第3話 秘密を持つ女
夜明け前というのは、世界でいちばん正直な時間だと私は思う。
夜の賑わいも。
酒に酔った笑い声も。
色恋も。
全部が終わったあとに残るのは、人間の本当の顔だけだからだ。
それを知ったのは、医師になってからだった。
大学病院の当直室。
仮眠を取る暇もない夜勤明け。
窓の向こうが白み始めるたびに思う。
「ああ、今日も朝が来た」
恐怖でも希望でもない。
ただの確認だった。
生きている。
仕事がある。
患者が待っている。
だから立ち上がる。
それだけだ。
そして今。
私は百五十年前の長崎で、同じ空を見ていた。
「蓮」
背後から声がした。
振り向くと、おたつが立っていた。
女将らしい厳しい顔だが、どこか心配そうでもある。
「まだ起きとったんか」
「眠れなくて」
「そりゃそうやろな」
昨夜。
私は一人の男を助けた。
庄兵衛。
大坂から来た薬問屋の主人。
激しい下痢と嘔吐。
脱水。
そして意識障害。
現代なら点滴一本で助かる患者だ。
しかしここは江戸時代。
輸液も抗菌薬もない。
だから私は必死だった。
湯を沸かし。
塩を混ぜ。
少しずつ飲ませ続けた。
それだけだ。
それだけだったのに。
今朝まで生きている。
「……助かると思いますか」
私が聞くと、おたつは肩をすくめた。
「知らん」
「正直ですね」
「分からんことは分からん」
そう言って、おたつは私の隣に立った。
しばらく二人で朝焼けを見ていた。
やがて。
廊下の向こうから足音が聞こえた。
ゆっくりと。
一定の速さで。
無駄のない歩き方だった。
現れた男を見て、私は少し驚いた。
昨夜の男だ。
長身。
端正な顔立ち。
派手さはない。
だが不思議と目を引く。
「深見十郎です」
男は静かに頭を下げた。
「昨夜は失礼しました」
通詞。
そう聞いていた。
オランダ語を扱う特別な役職。
出島と日本を繋ぐ橋のような存在。
だが私には、どうにも通詞には見えなかった。
姿勢が良すぎる。
視線が鋭すぎる。
まるで武士だ。
「患者の様子を見に?」
「ええ」
深見は答えた。
「それと、あなたに聞きたいことがある」
「私に?」
「なぜ、あの処置を知っていたのですか」
私は一瞬だけ黙った。
予想していた質問だった。
当然だ。
遊女が突然コレラ患者を救った。
普通ではない。
「本で読みました」
「どんな本です」
「蘭書です」
深見の眉が、わずかに動いた。
「蘭書を読めるのですか」
しまった、と思った。
言い過ぎた。
この時代に蘭書を読める女性などほとんどいない。
まして遊女ならなおさらだ。
だが言葉は戻らない。
「少しだけ」
「なるほど」
深見はそれ以上追及しなかった。
けれど。
納得していないことだけは分かった。
その時だった。
奥の部屋から声がした。
「水を……」
庄兵衛だった。
私は反射的に立ち上がる。
医者としての習慣だった。
考えるより先に体が動く。
深見がその様子を見ていることにも気付かずに。
そして、その瞬間。
深見十郎は確信した。
この娘は何かを隠している。
しかもそれは――命に関わるほど大きな秘密だと。




