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聖女じゃないです。清掃員の清城です。  作者: 荒瀬 維人


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第12話 地下水脈の浄化

 澄んだ水ほど、傷み始めた時の異変は小さい。


 合流槽の格子越しに滲み上がる冷水を見つめながら、誠司は派手な浄化を選ばなかった。


 ここで強い術を落とせば、表面の濁りは取れるかもしれない。だが、地下水脈そのものへ無理に干渉すれば、流れを乱し、別の場所へ汚れを押し広げる。清める前に、どこで傷んでいるかを見極めなければならない。


「格子を外します」


 誠司が言うと、ガロがすぐに腕をまくった。


「最初からそう言え」


「壊さずに外せるなら、そのほうが後で楽です」


「俺に期待してねえな」


「少しだけ」


 返すと、ガロは喉の奥で笑った。


 石格子は思った以上に古く、黒泥を除いたことで枠の継ぎ目が見えるようになっていた。誠司が細い鑿代わりの金具を差し込み、左右の固着を浮かせる。ガロが下から支え、最後の一押しで格子を手前へ引いた。重い音とともに外れた格子の向こうから、冷たい風がまともに吹きつける。


 その先は、人ひとりが屈めば進めるほどの低い水路だった。


 天井は近く、息を吐くたび白い灯りが揺れる。水音は細いのに、反響だけが妙に大きい。少し肩を動かしただけで肘が石へ当たり、乾いた場所と濡れた場所の差が、手の甲にまで伝わってきた。


 床の中央を、指二本ぶんほどの透明な流れが走っている。だが両脇には灰色の膜が貼りつき、ところどころ白く濁った沈殿が石へこびりついていた。清水と汚水が争った跡だ。


「地下水脈そのものは、まだ死んでいません」


 リュシエンヌが光を低く走らせる。


「でも、上から混じるものが多すぎる。流れが押し負けています」


「勝たせましょう」


 誠司は短く言った。


 水路を這うように進むと、すぐに理由が見えた。左壁の中ほど、自然の岩盤と人工の石組みがぶつかる継ぎ目から、冷たい清水が絶えず湧き出している。そこだけ石の色が明るい。地下水脈の口だ。


 だがその上、人工壁の高い位置には、細く開いた割れ目があった。そこから、泡立ちのある灰水が筋になって垂れている。昨日見た灰汁の匂いはこれだ。上の区画から流された洗浄水か、薬品を含む廃水が、封じたはずの古下水道を伝ってここへ落ちている。


 清水は湧いているのに、その真上から汚れが垂れる。


 最悪の位置関係だった。


「白い服を保つための水が、下を汚してるわけか」


 ガロが吐き捨てた。


 壁の高みから垂れる灰水は、確かにどこか白い。泥や煤ではなく、布を漂白したあとのような冷たい白濁だ。神殿や貴族街、あるいは王城の洗濯場で出る種類の汚れを思わせる。


「今は場所を決めつけません」


 誠司は言ったが、視線は壁の割れ目に留まったままだった。


「ただ、このままでは地下水脈が勝てない」


「どうしますか」


 リュシエンヌが問う。


 「三つです。まず、汚水の落ち口をずらす。次に、溜まった沈殿を剥がす。最後に、清水が出ている口だけを絞って浄化する」


 誠司は指で順番を示した。最初に浄化を大きく使わないのは、魔力を惜しむためではない。汚れの勝ち筋を崩さずに清めても、しばらくすれば同じ場所がまた傷むだけだ。流れを守ることが先で、浄化はそのあとについてくる。



「全部いっぺんにか」


「順番にやれば、いけます」


 誠司は周囲を見た。幸い、水路の脇には崩れた石片がいくつもある。布と粘土代わりの泥、それに板切れがあれば、仮の導水板くらいは作れる。


「ガロさん、あの平たい石を二枚。あと、格子に絡んでいた厚紙を一番乾いたものだけください」


「ごみまで使うのかよ」


「ごみの流れを止めるのに、ごみの性質は役に立ちます」


 厚紙は水を吸えばすぐ崩れる。だからこそ、一時的な受け口としては都合がいい。誠司は石と板切れの間へそれを挟み、割れ目から落ちる灰水の下へ斜めの樋を作った。完全な遮断はできないが、少なくとも清水の湧き口へ直撃するのは防げる。


 灰水の筋が、ぽたりと位置を変えた。


「よし」


 誠司は次に、湧き口の周囲へこびりついた白濁の膜を木べらで薄く削った。膜の下から現れた石は、思っていたより滑らかだ。本来、ここはもっと勢いよく湧いていたのだろう。汚れが蓋になって、清水の力を鈍らせている。


 削った端から、石の表情が変わっていく。濁りに覆われていた場所は鈍く白いが、その下にある岩肌は青みを帯び、冷たさがまるで違った。地下の水はまだ諦めていない。誠司には、それがひどく救いに思えた。


 リュシエンヌが息を潜める。


「無理に剥がすと、濁りが回りませんか」


「だから、今は外側だけです。芯を暴くのは最後」


 誠司は削った沈殿を小皿へ受けた。白い粒子が多い。石灰か、洗剤に似た成分か。日本にいた頃の知識と完全に同じではないが、少なくとも生活の汚れだけではないことはわかる。


「王都の外れで子どもが飲む井戸へ流れ込むには、贅沢すぎる汚れですね」


 リュシエンヌの声は静かだったが、その静けさの底に怒りがあった。


「ええ」


 誠司は短く返した。


 腹は立つ。だが怒りの勢いで手順を飛ばせば、水路の下にいる側が困る。


「次です。リュシエンヌさん、清水の湧き口だけに細い浄化を。水の外へは広げないでください」


「はい」


 杖先から、糸のように細い光が伸びた。


 それは汚れ全体を焼く光ではない。湧き口の輪郭に沿って薄く触れ、石へ染みついた曇りを剥がすための、極めて繊細な浄化だった。白い膜が淡く溶け、湧き出す清水が一瞬だけ強く脈打つ。


 同時に、壁の割れ目から落ちる灰水が樋を伝って脇へ逸れた。


 誠司はその瞬間を逃さず、木べらで湧き口の前を塞いでいた最後の沈殿を掻き取った。


 ご、と小さな音がした。


 それまで指二本ほどだった流れが、三本、四本と太くなる。透明さが増し、石の底を滑る水の輪郭がはっきり見えた。


「押し返しました」


 リュシエンヌが声を上げる。


「地下水脈の力が戻っています」


 「まだ維持の段階です」


 誠司は流れの向きを見た。勢いを得た清水が、灰水の薄い膜を少しずつ剥がしながら先へ進んでいく。このまま出口まで通れば、井戸へ戻る水の質も改善するはずだ。


 リュシエンヌが水面へ手をかざした。


「さっきまでより、痛みがありません」


「飲めると断言するには早いですが、戻り始めています」


 誠司はそう答えた。浄化は奇跡ではない。けれど、正しい順番で手を入れれば、水はちゃんと応えてくれる。



 だが、そこで終わりではなかった。


 新しく通った流れが、水路の角に引っかかっていた小さな包みを押し出したのだ。


 泥に埋もれていたそれは、白い防水布で巻かれていた。布は上等で、下町の荷運びが使う麻袋とは違う。結び紐には銀色の糸が混ざり、端にはかすかに紋が残っている。


 リュシエンヌが目を見開いた。


「その布……王城の洗濯庫で使う区分布に似ています」


 ガロが険しい顔になる。


「城のもんが、なんでこんなとこに沈んでる」


 誠司は包みを慎重に開いた。中から出てきたのは、湿った紙束と、砕けた白い固形片だった。香料に似た匂いがかすかに残っている。祭具の包み紙とも違う。だが、白さだけは不自然なほど保たれていた。


 固形片の角を爪で削ると、粉が指先へ張りつく。石鹸に近いが、それだけではない。白く見せるための何かが混じっている。衣を整え、布を美しく保ち、表に立つ者の見栄えを守るための白さだ。その白さが、地下では毒にも似た濁りになる。


 紙の一枚には、水で滲みながらも赤い印が残っている。


 完全には読めない。けれど、王城の物資出納に使う形式に似ていた。


「証拠になりますか」


 リュシエンヌが問う。


「断定はまだです。でも、偶然で片づけるには整いすぎている」


 誠司は包みを布へ包み直した。


 地下水脈の浄化は、あくまで入口を救っただけだ。だが流れが戻ったからこそ、今まで底へ沈んで見えなかったものが浮き上がってきた。


 ガロが低く唸る。


「王都の下で隠して、上では白い顔してやがるってわけか」


 誠司は答えなかった。


 ただ、水路を走る清水を見た。さっきより透明だ。けれど、その透明さは、上で何が落とされていたかまで消してはくれない。


 リュシエンヌが包みを見つめたまま、静かに言う。


「白いものほど、清く見せるのに都合がいいんですね」


「ええ」


 誠司は頷いた。


「でも、流れの下では色が残る」


 地下の暗さの中で、白い包みだけが妙に目立っていた。


 次に暴くべきは、王城の上で守られている、その白い嘘だった。

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