ロキ
シギュンを傷つけていることを知っていても止められない好奇心。
シギュンの優しい「おかえりなさい」の言葉に感じる喜び。
温かい笑顔を見るとホッとするのに、どこか居心地が悪くなる。なのに手放せない。矛盾した感情に、ロキは自分のことながら呆れた。どれだけひねくれた性格をしているのか。
それでもシギュンにしか感じない不思議な――でも決して不快ではないその感覚を、ロキは大切にしていた。
もちろんシギュンのことも、双子の息子のことも大切に思っていたが、自分のようなろくでもない性格の男が傍にいるのは悪影響を与える気がしてならなかった。
気まぐれで訪ねたトールの家に、家主は不在。代わりに話したトールの妻・シヴとなし崩しにベッドに入った後、ふと気になる。自分の妻とは違う髪の輝き。美しいのは確かだが、ロキはシギュンの髪の方が好きだなと思った。
――この髪は、シヴから離れても美しいままなんだろうか。
その好奇心が原因でトールとシヴに激怒され、償いをさせられたが、そんなに面白くもなかったと反省もしない。
その飄々としたロキが嫉妬と罪悪感を抱いたのは、それから2日後の夜中だった。
真夜中に帰ったロキは、ベッドで眠るシギュンの腕に見慣れない包帯を見つける。やけに気になって腕に顔を寄せると、血の臭いがしないことに気付く。包帯を解くと、その下には赤黒い鬱血が隠されていた。鬱血跡は手の形をしていて、誰かに腕を強く掴まれたものとすぐに分かる。ロキより太い指。片腕の鬱血。
ロキは、すぐさま家を飛び出した。
「ロキ……こんな夜中になんだ」
お前を妻に会わせたくないと顔を歪めたトールはロキを外に追いやり、後ろ手で家の扉を閉めた。
「トール、お前、俺の家に行ったか?」
トールはハッとした。前髪で影って表情は見えないが、ロキが怒っている。大抵のことでは自分の感情を表に出さないあのロキが。
「っあ、ああ。お前を探しにな」
「ふうん。シギュンに会ったんだよな?」
ロキの周りを渦巻く怒りのオーラに下手なことは言えないと判断したトールは、正直に話すことを決めた。
「……会った。腕の鬱血は俺が付けたものだ。が、翌日には直接謝罪をしたし、壊した扉も俺が元に戻した」
「へえ。俺の家で謝って、遠慮されて、謝罪を押し付けて、扉も直して、茶でも飲んだのかよ、2人で」
何故全て分かるんだろう。シギュンがロキに全て話したのか。いや、シヴならともかく、シギュンの性格からしてそれをロキに話すとは思えない。つまり、目の前の男――ロキの想像だ……何故全て分かるんだろう。
「それは……その通りだが、彼女と俺の間にやましいことなどない」
「あってたまるか脳筋男」
ロキは大きく舌打ちすると踵を返してその場を去る。残されたトールは、ロキの新たな一面に苦笑した。
シギュンを傷つけたのはロキの好奇心の結果だが、トールに怒りが湧いてくる。シギュンが自分以外の男と会ったことも、お茶の1杯でも出したことも、何より他の男に傷つけられたことも。鬱血の跡なんて、そこに色気がなくともムカつく。全てに腹が立つ。
自分の瞳と同じ色の石が付いたネックレスが、その独占欲の象徴だ。しかも誰にも内緒で、シギュンの瞳と同じ色の青い石をネックレスにし、身に付けている。
ロキは、シギュンがネックレスを付けて帰りを出迎えてくれた日に、ようやくトールのことを許してやらんでもないと考えた。
*****
目を開けると、薄暗い空が不穏な空気を漂わせている。いや、不穏と言うより破滅か。
この世界はもうすぐ終焉を迎えようとしていた。それはもう逃れられない運命だと知っていたが、ロキは大人しくはしていられなかった。しかしそこにシギュンや息子の敵討ちなんて感情はない。ただ、自分の誇りを守るためだ。
シギュンが命をかけてロキを地底から解放した直後、神々の黄昏が始まった。
ロキは3人の自分の子供と巨人族の兵を引き連れ、オーディンたちの元へ攻め込んだ。3人の子ども――3兄妹は、その昔ロキが女巨人・アングルボザの心臓を食べることで生み出した。
口を開くと天地まで届くと言われる巨躯を誇る狼・フェンリル。人間界を囲んでまだなお余る長さの巨大な毒蛇・ヨルムンガンド。3兄妹の末妹にして冥府の女王・ヘル。
神々の闘いは大地を抉り、数々の神や巨人族の命を奪う。子どもたちも、トールも、オーディンさえも命を落とした。そして、ロキの命も今まさに尽きようとしている。
光の神・ヘイムダルとの闘いの末相打ちとなったロキは静かに薄暗い空を眺めながら、無意識の内にネックレスの青い石を握りしめていた。彼女もあの時ネックレスを握っていた。
一度も「役に立たない」など思ったこともない。そもそも役に立つとか立たないとかじゃない。
ただフラッと家に帰ったロキに、笑っておかえりと言ってくれれば良かった。ロキに飛びついてくる息子たちを笑ってたしなめ、「ただいま」を受け入れてくれるだけで良かった。
そこでシギュンにだけ湧くこの感情の正体が分かった。ようやく気付けたのかという呆れと、気付けて良かったという喜び。
段々薄れ始めていく意識の中で石を握り直し、彼女の最期の言葉と、触れた唇の柔らかさを思い出す。
「俺も愛してるよ、シギュン」