めたようでもあった。
「ですが、助けられた側が黙る理由もありません」
誠司は桶の中の水を見た。まだ完全な透明ではない。底には薄い揺らぎが残っている。けれど昨日より、たしかにましだ。
仕事というのは、本来こういう変化で伝わるべきなのだろう。
それでも王都では、変化より先に噂が走るらしい。
実際、帰り道の市場脇ではもう、井戸の苦みが引いた話と一緒に誠司の名が流れていた。水を汲む女たちが「下水に潜った見習い浄化官」と囁き、荷運びの男が「王城の排水を止めさせたらしい」と尾ひれをつける。事実と噂が混ざる速さは、水が石の隙間を見つける速さによく似ていた。
「顔が売れたな」
ガロが面倒くさそうに言う。
「うれしくないです」
「知ってる」
短いやりとりのあと、彼は肩を鳴らした。
「だが、下で助かったやつは、助けた手の名前を覚える。そりゃ止まらねえ」
乱暴な言い方だが、その通りだった。誠司は名を残したくて汚れを追っているわけではない。それでも、誰かが楽になった理由を探せば、どうしたって現場にいた人間へ行き着く。
仮宿へ戻る途中、神殿の下働きらしい若者二人とすれ違った。片方ははっきりと感謝の目を向け、もう片方は値踏みするように見た。どちらも、昨日まではなかった視線だ。仕事の中身ではなく、名前の輪郭だけが先に広まっていく感覚に、誠司は小さく息を吐く。
リュシエンヌはその横顔を見て、低く言った。
「今日、王城であなたを見た者は多かった。侍女、書記官、管理係、警備まで含めれば、口を塞ぐのは無理です」
「塞いでほしいわけじゃないです。ただ、面倒が増えそうで」
「増えます」
即答だった。
「しかも、たぶん静かな形で」
それがいちばん嫌だ、と誠司は思った。怒鳴られるほうがまだましだ。敵意は音を立ててくれたほうが避けやすい。微笑みや称賛の形で近づいてくるものは、気づいたときにはもう足元へ回り込んでいる。
夕刻、孤児院を辞して神殿の仮宿へ戻ると、入口に白い封蝋のついた書状が届いていた。神殿の正式印に、もう一つ、細く優美な百合の紋。
見覚えがなくても、誰からかはわかった。
リュシエンヌが先に封面を確認し、表情を硬くする。
「司祭エルミナ・セラフィ名義です」
誠司は書状を受け取った。紙は上等で、薄い香が移っている。洗濯庫で嗅いだ白い匂いとは違う。もっと穏やかで、だからこそ油断を誘う香りだった。
封を切る前から、胸の奥が少しだけざらつく。
あの微笑みは、もう一度こちらへ向く。
今度は、人目のない場所で。
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