第1話 「死者の手は温かかった」
さて、どこから話せばいいだろう。
手術室の床に倒れたことか。
心電図が無情な直線を描いたことか。
それとも、目を覚ましたら見知らぬ木の天井が頭上にあって、全身から線香の煙のような甘い臭いがしていたことか。
どれも重要だ。
だが今の私には、一つだけはっきり言えることがある。
私、西村琴音は――どうやら死んでいない。
倒れたのは深夜二時十七分。
交通事故で腹部大動脈を損傷した患者の緊急手術だった。
患者は四十八歳男性。
搬送時血圧七十台。
出血性ショック。
生存率は決して高くない。
私は三十時間連続勤務の最後の集中力を搾り出していた。
視界の端が白く霞む。
手が重い。
眠い。
だがそんなことは関係ない。
患者はもっと死にそうなのだから。
「先生、顔色が――」
助手の田中がそう言った。
そこで記憶は途切れている。
暗転。
音も光もない。
まるで脳の電源を抜かれたみたいに。
そして。
次に意識が浮上したとき。
私は知らない天井を見上げていた。
人間の脳は嗅覚だけは正直だ。
視覚より速い。
思考より速い。
臭いは理性を飛び越えて感情の中枢へ届く。
これは経験則ではない。
解剖学の話だ。
嗅神経は大脳辺縁系へ直結している。
だから臭いは嘘をつかない。
目を開ける前に、臭いが来た。
線香。
古い木材。
油の焦げた臭い。
人の汗。
そして。
かすかな腐敗臭。
私はすぐには起き上がらなかった。
まず情報を集める。
天井は低い。
木の梁が見える。
照明は揺れている。
電気ではない。
行灯か蝋燭。
耳を澄ます。
遠くで三味線。
女たちの笑い声。
廊下を走る足音。
風の音。
布団は薄い。
畳の上に直接敷かれている。
病院ではない。
少なくとも現代日本ではない。
そこまで確認してから、私はゆっくり目を開いた。
そして。
自分の手を見た。
小さい。
細い。
白い。
私の手ではなかった。
外科医の手ではない。
メスを握り続けてきた手ではない。
節が目立たない。
筋張っていない。
その代わり、指先は綺麗に整えられている。
親指の付け根に古い火傷痕。
手の甲には白粉の名残。
知らない女の手だった。
「……なるほど」
声を出す。
高い。
若い。
二十八年間使ってきた声ではない。
その瞬間だけ、背筋が凍った。
どんな重症患者を見ても冷静でいられた私が。
初めて本気で混乱した。
ここはどこだ。
私は誰だ。
いや。
私は西村琴音だ。
問題は。
この身体が誰なのかだった。
パニックは後回し。
まず現状確認。
医師はそういう生き物だ。
私はゆっくり身体を起こした。
頭痛。
脱力感。
口渇。
軽度の筋肉痙攣。
そして。
布団の周囲に残る痕跡。
吐瀉物。
下痢便。
独特の酸臭。
私は指先で皮膚をつまんだ。
戻りが遅い。
脱水。
重度の。
この身体は最近まで激しい消化器症状に苦しんでいた。
そして。
おそらく死んだ。
だから私がいる。
理由は不明。
理屈も分からない。
しかし現象としてはそう考えるしかない。
「……考えるのは後ね」
私は独り言を呟いた。
そのとき。
頭の奥に何かが弾けた。
赤い簪。
三味線。
笑う少女たち。
夜の灯り。
『蓮、お前は本当に愛想がないねぇ』
誰かの声。
映像は一瞬で消えた。
だが理解した。
これは私の記憶ではない。
この身体の持ち主。
蓮。
その名だけが頭に残った。
「蓮ちゃん!」
障子が勢いよく開いた。
小太りの女性が飛び込んでくる。
五十代。
着物は質が良い。
帯の締め方に迷いがない。
店を切り盛りする立場。
女将だ。
診断終了。
三秒。
「起きたんかい!」
女性は涙ぐみながら私の手を握った。
「三日も眠ったままで、あたしゃもう駄目かと思ったよ……」
三日。
意識不明。
なるほど。
死亡確認の一歩手前だったらしい。
「ご心配をおかけしました」
言った瞬間。
女性は目を丸くした。
私はしまったと思った。
言葉遣いが。
見習い娘のそれではない。
だが女性は泣き笑いのまま首を振った。
「元気になったなら何でもええよ」
その言葉に救われた。
翌日。
私は部屋から外を観察した。
女たち。
三味線。
華やかな着物。
酒。
香。
男たち。
そして。
時折聞こえる外国語。
英語ではない。
中国語でもない。
何語だ。
少し考えて。
答えに辿り着く。
長崎。
幕末。
丸山遊郭。
そこなら全て説明がつく。
「……まさかね」
そう呟いた瞬間。
背後から声がした。
「そのまさかですよ」
振り返る。
細身の男が立っていた。
三十前後。
長身。
切れ長の目。
笑っているようで笑っていない。
妙な男だった。
「ここは長崎です」
男は静かに言った。
「丸山遊郭。月草」
私は何も言えなかった。
なぜなら。
私の推測が正しかったからだ。
その夜。
騒ぎが起きた。
客間から悲鳴が響く。
何かが倒れる音。
女たちの叫び。
私はため息をついた。
嫌な予感しかしない。
そして大抵の場合。
医者の嫌な予感は当たる。
客間へ駆け込む。
男が倒れていた。
商人風。
四十代。
冷汗。
蒼白。
頻脈。
脱力。
そして。
足元に広がる白濁した液体。
私は一瞬で理解した。
米のとぎ汁様便。
コレラ。
十九世紀最悪クラスの感染症。
この時代の人々が「ころり」と呼んだ病。
放置すれば数時間で死ぬ。
だが。
私には治療法を知っている。
「お湯を!」
部屋中が静まり返る。
「塩と砂糖を持ってきてください!」
誰も動かない。
私は怒鳴った。
「早く!」
ようやく下働きの少年が飛び出していく。
男の身体を横向きにする。
気道確保。
誤嚥防止。
呼吸確認。
脈確認。
まだ間に合う。
「蓮ちゃん!」
女将が叫ぶ。
「何をする気なんや!」
「助けます」
私は即答した。
「この人は水を失っています」
「薬は!?」
「必要ありません」
全員が驚いた顔をする。
私は続けた。
「今必要なのは水です」
それは未来の医学が証明した事実だった。
コレラ患者を救う最大の武器。
それは抗生剤ですらない。
輸液でもない。
経口補水。
塩と糖。
そして水。
たったそれだけ。
たったそれだけで何百万人もの命が救われる。
未来の常識。
しかし今はまだ誰も知らない知識。
私は静かに言った。
「この人は助かります」
部屋中が息を呑んだ。
その瞬間。
なぜか。
私は手術室にいた頃と同じ感覚を思い出していた。
患者がいる。
治療法がある。
ならやるだけだ。
時代なんて関係ない。
私は医者なのだから。
深夜。
男の容態は安定した。
まだ危険域ではある。
だが死の崖からは戻っている。
私は廊下に腰を下ろした。
疲労が押し寄せる。
そんな私の前に。
あの男が現れた。
「お疲れ様です」
静かな声。
私は顔を上げる。
男は行灯の灯りの下で微笑んでいた。
「ずっと見ていました」
嫌な言い方だった。
医者の勘が告げる。
この男は危険だ。
「コレラ」
男は言った。
「そう診断したのですね」
私は黙る。
「オランダの医学書で似た記述を読んだことがあります」
男は続ける。
「塩と砂糖と水」
そして。
ゆっくり私を見た。
「月草の見習い娘が知るには、少し専門的すぎる知識だ」
沈黙。
夜風が吹く。
行灯が揺れる。
男は微笑む。
だが目は笑っていない。
患者を解剖前に観察する外科医の目。
獲物を値踏みする猟師の目。
そんな目だった。
「深見十郎」
男は名乗った。
「阿蘭陀通詞です」
出島と日本を繋ぐ知識人。
洋書を読み。
異国の情報を扱う男。
つまり。
私にとって最も厄介な相手だった。
「あなたは何者ですか、蓮さん」
静かな問い。
私は答えない。
答えられない。
すると深見は小さく笑った。
「今は結構」
そう言って立ち上がる。
「ですが明日には、同じ病人があと数人出るでしょう」
私は顔を上げた。
「その全員を診ますか?」
月明かりが差し込む。
遠くで船の鐘が鳴る。
私はしばらく考えて。
そして苦笑した。
「診ますよ」
深見は目を細めた。
「やはりそう答えますか」
「患者がいるので」
「なるほど」
彼は歩き出した。
「塩と砂糖は用意しておきます」
その背中を見送りながら。
私はようやく理解した。
ここは幕末だ。
病気は溢れている。
抗生剤もない。
輸液もない。
CTもない。
それでも。
患者はいる。
だったらやることは一つしかない。
私は空を見上げた。
長崎の月は。
未来の月と同じ形をしていた。
「忙しくなりそうね」
潮風が吹く。
船の鐘が鳴る。
遠くで犬が吠える。
西村琴音は死んだ。
蓮も死んだ。
だが今ここにいる私は。
そのどちらでもあり。
どちらでもない。
それでも一つだけ確かなことがある。
明日も誰かが病気になる。
だから私は診る。
医者とは。
そういう生き物なのだから。




