第1部 観測者の崩壊
22時38分。幕張の海風が、ガラス張りのビルを低く震わせていた。
気象観測・予報会社「J-Weather Central」中央センター。
夜勤のフロアは、モニターの光だけが人影を切り取っている。
三枝悠斗は、台風27号の進路図を凝視していた。
中心気圧の落ち方が、予測モデルの範囲を逸脱している。
「……この速度、異常だな」
隣で新人の佐久間が、指先を落ち着きなく机に叩きつけていた。
「主任、潮位の上昇……計算が追いついてません。
これ、沿岸部……間に合わない可能性があります」
悠斗は短く息を吐いた。
「警告レベルを上げる。自治体に再送だ」
その瞬間、スクリーンの一つが切り替わった。
【カメラ01:湘南・海岸通り】
若者たちが、波を背にスマホを掲げている。
ライトに照らされた顔は、緊張ではなく“高揚”に染まっていた。
「……笑ってる場合じゃないだろ」
悠斗の声は低かった。
佐久間が眉をひそめる。
「コメント欄……“もっと寄れ”とか“波きれい”とか……
現実感がないんでしょうね」
悠斗は警告を送るボタンを押した。
「沿岸部の皆さん、至急高台へ避難してください──」
だが、画面の若者たちは、まるで別世界にいるようだった。
***
【カメラ07:千葉・河川敷】
三脚を据えた男が、レンズを覗き込んでいる。
その姿勢は、嵐の前の静けさの中で異様なほど“動かない”。
「……記録が残らなかったら、また同じことが起きる」
男は独り言のように呟いた。
声は震えていない。むしろ落ち着きすぎていた。
その横で、スーツ姿の会社員が立ち尽くしている。
「……足が……動かない……」
彼の声は、壊れた機械のようにかすれていた。
悠斗はモニターに向かって思わず言った。
「誰か……声をかけてやれよ……」
だが、センターからは何もできない。
***
【カメラ12:地方都市・商店街】
人々が走り出す。
だが、その手に握られている物は、あまりに“日常的”だった。
コップ。
電卓。
書類の束。
片方だけのスリッパ。
「……持つ物を選ぶ余裕すらないってことか」
佐久間が呟く。
その声には、恐怖よりも“理解しようとする必死さ”が滲んでいた。
画面の端で、子どもが転びかける。
周囲の大人たちは、助けるべきか迷って足を止める。
その一瞬の迷いが、混乱をさらに広げていく。
悠斗は拳を握った。
「……頼む、誰か……」
***
センターの窓の外でも、避難が遅れた人々が動き始めていた。
現実とモニターの映像が重なり、悠斗の視界が揺れる。
“観測しているだけでいいのか。
俺たちは、ただ見ているだけなのか。”
その時、アラームが鳴り響いた。
【緊急:湾岸部に第一波の兆候】
佐久間が振り返る。
「主任、潮位の変動……予測より速いです。
これ、第一波じゃなくて……“前触れ”かもしれません」
悠斗はマイクを握り直した。
「全チャンネル、最大警告。
まだ間に合う人がいる。伝え続けるぞ」
だが、次の瞬間──
スクリーンの一つが、砂嵐に変わった。
【カメラ01:信号断】
佐久間が息を呑む。
「……主任、これ……」
悠斗は喉の奥が冷たくなるのを感じた。
「……予備回線に切り替えろ。まだ終わってない」
フロア全体が慌ただしく動き始める。
そして──
砂嵐だった画面が、ゆっくりと像を結び始めた。
【カメラ01:再接続】
映ったのは、
“さっきまでそこにいたはずの人影が、もういない海岸”だった。
佐久間が小さく呟く。
「……間に合わなかったんですね」
悠斗は息を呑んだ。
胸の奥で、何かが確実に軋んでいた。
「……第二波が来る。
ここからが本番だ。全域に再警告を出せ」
その声は、静かだが揺らぎがなかった。
22時46分。
湘南の海は、夜の闇の中で不自然な光を帯びていた。
スマホのライトが、若者たちの顔を白く照らす。
「おい、見ろよ。波、今日だけ別格じゃね?」
金髪の青年・リョウが、興奮気味に画面へ向かって叫ぶ。
「コメント伸びてる。ほら、“もっと寄れ”って」
冷静ぶったメガネのユウトが、視聴者数を確認しながら言う。
彼の声は妙に落ち着いているが、指先は震えていた。
「寄るのはいいけどさ……なんか、音が変じゃない?」
唯一不安を隠せないミナが、海を見つめて眉を寄せる。
リョウが笑い飛ばす。
「ビビりすぎ。台風の前なんてこんなもんだろ」
ユウトがスマホを掲げ、波を映す。
「視聴者四千。やば。これ、今日一番の数字だぞ」
ミナは唇を噛んだ。
「数字の話してる場合じゃ──」
その瞬間、風が止んだ。
海が、音を失った。
「……え、なにこれ」
ミナの声が、夜に吸い込まれる。
リョウは笑いを止め、海を見た。
「……おい、波って……こんな盛り上がり方する?」
ユウトはスマホを構えたまま呟く。
「水平線……歪んでる……?」
海が、ゆっくりと膨らんでいた。
波ではない。
“形のある何か”が、海面の下で動いているような膨らみ。
ミナが後ずさる。
「ねえ、帰ろう。これ、普通じゃない」
リョウは虚勢を張るように笑った。
「大げさだって。ほら、ライト強めて──」
ユウトが画面を見て青ざめた。
「コメント……“逃げろ”ばっかりだ」
《お前ら本気で危ないぞ》
《波の動きおかしい》
《走れって!》
ミナが叫ぶ。
「ほら! みんな言ってるじゃん!」
リョウはスマホを奪い取るようにして画面を覗く。
「……いや、でも……」
その時、海が“呼吸するように”膨らんだ。
ライトが海面を照らし、異様な輪郭が浮かび上がる。
ユウトが震える声で言った。
「……これ、波じゃない」
ミナがリョウの腕を掴む。
「逃げるよ。今すぐ」
リョウは言葉を失った。
「……こんなの、聞いてない……」
海が、崩れた。
轟音ではなかった。
むしろ、音が吸い込まれたような静けさ。
ユウトのスマホが揺れ、画面が水平を失う。
ライトが乱れ、砂浜の暗闇だけが映る。
《おい》
《何が起きてる》
《カメラ落ちた?》
《返事しろ》
コメントが流れ続ける。
ミナが叫ぶ。
「走って! お願い!」
リョウはようやく動き出した。
「……わかった……わかったから……!」
だが、次の瞬間──
映像は途切れた。
スマホのライトだけが、砂の上で虚しく光っていた。
22時52分。
千葉の河川敷は、街灯の光が水面に細い線を描いていた。
川は、いつもより速く、いつもより重く流れている。
だが、男──水理学研究者の榊原は、その異常を“恐怖”ではなく“興味”として受け止めていた。
「……流速が合わない。上流の雨量と計算が一致しない」
彼は小型の測定器を川に向け、数値を確認する。
眉間に皺が寄る。
「水位の上昇……線形じゃない。
これは……“押されている”?」
その横で、スーツ姿の会社員が立ち尽くしていた。
肩が震え、呼吸が浅い。
「……すみません……足が……動かなくて……」
榊原は視線だけを向けた。
「動かないなら、しゃがんで重心を落としたほうがいい。
風が止んでる。こういう時は、空気が先に動く」
会社員は首を振る。
「いや……あの……すみません……頭が……真っ白で……」
榊原は短く息を吐いた。
「真っ白でいい。問題は“川が何をしようとしているか”だ」
会社員は目を丸くした。
「……川が……何を……?」
榊原は測定器を見つめたまま答える。
「水は嘘をつかない。
だが今は……“説明できない動き”をしている」
***
川の音が変わった。
低く、重く、腹の底に響くような音。
風が止み、空気が湿りすぎている。
会社員が震える声で言う。
「……川って……こんな音、しますか……?」
榊原は測定器を握りしめた。
「しない。
だから……面白い」
会社員は絶句した。
「面白い……?」
「自然現象が“予測を裏切る瞬間”は、滅多にない。
だが……これは違う。
“何かが水を押している”」
水面が、盛り上がっている。
街灯の光が歪み、波紋が逆流する。
会社員は後ずさった。
「ちょっと……ちょっと待って……これ……」
榊原は目を細めた。
「……形がある。
波じゃない。
“構造物のような膨らみ”だ」
会社員が叫ぶ。
「逃げましょうよ! こんなの……!」
榊原は初めて測定器から目を離した。
「逃げるのは簡単だ。
だが、この現象を見逃したら……一生後悔する」
「後悔とかじゃなくて! 死にますよ!」
榊原は静かに言った。
「死ぬかもしれない。
だが……“何が起きているのか”を知らずに死ぬほうが、私は嫌だ」
会社員は言葉を失った。
***
川が“形を変えた”。
水面が裂けるように盛り上がり、光が乱れ、空気が震える。
会社員が悲鳴を上げる。
「無理無理無理無理……!」
榊原は測定器を向けたまま呟いた。
「……これは……水じゃない。
“水に見える何か”だ」
次の瞬間──
視界が白く弾けた。
耳鳴りがし、足元の地面が揺れる。
会社員が叫んだような気がした。
だが、音はすぐに風に溶けた。
榊原は測定器を胸に抱えたまま後ずさる。
「……まだ……解析できる……まだ……」
だが、測定器は濡れ、数値は乱れ、ピントは合わない。
川の音が、さらに低く、重くなる。
会社員が震える声で言った。
「……お願いです……逃げましょう……」
榊原はようやく気づいた。
“これは観測ではなく、生存の問題だ”と。
だが、その気づきは遅すぎた。
空気が、押し寄せる何かに押しつぶされるように重くなる。
榊原は測定器を抱えたまま、立ち上がろうとした。
その瞬間──
視界が、暗転した。
22時58分。
地方都市の商店街は、夜なのに妙に明るかった。
避難を促すアナウンスがスピーカーから流れ続けている。
だが、その声は人々の足音と叫びにかき消されていた。
「道ふさがってる! 裏通りに回れ!」
先頭を走る男が、振り返りもせず叫ぶ。
「押さないで! 押したら転ぶってば!」
中年女性がバッグを胸に抱え、必死に体勢を保つ。
「なんで俺、スリッパ片方なんだよ……」
若いサラリーマンが、自分の足元を見て呆然と呟く。
「それ返して! それ私のコップ!」
別の女性が、プラスチックのコップを奪い返そうと走る。
「キャップだけ握ってきちゃった……意味わかんない……」
女子高生が泣きそうな声で言う。
誰もが、何かを握りしめていた。
コップ、電卓、書類、スリッパ、キャップ。
“手ぶらで逃げる”という発想が、恐怖で消えている。
***
商店街の中央で、ひとりの子どもが転んだ。
ランドセルが片方だけ肩から落ちている。
「痛い……」
周囲の大人たちは、一瞬だけ足を止める。
助けるべきか、逃げるべきか──
その一瞬の迷いが、混乱をさらに広げる。
「誰か……」
子どもの声は、群衆の足音に飲まれた。
***
その時、ひとりの女性が立ち止まった。
髪を後ろで束ねた、30代くらいの母親だ。
「大丈夫? 立てる?」
子どもは涙を拭いながら頷いた。
女性は手を差し伸べる。
「ゆっくりでいい。
走る時は、私の手、絶対離さないで」
子どもは小さく「うん」と答えた。
***
その瞬間、空気が変わった。
風が止む。
湿度が急に上がる。
遠くで、低い地鳴りが響く。
「……今の、何?」
若い女性が空を見上げる。
「雷じゃねぇな……胸に響く」
作業着の男が、胸に手を当てる。
「やだ……やだ……この音、嫌い……」
少女が耳を塞ぐ。
「音じゃない。空気が……押されてる」
老人が、震える声で呟いた。
アーケードの照明が、わずかに揺れた。
「やばい、やばい、やばい……!」
誰かが叫ぶと、群衆はさらに速度を上げた。
押し合い、転び、叫び、泣き、怒鳴り、逃げ惑う。
“逃げる方向すら分からない”混乱。
***
母親は子どもの手を強く握った。
「走るよ。絶対に離れないで」
子どもは頷いたが、足が震えている。
その時──
商店街のスピーカーが、ノイズ混じりに叫んだ。
【緊急警告:第二波の兆候──】
言葉の途中で、音声が途切れた。
群衆が一斉に振り返る。
遠くの空が、わずかに光った。
雷ではない。
もっと低く、もっと重く、もっと“嫌な予感”を孕んだ光。
「何あれ……」
「光ってる……?」
「やだ……帰りたい……」
母親は子どもを抱き寄せた。
「目、閉じて。いい? 絶対に離れない」
子どもはぎゅっと目を閉じた。
商店街全体が、静かになった。
その静けさは、
“何かが来る前の静寂”だった。
23時04分。
幕張の中央センターは、異様な静けさに包まれていた。
静か──というより、音が“削られている”。
空調の低い唸りだけが、広いフロアに漂っている。
三枝悠斗は、途切れていくカメラ映像を前に、眉間を押さえた。
【カメラ01:信号断】
【カメラ07:信号断】
【カメラ12:不安定】
赤い警告が、画面の端に並ぶ。
佐久間が、椅子を蹴るように立ち上がった。
「主任……予備回線も……波形が崩れてます。
信号が……どこから切れてるのか……判断できません」
悠斗は短く息を吐いた。
「回線だけじゃない。海も乱れてる」
佐久間は唇を噛む。
「主任は……怖くないんですか」
「怖いさ。
ただ、怖がってる暇がないだけだ」
その言葉に、佐久間は一瞬だけ目を見開いた。
***
上層部の席から、冷たい声が飛ぶ。
「三枝主任、現場に出る必要はない。
観測を続けろ。データが最優先だ」
悠斗は振り返った。
「データだけ残して、誰が救われるんですか」
上層部の男は眉ひとつ動かさない。
「救助は自治体の仕事だ。我々は観測者だ」
佐久間が小さく息を呑む。
「……観測者、ですか」
悠斗は、胸の奥に重いものが沈んでいくのを感じた。
“観測者でいることは、傍観者でいることと同じなのか。”
***
その時、センター全体にアラームが鳴り響いた。
【緊急:湾岸部に第二波の兆候】
【予測モデル:不安定】
【潮位:急上昇】
佐久間が叫ぶ。
「主任! モデルが……崩れてます!
計算が……追いつきません!」
「そんなはずは……」
悠斗は別のモデルを走らせる。
だが、どのモデルも同じ結果を返した。
“第二波の規模が読めない。”
「……おかしい。
こんな乱れ方、俺は一度も見たことがない」
上層部の男が言う。
「観測を続けろ。現場に出る必要はない」
悠斗は、モニターに映る幕張の海を見た。
海が、静かだった。
風が止み、波が消え、まるで“息を潜めている”。
佐久間が呟く。
「主任……海が……止まってます」
「……前兆だ」
悠斗は立ち上がった。
胸の奥で、何かが決壊する音がした。
「俺は、行く」
佐久間が目を見開く。
「主任、規則が──」
「規則より、人だ」
その瞬間、ビル全体が低く揺れた。
照明が一瞬だけ暗くなる。
アラームが再び鳴り響く。
【緊急:湾岸部に異常な水位変動】
【第二波の可能性:極めて高い】
悠斗はヘッドセットを外し、フロアを駆け出した。
佐久間が叫ぶ。
「主任! 僕も行きます!」
だが悠斗は振り返らなかった。
観測者ではなく、
“当事者”として動くために。
その背中を、センターの薄暗い光が照らしていた。
23時09分。
幕張の夜景は、いつもより暗かった。
中央センターの自動ドアが開き、三枝悠斗は外へ飛び出した。
湿った空気が肌にまとわりつく。
風が止んでいる。
海沿いの街で、風が止む──それ自体が異常だった。
「主任、待ってください!」
背後から佐久間の声が追いかけてくる。
だが悠斗は振り返らない。
外階段を駆け下り、海側の歩道へ出る。
眼下の道路には、避難が遅れた人々が集まり始めていた。
車のクラクション、叫び声、泣き声。
だが、そのすべてがどこか“遠い”。
音が、吸い込まれているようだった。
「……静かすぎる」
悠斗は呟いた。
海の方を見る。
街灯の光が届かない暗闇の中で、海面がわずかに盛り上がっている。
波ではない。
“膨らんでいる”のだ。
佐久間が追いつき、肩で息をしながら言う。
「主任……あれ、潮位の上昇じゃありません。
“水が押されてる”動きです」
悠斗は道路にいる人々を見渡した。
スマホを掲げて海を撮る者。
荷物をまとめようとして動けない者。
何が起きているのか理解できず、ただ立ち尽くす者。
「……誰も、逃げていない」
佐久間が震える声で言う。
「どうすれば……」
悠斗は深く息を吸った。
観測者としての冷静さと、ひとりの人間としての焦りが胸の中でぶつかり合う。
「俺たちが、言うしかない」
「え……?」
「ここにいる全員に、逃げろと伝えるんだ」
佐久間の目が大きく開く。
「主任、それは……僕らの職務範囲じゃ──」
「今は肩書きなんてどうでもいい!」
悠斗の声が夜に響いた。
その瞬間、道路にいた数人が振り返った。
悠斗は叫んだ。
「海から離れろ! 高台へ向かえ! 時間がない!」
だが、反応は鈍い。
「本当に?」「大げさじゃね?」「何が起きてんの?」
そんな声が返ってくる。
悠斗は歯を食いしばった。
“言葉が届かない。時間がない。”
佐久間が叫ぶ。
「こっちです! ビルの裏に高台があります! 急いで!」
若者のひとりが佐久間に食ってかかる。
「本当に来るのかよ! 脅してんじゃねぇだろうな!」
佐久間は震える声で言った。
「僕らは観測センターの職員です。
第二波が来ます。信じてください」
その言葉に、若者の表情が変わった。
「……マジかよ……」
ようやく、数人が動き始める。
だが──
道路全体が“震えた”。
地面が、低く唸るように揺れる。
空気が、押し寄せる何かに押しつぶされるように重くなる。
「……なんだ……これ……」
「地震……?」
「違う……胸が……苦しい……」
「空気が……押されてる……」
誰かが呟いた。
悠斗は、海の方を見た。
暗闇の中で、海が“盛り上がっている”。
街灯の光が歪み、空気が震える。
「……第二波だ」
その言葉が、道路全体に広がった。
若者が叫ぶ。
「走れ! 本当に来るぞ!」
商店街の人々が悲鳴を上げる。
「こっちだ!」「押すな!」「子どもが──!」
河川敷の榊原は、測定器を抱えたまま呟いた。
「……水じゃない……“水に見える何か”だ……」
その声は震えていた。
足がすくんでいた会社員は、膝をついた。
「……無理だ……もう無理だ……」
母親は子どもの手を握りしめた。
「目を閉じて。絶対に離れないで」
佐久間が叫ぶ。
「主任! 早く!」
だが悠斗は、海から目を離せなかった。
海が、光を反射しながら膨らんでいる。
その輪郭は、波ではなかった。
もっと大きく、もっと重く、もっと“静か”だった。
風が吹いた。
それは“海から吹く風”ではなかった。
“押し寄せる何か”が空気を押し出している風だった。
悠斗は息を呑んだ。
「……来るぞ」
道路にいた全員が、海を見た。
そして──
海が、崩れた。
音はなかった。
ただ、世界が一瞬だけ“止まった”。
次の瞬間、夜の街に“遅れて”轟音が響いた。
23時13分。
湾岸道路は、逃げ遅れた人々で溢れていた。
車は渋滞で動かず、クラクションが断続的に鳴る。
だが、その音でさえ、どこか遠くに感じられた。
空気が重い。
湿度が異常に高い。
風が吹かない。
“海が息を潜めている”ような静けさだった。
***
◆湘南の若者たち
リョウは肩で息をしながら叫んだ。
「やべぇ……あれ、波じゃねぇ……形が……おかしい……!」
ユウトは壊れたスマホを握りしめ、呆然と呟く。
「画面……真っ黒……数字も……全部消えた……」
ミナは二人の腕を引っ張る。
「数字とかどうでもいい! 走るの! 今はそれだけ!」
◆河川敷の榊原
榊原は泥だらけの姿で道路に出てきた。
測定器を胸に抱え、息を荒げている。
「……水じゃない……“水に見える何か”が……押してる……」
会社員が彼の腕を掴む。
「もういいでしょう! 生きるほうが先です!」
榊原は測定器を見つめたまま呟く。
「……解析が……途中なんだ……」
◆商店街の母親と子ども
母親は子どもの手を握りしめたまま、必死に周囲を見渡す。
「道が……塞がってる……どうすれば……」
子どもは震える声で言う。
「お母さん……こわい……」
母親は子どもの頭を抱き寄せた。
「大丈夫。絶対に離れないから」
◆商店街の人々
「押すな! 押すなって!」
「どっちに逃げればいいんだよ!」
「誰か案内してくれよ!」
「スリッパ片方しかないんだけど……」
「そんなのどうでもいいでしょ!」
恐怖は、叫び声の形で溢れ出していた。
***
その混乱の中へ、三枝悠斗と佐久間が飛び込んだ。
悠斗は腹の底から声を張り上げた。
「海から離れろ! 高台へ向かえ! 時間がない!」
だが、反応は鈍い。
「本当に?」「大げさじゃね?」「何が起きてんの?」
そんな声が返ってくる。
佐久間が叫ぶ。
「僕らは観測センターの職員です!
第二波が来ます! 信じてください!」
その言葉に、若者のひとりが顔色を変えた。
「……マジかよ……」
ようやく、数人が動き始める。
だが──
道路全体が“震えた”。
地面が、低く唸るように揺れる。
空気が、押し寄せる何かに押しつぶされるように重くなる。
「……なんだ……これ……」
「地震……?」
「違う……胸が……苦しい……」
「空気が……押されてる……」
誰かが呟いた。
悠斗は、海の方を見た。
暗闇の中で、海が“盛り上がっている”。
街灯の光が歪み、空気が震える。
「……第二波だ」
その言葉が、道路全体に広がった。
若者が叫ぶ。
「走れ! 本当に来るぞ!」
商店街の人々が悲鳴を上げる。
「こっちだ!」「押すな!」「子どもが──!」
榊原は測定器を抱えたまま呟いた。
「……形が……変わってる……こんなの……」
会社員が叫ぶ。
「もうやめてください! 逃げるんです!」
母親は子どもを抱きしめた。
「目を閉じて。絶対に離れないで」
佐久間が叫ぶ。
「主任! 早く!」
だが悠斗は、海から目を離せなかった。
海が、光を反射しながら膨らんでいる。
その輪郭は、波ではなかった。
もっと大きく、もっと重く、もっと“静か”だった。
風が吹いた。
それは“海から吹く風”ではなかった。
“押し寄せる何か”が空気を押し出している風だった。
悠斗は息を呑んだ。
「……来るぞ」
道路にいた全員が、海を見た。
そして──
海が、崩れた。
音はなかった。
ただ、世界が一瞬だけ“止まった”。
次の瞬間、夜の街に“遅れて”轟音が響いた。
23時14分。
湾岸道路に、時間の“切れ目”のような静寂が落ちた。
誰もが息を止めた。
泣き声も、叫びも、クラクションも、すべてが遠のく。
海が、光を帯びていた。
街灯の反射ではない。
“海そのものが発光している”ような、淡い青白い光。
ミナが震える声で言った。
「……あれ、海じゃない……」
リョウは言葉を失い、ただ口を開けたまま固まっている。
ユウトは壊れたスマホを握りしめ、呟いた。
「……数値じゃ説明できない……」
榊原は測定器を胸に抱え、目を細めた。
「……水の密度が……変わってる……
こんな現象、理論上……ありえない……」
会社員は膝をつき、震える声で言う。
「もう……帰りたい……」
母親は子どもを抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫だから。
絶対に離れない」
子どもは目を閉じ、母親の服を握りしめた。
佐久間は声を張り上げようとしたが、喉が震えて言葉にならない。
「しゅ……主任……これ……」
悠斗は、海を見つめたまま呟いた。
「……形が……変わってる……」
海面が、ゆっくりと盛り上がる。
波ではない。
“巨大な何か”が、海の下から押し上げているような膨らみ。
空気が震えた。
胸の奥に、低い振動が響く。
「……来るぞ」
悠斗の声は、誰に向けたものでもなかった。
***
海が、崩れた。
音はなかった。
ただ、世界が一瞬だけ“無音”になった。
次の瞬間──
遅れて、轟音が街を貫いた。
空気が押し出され、道路の砂埃が舞い上がる。
車が揺れ、窓ガラスが震える。
「走れぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
誰かの叫びが引き金になり、群衆が一斉に動き出した。
リョウはミナの腕を掴む。
「行くぞ! 振り返んな!」
ミナは涙を流しながら走る。
「怖い……怖いよ……!」
ユウトはスマホを捨て、息を切らしながら叫ぶ。
「こっち! 道が開いてる!」
榊原は測定器を抱えたまま走り出す。
「データが……飛んでる……何が……何が起きてる……!」
会社員は足をもつれさせながら必死に前へ進む。
「助けて……誰か……!」
母親は子どもを抱きかかえ、叫ぶ。
「しっかり掴まって! 絶対に離れないで!」
佐久間は振り返り、海を見た。
「主任……あれ……!」
悠斗も振り返る。
海から押し寄せる“第二波”は、
波というより、
“巨大な壁”だった。
水の壁。
光を帯びた、形のある水塊。
その輪郭は、自然のものとは思えないほど滑らかで、巨大で、静かだった。
「……なんだ……あれは……」
悠斗の声は震えていた。
第二波が、街へ向かって迫ってくる。
空気が押しつぶされ、
道路の標識が揺れ、
電線が唸り、
街灯が軋む。
誰かが叫んだ。
「間に合わない! 走れぇぇぇ!!」
群衆が一斉に悲鳴を上げ、
湾岸道路は“逃げる音”で満たされた。
そして──
第二波が、街に触れた。




