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観測者たちの夜  作者: 双鶴


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1/4

第1部 観測者の崩壊

 22時38分。幕張の海風が、ガラス張りのビルを低く震わせていた。


 気象観測・予報会社「J-Weather Central」中央センター。

 夜勤のフロアは、モニターの光だけが人影を切り取っている。


 三枝悠斗は、台風27号の進路図を凝視していた。

 中心気圧の落ち方が、予測モデルの範囲を逸脱している。


 「……この速度、異常だな」


 隣で新人の佐久間が、指先を落ち着きなく机に叩きつけていた。

 「主任、潮位の上昇……計算が追いついてません。

  これ、沿岸部……間に合わない可能性があります」


 悠斗は短く息を吐いた。

 「警告レベルを上げる。自治体に再送だ」


 その瞬間、スクリーンの一つが切り替わった。


 【カメラ01:湘南・海岸通り】


 若者たちが、波を背にスマホを掲げている。

 ライトに照らされた顔は、緊張ではなく“高揚”に染まっていた。


 「……笑ってる場合じゃないだろ」


 悠斗の声は低かった。


 佐久間が眉をひそめる。

 「コメント欄……“もっと寄れ”とか“波きれい”とか……

  現実感がないんでしょうね」


 悠斗は警告を送るボタンを押した。

 「沿岸部の皆さん、至急高台へ避難してください──」


 だが、画面の若者たちは、まるで別世界にいるようだった。


 ***


 【カメラ07:千葉・河川敷】


 三脚を据えた男が、レンズを覗き込んでいる。

 その姿勢は、嵐の前の静けさの中で異様なほど“動かない”。


 「……記録が残らなかったら、また同じことが起きる」


 男は独り言のように呟いた。

 声は震えていない。むしろ落ち着きすぎていた。


 その横で、スーツ姿の会社員が立ち尽くしている。

 「……足が……動かない……」

 彼の声は、壊れた機械のようにかすれていた。


 悠斗はモニターに向かって思わず言った。

 「誰か……声をかけてやれよ……」


 だが、センターからは何もできない。


 ***


 【カメラ12:地方都市・商店街】


 人々が走り出す。

 だが、その手に握られている物は、あまりに“日常的”だった。


 コップ。

 電卓。

 書類の束。

 片方だけのスリッパ。


 「……持つ物を選ぶ余裕すらないってことか」


 佐久間が呟く。

 その声には、恐怖よりも“理解しようとする必死さ”が滲んでいた。


 画面の端で、子どもが転びかける。

 周囲の大人たちは、助けるべきか迷って足を止める。

 その一瞬の迷いが、混乱をさらに広げていく。


 悠斗は拳を握った。

 「……頼む、誰か……」


 ***


 センターの窓の外でも、避難が遅れた人々が動き始めていた。

 現実とモニターの映像が重なり、悠斗の視界が揺れる。


 “観測しているだけでいいのか。

  俺たちは、ただ見ているだけなのか。”


 その時、アラームが鳴り響いた。


 【緊急:湾岸部に第一波の兆候】


 佐久間が振り返る。

 「主任、潮位の変動……予測より速いです。

  これ、第一波じゃなくて……“前触れ”かもしれません」


 悠斗はマイクを握り直した。

 「全チャンネル、最大警告。

  まだ間に合う人がいる。伝え続けるぞ」


 だが、次の瞬間──

 スクリーンの一つが、砂嵐に変わった。


 【カメラ01:信号断】


 佐久間が息を呑む。

 「……主任、これ……」


 悠斗は喉の奥が冷たくなるのを感じた。

 「……予備回線に切り替えろ。まだ終わってない」


 フロア全体が慌ただしく動き始める。


 そして──

 砂嵐だった画面が、ゆっくりと像を結び始めた。


 【カメラ01:再接続】


 映ったのは、

 “さっきまでそこにいたはずの人影が、もういない海岸”だった。


 佐久間が小さく呟く。

 「……間に合わなかったんですね」


 悠斗は息を呑んだ。

 胸の奥で、何かが確実に軋んでいた。


 「……第二波が来る。

  ここからが本番だ。全域に再警告を出せ」


 その声は、静かだが揺らぎがなかった。


 22時46分。

 湘南の海は、夜の闇の中で不自然な光を帯びていた。


 スマホのライトが、若者たちの顔を白く照らす。


 「おい、見ろよ。波、今日だけ別格じゃね?」

 金髪の青年・リョウが、興奮気味に画面へ向かって叫ぶ。


 「コメント伸びてる。ほら、“もっと寄れ”って」

 冷静ぶったメガネのユウトが、視聴者数を確認しながら言う。

 彼の声は妙に落ち着いているが、指先は震えていた。


 「寄るのはいいけどさ……なんか、音が変じゃない?」

 唯一不安を隠せないミナが、海を見つめて眉を寄せる。


 リョウが笑い飛ばす。

 「ビビりすぎ。台風の前なんてこんなもんだろ」


 ユウトがスマホを掲げ、波を映す。

 「視聴者四千。やば。これ、今日一番の数字だぞ」


 ミナは唇を噛んだ。

 「数字の話してる場合じゃ──」


 その瞬間、風が止んだ。


 海が、音を失った。


 「……え、なにこれ」

 ミナの声が、夜に吸い込まれる。


 リョウは笑いを止め、海を見た。

 「……おい、波って……こんな盛り上がり方する?」


 ユウトはスマホを構えたまま呟く。

 「水平線……歪んでる……?」


 海が、ゆっくりと膨らんでいた。

 波ではない。

 “形のある何か”が、海面の下で動いているような膨らみ。


 ミナが後ずさる。

 「ねえ、帰ろう。これ、普通じゃない」


 リョウは虚勢を張るように笑った。

 「大げさだって。ほら、ライト強めて──」


 ユウトが画面を見て青ざめた。

 「コメント……“逃げろ”ばっかりだ」


 《お前ら本気で危ないぞ》

 《波の動きおかしい》

 《走れって!》


 ミナが叫ぶ。

 「ほら! みんな言ってるじゃん!」


 リョウはスマホを奪い取るようにして画面を覗く。

 「……いや、でも……」


 その時、海が“呼吸するように”膨らんだ。


 ライトが海面を照らし、異様な輪郭が浮かび上がる。


 ユウトが震える声で言った。

 「……これ、波じゃない」


 ミナがリョウの腕を掴む。

 「逃げるよ。今すぐ」


 リョウは言葉を失った。

 「……こんなの、聞いてない……」


 海が、崩れた。


 轟音ではなかった。

 むしろ、音が吸い込まれたような静けさ。


 ユウトのスマホが揺れ、画面が水平を失う。

 ライトが乱れ、砂浜の暗闇だけが映る。


 《おい》

 《何が起きてる》

 《カメラ落ちた?》

 《返事しろ》


 コメントが流れ続ける。


 ミナが叫ぶ。

 「走って! お願い!」


 リョウはようやく動き出した。

 「……わかった……わかったから……!」


 だが、次の瞬間──

 映像は途切れた。


 スマホのライトだけが、砂の上で虚しく光っていた。


 22時52分。

 千葉の河川敷は、街灯の光が水面に細い線を描いていた。


 川は、いつもより速く、いつもより重く流れている。

 だが、男──水理学研究者の榊原は、その異常を“恐怖”ではなく“興味”として受け止めていた。


 「……流速が合わない。上流の雨量と計算が一致しない」


 彼は小型の測定器を川に向け、数値を確認する。

 眉間に皺が寄る。


 「水位の上昇……線形じゃない。

  これは……“押されている”?」


 その横で、スーツ姿の会社員が立ち尽くしていた。

 肩が震え、呼吸が浅い。


 「……すみません……足が……動かなくて……」


 榊原は視線だけを向けた。

 「動かないなら、しゃがんで重心を落としたほうがいい。

  風が止んでる。こういう時は、空気が先に動く」


 会社員は首を振る。

 「いや……あの……すみません……頭が……真っ白で……」


 榊原は短く息を吐いた。

 「真っ白でいい。問題は“川が何をしようとしているか”だ」


 会社員は目を丸くした。

 「……川が……何を……?」


 榊原は測定器を見つめたまま答える。

 「水は嘘をつかない。

  だが今は……“説明できない動き”をしている」


 ***


 川の音が変わった。


 低く、重く、腹の底に響くような音。

 風が止み、空気が湿りすぎている。


 会社員が震える声で言う。

 「……川って……こんな音、しますか……?」


 榊原は測定器を握りしめた。

 「しない。

  だから……面白い」


 会社員は絶句した。

 「面白い……?」


 「自然現象が“予測を裏切る瞬間”は、滅多にない。

  だが……これは違う。

  “何かが水を押している”」


 水面が、盛り上がっている。

 街灯の光が歪み、波紋が逆流する。


 会社員は後ずさった。

 「ちょっと……ちょっと待って……これ……」


 榊原は目を細めた。

 「……形がある。

  波じゃない。

  “構造物のような膨らみ”だ」


 会社員が叫ぶ。

 「逃げましょうよ! こんなの……!」


 榊原は初めて測定器から目を離した。

 「逃げるのは簡単だ。

  だが、この現象を見逃したら……一生後悔する」


 「後悔とかじゃなくて! 死にますよ!」


 榊原は静かに言った。

 「死ぬかもしれない。

  だが……“何が起きているのか”を知らずに死ぬほうが、私は嫌だ」


 会社員は言葉を失った。


 ***


 川が“形を変えた”。


 水面が裂けるように盛り上がり、光が乱れ、空気が震える。


 会社員が悲鳴を上げる。

 「無理無理無理無理……!」


 榊原は測定器を向けたまま呟いた。

 「……これは……水じゃない。

  “水に見える何か”だ」


 次の瞬間──

 視界が白く弾けた。


 耳鳴りがし、足元の地面が揺れる。


 会社員が叫んだような気がした。

 だが、音はすぐに風に溶けた。


 榊原は測定器を胸に抱えたまま後ずさる。

 「……まだ……解析できる……まだ……」


 だが、測定器は濡れ、数値は乱れ、ピントは合わない。


 川の音が、さらに低く、重くなる。


 会社員が震える声で言った。

 「……お願いです……逃げましょう……」


 榊原はようやく気づいた。

 “これは観測ではなく、生存の問題だ”と。


 だが、その気づきは遅すぎた。


 空気が、押し寄せる何かに押しつぶされるように重くなる。


 榊原は測定器を抱えたまま、立ち上がろうとした。


 その瞬間──

 視界が、暗転した。


 22時58分。

 地方都市の商店街は、夜なのに妙に明るかった。


 避難を促すアナウンスがスピーカーから流れ続けている。

 だが、その声は人々の足音と叫びにかき消されていた。


 「道ふさがってる! 裏通りに回れ!」

 先頭を走る男が、振り返りもせず叫ぶ。


 「押さないで! 押したら転ぶってば!」

 中年女性がバッグを胸に抱え、必死に体勢を保つ。


 「なんで俺、スリッパ片方なんだよ……」

 若いサラリーマンが、自分の足元を見て呆然と呟く。


 「それ返して! それ私のコップ!」

 別の女性が、プラスチックのコップを奪い返そうと走る。


 「キャップだけ握ってきちゃった……意味わかんない……」

 女子高生が泣きそうな声で言う。


 誰もが、何かを握りしめていた。

 コップ、電卓、書類、スリッパ、キャップ。

 “手ぶらで逃げる”という発想が、恐怖で消えている。


 ***


 商店街の中央で、ひとりの子どもが転んだ。

 ランドセルが片方だけ肩から落ちている。


 「痛い……」


 周囲の大人たちは、一瞬だけ足を止める。

 助けるべきか、逃げるべきか──

 その一瞬の迷いが、混乱をさらに広げる。


 「誰か……」


 子どもの声は、群衆の足音に飲まれた。


 ***


 その時、ひとりの女性が立ち止まった。

 髪を後ろで束ねた、30代くらいの母親だ。


 「大丈夫? 立てる?」


 子どもは涙を拭いながら頷いた。

 女性は手を差し伸べる。


 「ゆっくりでいい。

  走る時は、私の手、絶対離さないで」


 子どもは小さく「うん」と答えた。


 ***


 その瞬間、空気が変わった。


 風が止む。

 湿度が急に上がる。

 遠くで、低い地鳴りが響く。


 「……今の、何?」

 若い女性が空を見上げる。


 「雷じゃねぇな……胸に響く」

 作業着の男が、胸に手を当てる。


 「やだ……やだ……この音、嫌い……」

 少女が耳を塞ぐ。


「音じゃない。空気が……押されてる」

 老人が、震える声で呟いた。


 アーケードの照明が、わずかに揺れた。


 「やばい、やばい、やばい……!」

 誰かが叫ぶと、群衆はさらに速度を上げた。


 押し合い、転び、叫び、泣き、怒鳴り、逃げ惑う。

 “逃げる方向すら分からない”混乱。


 ***


 母親は子どもの手を強く握った。

 「走るよ。絶対に離れないで」


 子どもは頷いたが、足が震えている。


 その時──

 商店街のスピーカーが、ノイズ混じりに叫んだ。


 【緊急警告:第二波の兆候──】


 言葉の途中で、音声が途切れた。


 群衆が一斉に振り返る。


 遠くの空が、わずかに光った。

 雷ではない。

 もっと低く、もっと重く、もっと“嫌な予感”を孕んだ光。


 「何あれ……」

 「光ってる……?」

 「やだ……帰りたい……」


 母親は子どもを抱き寄せた。

 「目、閉じて。いい? 絶対に離れない」


 子どもはぎゅっと目を閉じた。


 商店街全体が、静かになった。


 その静けさは、

 “何かが来る前の静寂”だった。


 23時04分。

 幕張の中央センターは、異様な静けさに包まれていた。


 静か──というより、音が“削られている”。

 空調の低い唸りだけが、広いフロアに漂っている。


 三枝悠斗は、途切れていくカメラ映像を前に、眉間を押さえた。


 【カメラ01:信号断】

 【カメラ07:信号断】

 【カメラ12:不安定】


 赤い警告が、画面の端に並ぶ。


 佐久間が、椅子を蹴るように立ち上がった。

 「主任……予備回線も……波形が崩れてます。

  信号が……どこから切れてるのか……判断できません」


 悠斗は短く息を吐いた。

 「回線だけじゃない。海も乱れてる」


 佐久間は唇を噛む。

 「主任は……怖くないんですか」


 「怖いさ。

  ただ、怖がってる暇がないだけだ」


 その言葉に、佐久間は一瞬だけ目を見開いた。


 ***


 上層部の席から、冷たい声が飛ぶ。

 「三枝主任、現場に出る必要はない。

  観測を続けろ。データが最優先だ」


 悠斗は振り返った。

 「データだけ残して、誰が救われるんですか」


 上層部の男は眉ひとつ動かさない。

 「救助は自治体の仕事だ。我々は観測者だ」


 佐久間が小さく息を呑む。

 「……観測者、ですか」


 悠斗は、胸の奥に重いものが沈んでいくのを感じた。

 “観測者でいることは、傍観者でいることと同じなのか。”


 ***


 その時、センター全体にアラームが鳴り響いた。


 【緊急:湾岸部に第二波の兆候】

 【予測モデル:不安定】

 【潮位:急上昇】


 佐久間が叫ぶ。

 「主任! モデルが……崩れてます!

  計算が……追いつきません!」


 「そんなはずは……」

 悠斗は別のモデルを走らせる。


 だが、どのモデルも同じ結果を返した。


 “第二波の規模が読めない。”


 「……おかしい。

  こんな乱れ方、俺は一度も見たことがない」


 上層部の男が言う。

 「観測を続けろ。現場に出る必要はない」


 悠斗は、モニターに映る幕張の海を見た。


 海が、静かだった。

 風が止み、波が消え、まるで“息を潜めている”。


 佐久間が呟く。

 「主任……海が……止まってます」


 「……前兆だ」


 悠斗は立ち上がった。

 胸の奥で、何かが決壊する音がした。


 「俺は、行く」


 佐久間が目を見開く。

 「主任、規則が──」


 「規則より、人だ」


 その瞬間、ビル全体が低く揺れた。

 照明が一瞬だけ暗くなる。


 アラームが再び鳴り響く。


 【緊急:湾岸部に異常な水位変動】

 【第二波の可能性:極めて高い】


 悠斗はヘッドセットを外し、フロアを駆け出した。


 佐久間が叫ぶ。

 「主任! 僕も行きます!」


 だが悠斗は振り返らなかった。


 観測者ではなく、

 “当事者”として動くために。


 その背中を、センターの薄暗い光が照らしていた。


 23時09分。

 幕張の夜景は、いつもより暗かった。


 中央センターの自動ドアが開き、三枝悠斗は外へ飛び出した。

 湿った空気が肌にまとわりつく。

 風が止んでいる。

 海沿いの街で、風が止む──それ自体が異常だった。


 「主任、待ってください!」


 背後から佐久間の声が追いかけてくる。

 だが悠斗は振り返らない。

 外階段を駆け下り、海側の歩道へ出る。


 眼下の道路には、避難が遅れた人々が集まり始めていた。

 車のクラクション、叫び声、泣き声。

 だが、そのすべてがどこか“遠い”。


 音が、吸い込まれているようだった。


 「……静かすぎる」


 悠斗は呟いた。


 海の方を見る。

 街灯の光が届かない暗闇の中で、海面がわずかに盛り上がっている。

 波ではない。

 “膨らんでいる”のだ。


 佐久間が追いつき、肩で息をしながら言う。

 「主任……あれ、潮位の上昇じゃありません。

  “水が押されてる”動きです」


 悠斗は道路にいる人々を見渡した。


 スマホを掲げて海を撮る者。

 荷物をまとめようとして動けない者。

 何が起きているのか理解できず、ただ立ち尽くす者。


 「……誰も、逃げていない」


 佐久間が震える声で言う。

 「どうすれば……」


 悠斗は深く息を吸った。

 観測者としての冷静さと、ひとりの人間としての焦りが胸の中でぶつかり合う。


 「俺たちが、言うしかない」


 「え……?」


 「ここにいる全員に、逃げろと伝えるんだ」


 佐久間の目が大きく開く。

 「主任、それは……僕らの職務範囲じゃ──」


 「今は肩書きなんてどうでもいい!」


 悠斗の声が夜に響いた。

 その瞬間、道路にいた数人が振り返った。


 悠斗は叫んだ。

 「海から離れろ! 高台へ向かえ! 時間がない!」


 だが、反応は鈍い。


 「本当に?」「大げさじゃね?」「何が起きてんの?」

 そんな声が返ってくる。


 悠斗は歯を食いしばった。

 “言葉が届かない。時間がない。”


 佐久間が叫ぶ。

 「こっちです! ビルの裏に高台があります! 急いで!」


 若者のひとりが佐久間に食ってかかる。

 「本当に来るのかよ! 脅してんじゃねぇだろうな!」


 佐久間は震える声で言った。

 「僕らは観測センターの職員です。

  第二波が来ます。信じてください」


 その言葉に、若者の表情が変わった。

 「……マジかよ……」


 ようやく、数人が動き始める。


 だが──

 道路全体が“震えた”。


 地面が、低く唸るように揺れる。

 空気が、押し寄せる何かに押しつぶされるように重くなる。


 「……なんだ……これ……」

 「地震……?」

 「違う……胸が……苦しい……」

 「空気が……押されてる……」


 誰かが呟いた。


 悠斗は、海の方を見た。


 暗闇の中で、海が“盛り上がっている”。

 街灯の光が歪み、空気が震える。


 「……第二波だ」


 その言葉が、道路全体に広がった。


 若者が叫ぶ。

 「走れ! 本当に来るぞ!」


 商店街の人々が悲鳴を上げる。

 「こっちだ!」「押すな!」「子どもが──!」


 河川敷の榊原は、測定器を抱えたまま呟いた。

 「……水じゃない……“水に見える何か”だ……」

 その声は震えていた。


 足がすくんでいた会社員は、膝をついた。

「……無理だ……もう無理だ……」


 母親は子どもの手を握りしめた。

 「目を閉じて。絶対に離れないで」


 佐久間が叫ぶ。

 「主任! 早く!」


 だが悠斗は、海から目を離せなかった。


 海が、光を反射しながら膨らんでいる。

 その輪郭は、波ではなかった。

 もっと大きく、もっと重く、もっと“静か”だった。


 風が吹いた。

 それは“海から吹く風”ではなかった。

 “押し寄せる何か”が空気を押し出している風だった。


 悠斗は息を呑んだ。


 「……来るぞ」


 道路にいた全員が、海を見た。


 そして──

 海が、崩れた。


 音はなかった。

 ただ、世界が一瞬だけ“止まった”。


 次の瞬間、夜の街に“遅れて”轟音が響いた。


 23時13分。

 湾岸道路は、逃げ遅れた人々で溢れていた。


 車は渋滞で動かず、クラクションが断続的に鳴る。

 だが、その音でさえ、どこか遠くに感じられた。

 空気が重い。

 湿度が異常に高い。

 風が吹かない。


 “海が息を潜めている”ような静けさだった。


 ***


 ◆湘南の若者たち

 リョウは肩で息をしながら叫んだ。

 「やべぇ……あれ、波じゃねぇ……形が……おかしい……!」


 ユウトは壊れたスマホを握りしめ、呆然と呟く。

 「画面……真っ黒……数字も……全部消えた……」


 ミナは二人の腕を引っ張る。

 「数字とかどうでもいい! 走るの! 今はそれだけ!」


 ◆河川敷の榊原

 榊原は泥だらけの姿で道路に出てきた。

 測定器を胸に抱え、息を荒げている。


 「……水じゃない……“水に見える何か”が……押してる……」


 会社員が彼の腕を掴む。

 「もういいでしょう! 生きるほうが先です!」


 榊原は測定器を見つめたまま呟く。

 「……解析が……途中なんだ……」


 ◆商店街の母親と子ども

 母親は子どもの手を握りしめたまま、必死に周囲を見渡す。

 「道が……塞がってる……どうすれば……」


 子どもは震える声で言う。

 「お母さん……こわい……」


 母親は子どもの頭を抱き寄せた。

「大丈夫。絶対に離れないから」


 ◆商店街の人々

 「押すな! 押すなって!」

 「どっちに逃げればいいんだよ!」

 「誰か案内してくれよ!」

 「スリッパ片方しかないんだけど……」

 「そんなのどうでもいいでしょ!」


 恐怖は、叫び声の形で溢れ出していた。


 ***


 その混乱の中へ、三枝悠斗と佐久間が飛び込んだ。


 悠斗は腹の底から声を張り上げた。

 「海から離れろ! 高台へ向かえ! 時間がない!」


 だが、反応は鈍い。


 「本当に?」「大げさじゃね?」「何が起きてんの?」

 そんな声が返ってくる。


 佐久間が叫ぶ。

 「僕らは観測センターの職員です!

  第二波が来ます! 信じてください!」


 その言葉に、若者のひとりが顔色を変えた。

 「……マジかよ……」


 ようやく、数人が動き始める。


 だが──

 道路全体が“震えた”。


 地面が、低く唸るように揺れる。

 空気が、押し寄せる何かに押しつぶされるように重くなる。


 「……なんだ……これ……」

 「地震……?」

 「違う……胸が……苦しい……」

 「空気が……押されてる……」


 誰かが呟いた。


 悠斗は、海の方を見た。


 暗闇の中で、海が“盛り上がっている”。

 街灯の光が歪み、空気が震える。


 「……第二波だ」


 その言葉が、道路全体に広がった。


 若者が叫ぶ。

 「走れ! 本当に来るぞ!」


 商店街の人々が悲鳴を上げる。

 「こっちだ!」「押すな!」「子どもが──!」


 榊原は測定器を抱えたまま呟いた。

 「……形が……変わってる……こんなの……」


 会社員が叫ぶ。

 「もうやめてください! 逃げるんです!」


 母親は子どもを抱きしめた。

 「目を閉じて。絶対に離れないで」


 佐久間が叫ぶ。

 「主任! 早く!」


 だが悠斗は、海から目を離せなかった。


 海が、光を反射しながら膨らんでいる。

 その輪郭は、波ではなかった。

 もっと大きく、もっと重く、もっと“静か”だった。


 風が吹いた。

 それは“海から吹く風”ではなかった。

 “押し寄せる何か”が空気を押し出している風だった。


 悠斗は息を呑んだ。


 「……来るぞ」


 道路にいた全員が、海を見た。


 そして──

 海が、崩れた。


 音はなかった。

 ただ、世界が一瞬だけ“止まった”。


 次の瞬間、夜の街に“遅れて”轟音が響いた。


 23時14分。

 湾岸道路に、時間の“切れ目”のような静寂が落ちた。


 誰もが息を止めた。

 泣き声も、叫びも、クラクションも、すべてが遠のく。


 海が、光を帯びていた。


 街灯の反射ではない。

 “海そのものが発光している”ような、淡い青白い光。


 ミナが震える声で言った。

 「……あれ、海じゃない……」


 リョウは言葉を失い、ただ口を開けたまま固まっている。

 ユウトは壊れたスマホを握りしめ、呟いた。

 「……数値じゃ説明できない……」


 榊原は測定器を胸に抱え、目を細めた。

 「……水の密度が……変わってる……

  こんな現象、理論上……ありえない……」


 会社員は膝をつき、震える声で言う。

 「もう……帰りたい……」


 母親は子どもを抱きしめた。

 「大丈夫。大丈夫だから。

  絶対に離れない」


 子どもは目を閉じ、母親の服を握りしめた。


 佐久間は声を張り上げようとしたが、喉が震えて言葉にならない。

 「しゅ……主任……これ……」


 悠斗は、海を見つめたまま呟いた。

 「……形が……変わってる……」


 海面が、ゆっくりと盛り上がる。

 波ではない。

 “巨大な何か”が、海の下から押し上げているような膨らみ。


 空気が震えた。

 胸の奥に、低い振動が響く。


 「……来るぞ」


 悠斗の声は、誰に向けたものでもなかった。


 ***


 海が、崩れた。


 音はなかった。

 ただ、世界が一瞬だけ“無音”になった。


 次の瞬間──

 遅れて、轟音が街を貫いた。


 空気が押し出され、道路の砂埃が舞い上がる。

 車が揺れ、窓ガラスが震える。


 「走れぇぇぇぇぇぇぇッ!!」


 誰かの叫びが引き金になり、群衆が一斉に動き出した。


 リョウはミナの腕を掴む。

 「行くぞ! 振り返んな!」


 ミナは涙を流しながら走る。

 「怖い……怖いよ……!」


 ユウトはスマホを捨て、息を切らしながら叫ぶ。

 「こっち! 道が開いてる!」


 榊原は測定器を抱えたまま走り出す。

 「データが……飛んでる……何が……何が起きてる……!」


 会社員は足をもつれさせながら必死に前へ進む。

 「助けて……誰か……!」


 母親は子どもを抱きかかえ、叫ぶ。

 「しっかり掴まって! 絶対に離れないで!」


 佐久間は振り返り、海を見た。

 「主任……あれ……!」


 悠斗も振り返る。


 海から押し寄せる“第二波”は、

 波というより、

 “巨大な壁”だった。


 水の壁。

 光を帯びた、形のある水塊。

 その輪郭は、自然のものとは思えないほど滑らかで、巨大で、静かだった。


 「……なんだ……あれは……」


 悠斗の声は震えていた。


 第二波が、街へ向かって迫ってくる。


 空気が押しつぶされ、

 道路の標識が揺れ、

 電線が唸り、

 街灯が軋む。


 誰かが叫んだ。

 「間に合わない! 走れぇぇぇ!!」


 群衆が一斉に悲鳴を上げ、

 湾岸道路は“逃げる音”で満たされた。


 そして──

 第二波が、街に触れた。


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