第11章 人形 前編
沿岸部からほど近い、郊外の一角。
このあたりは海が近い事もあり、街の中心部よりもいくらかは空気が軽く感じる。
晴天の空とまでは言えないが、少なくとも湿った雨が降り続くような気候ではない。
そのためか比較的居住区画が多く、いわゆる高級住宅街といえる地区だ。
その閑静な住宅街の小さな喫茶店に、小綺麗な白のドレスを纏った銀髪の少女と、黒いパーカーを着た黒髪の少女がテラス席で向かい合い、座っていた。
パーカーの背中には、ピンク色の可愛らしいウサギのアイコンが刺繍されている。
ミナに女の子らしい服を着せようと、いかにもな店を連れ回したレイニーだったが、頑なに拒むミナが折衷案として提案したのがこのウサギのパーカーだった。
”女の子らしさ”などというものを意識した事がないミナにとり、これでもかなり拒否反応が出るシロモノであったが、どこかで折れないと延々と連れ回されるだろう事を危惧した結果の譲歩である。
レイニーは不満気であったが、パンツをジャージではなくキュロットパンツにするという追加条件をミナに突き付けて、なんとか納得した様だった。
運ばれてきた紅茶を啜りながら、レイニーは前のめりにミナの顔を覗き込んだ。
「…アナタ、それ本気で言ってるの?」
眉をひそめながら、信じられないといった様子で問う。
「やっぱり、変だよねぇ…」
”能力を使っている自覚なんて無い”と、レイニーに告げたミナ。
自分の身体能力が、他の人間とは少し違うことを何となく感じていたミナだったが、先程のレイニーとの戦いを経て確信に変わりつつあったのだ。
「変、なんてもんじゃないわ。 あんな動きが、普通の人間にできるワケないじゃない。 …音速か、もしかしたらそれ以上だったわよ?」
時折、自分でも驚くほどの速度を出せる事があった。
特に、集中力が高まっている時── 戦闘時などはそれが顕著だった。
『闘争のスイッチ』とイーグルが表現していたが… それが何であるのか、ミナにはわからない。
「…毎日、鍛えてても?」
身体を鍛えることにより、身体能力は向上する。
それは自明の理であるが、ミナのそれは明らかに常識的な範囲に収まるものではなかった。
「身体を鍛えたくらいでアレができるんなら、人間には武器もクルマも必要ないわね。 …アナタ、間違ってもアスリートなんて目指しちゃダメよ? それこそ人類の歴史が変わっちゃうわ」
実際に体感したレイニーの言葉が、厳然たる事実としてミナに突きつけられる。
「うーん… じゃあやっぱりアレが私の『能力』なのか…」
ドールズとしての『異能』。
それがまさか、こんな形で発現しているとは思ってもいなかった彼女は、困惑の表情を見せる。
「自分自身に作用させるタイプの”異能”は、それほど珍しいものでもないわよ。 わたしも、何人かは知ってるわ。 獣化、とかって言ってたわね」
──ビースト。 ケモノ化… 確かに、不思議な感じがある。
自分が自分ではなくなるような、そんな感覚だ。
レイニーは続ける。
「あんまり、ロクなやつは居ませんでしたけど」
目を閉じ、両手でティーカップを支えながら静かに紅茶を一口飲み、カップを置いてミナを見据えた。
「でもアナタのそれは、何かちょっと違う気がするのよねぇ… わたしの知ってる”獣化”では、あの蹴りの説明がつかないわ」
「蹴り? …あんたを吹っ飛ばしたやつ?」
低い姿勢から、レイニーを目掛けて放った、あの蹴り上げの事だ。
「ええ。 わたしはあの時、腕でアナタの蹴りを受けたわ」
そう言いながら、レイニーは自身の細い両腕をテーブルの上に出してみせた。
「でもホラ、これを見て」
透き通るような白い肌。
10代の女子としか思えないそのきめ細かい柔肌は、無垢なキャンバスのようだった。
傷跡どころか、わずかな色の変化も見られない。
「…なんともなってない、わね」
加減しようなどとは微塵も思っていなかった。
ミナにとってそんな余裕があった状況ではなく、打ち込む前はむしろ”殺してしまっても仕方ない”ぐらいの事を考えていた。
ギリギリのところで理性が働き、レイニーを振り向かせるため声をかけたのだ。
「そんな事、ありえると思う? いくらわたしが軽いからって、体が浮くほどの蹴りをこの腕で受けたのよ?」
レイニーは腕をさすりながら続ける。
「それに、あの音。 重たい鉄球でも落としたみたいな音がしたでしょう」
ミナの蹴りが炸裂した時の音は、大質量の物体同士が衝突するような音だった。
人体を蹴った時のそれではない。
「おそらくだけど、当たった瞬間に衝撃を分散させたのよ。わたしの体全体に、エネルギーを散らしたの」
きっぱりと言い切るレイニーに、ミナは目を丸くする。
「それを、私が自分でやったっての?」
ミナにそんな事をやった覚えはなかった。
そもそも能力を行使している自覚すらなかったのだから、当然の話だ。
「そうよ。 つまりアナタの能力は、自分自身と触れたモノに作用させられるんだわ」
自分と、自分が触れたモノ。
電気や電流のようなものなのだろうか、とミナは思った。
「無意識に”相手を傷付けたくない”という気持ちが働いて、ああなったのよ。 アナタの性格と合わせて考えると、それで説明がつくわ」
レイニーは自信ありげに持論を話し終えると、紅茶に浮かぶレモンの欠片をスプーンで押し沈め、静かに混ぜる。
ミナは首を傾げながらも、その時の事を思い出すように答える。
「そんな器用な事、考えたこともないんだけどなぁ… けっこう必死だったんだよ?」
やらなければやられる状況だった上に、ミナは事実として追撃の構えも見せていた。
しかし、レイニーはなおもきっぱりと言い切る。
「そこなのよ、問題は」
「自分の意思で手加減したのならいいんだけど、無意識ってのがマズイのよ」
「もしアナタが、本当に倒さなければならない相手と戦ったとして… そんな事やってたら、命がいくつあっても足りやしないわ」
言い終わって、レイニーは紅茶を口にする。
ミナがほとんど紅茶を飲んでいないことが、少し気になっていた。
ミナは物憂げに目を伏せ、呟く。
「倒さなければならない相手…か」
レイニーの目が、わずかに鋭くなる。
それまでのどこか砕けたような雰囲気から少し変わり、ドールズとしての顔を覗かせていた。
「それについて、アナタに聞きたい事があるわ」
空気の変化を感じ取ったミナは、わずかに身構えた。
レイニーは話を続ける。
「アナタ、戦い慣れているわよね? …それも、ドールズとの戦いに」
「……」
沈黙。
ミナは、どう答えるべきか悩んでいるようだった。
「わたしたち、ファーストは元々が戦闘用なのだから何も感じないけれど… アナタたちサードは── いえ、アナタは何を目的として造られたの?」
「わたしたちは、カラサワ博士とは別の個人によって造られた。大国を制圧するためにね。 今は、その意思を継いだ、と言ってるドールズと共に行動していたわ」
ドールズの№1、シルバーハンドと呼ばれる人物だ。
「”目覚めてしまった”アルファを回収し、制御するのが当面の目的よ」
「でもイーグルが言っていたように、わたしたちは”個の戦力”。 それぞれが強い力を持つ存在よ。…親の居ない今、野心を抱くヤツもいるわ」
ミナは、目を伏せたまま黙って聞いている。
「だから、ファースト同士はお互いに牽制しあっているフシがあるの。 事を起こせば、どちらも無傷では済まないから」
「ちょうど、今の大国と同じようにね。 …皮肉なもんだわ」
ため息混じりに紅茶をひとくち飲み、続ける。
「でも、アナタがドールズと戦う理由が今一つわからないのよ。 アナタたちサードは、カラサワ博士が造ったんでしょう?」
「ファーストとセカンドは、基本的には同じ目的で行動しているはずよ。 …サードの目的だけが、わたしたちは知らないのよ」
レイニーはテーブルの上に体を乗り出し、ミナに顔を近づけて続ける。
「それに、アナタ… わたしの能力を、見抜いていたわよね? 何が出来て、何が出来ないのかまで、かなり正確に。 でないと、あんな大胆なマネができるはずないわ」
体を戻して座りなおすと、少し声のトーンを下げた。
「わたしの能力を理解して対処するには、それなりに知見が必要なはずよ。 物理学、量子力学… アナタは、”人間工学”も修めているのかしら?」
「……!」
ミナがはっとして、レイニーの目を見た。
「図星のようね。 カラサワ博士の専攻だった、人間工学── 転じて、ヒトゲノム解析と… その編集理論の、学術分野」
レイニーは声をひそめる。
「…アナタはいったい、何者なの?」
少しの沈黙の後、ミナは口を開いた。
「わたしは、カラサワ博士の… 先生の助手だったの」
レイニーに驚いた様子はない。彼女にはある程度、あたりがついていた。
「物心ついた時から、わたしは先生のもとに居たわ。 そこで、ドール研究のすべてを教わった。 他のサードたちは、施設へ預けられていると… その時は、そう聞いていたわ」
少し歯切れの悪い言い方であったが、レイニーは黙って聞いている。
「なぜわたしが選ばれたのかはわからないけど、先生と共に居たドールズはわたしだけだった」
「そして5年前、封印していたはずのアルファが動き始めた、と聞いたの。 先生の意思じゃない。他の誰かの手によって目覚めさせられたんだ、と」
他の、誰か── おそらくは『自分の親』だろう、とレイニーは思っていた。
「そして彼は、息子を目覚めさせる、といって自分の死を偽装した。 それが何のためだったのか、わたしにはわからないわ」
「”アルファと共に、正しい道を”。それが先生の残した言葉。今も、彼がどこにいるのか不明のままよ」
同じ時期に、消息を絶った『親』。
リョウの覚醒と、アルファの目覚め。
そして、シルバーハンドの”指令”。
全てが同じ、5年前だ。 偶然であるはずがなかった。
しかし、アルファに対する視点だけが、どこかピントが合わない。
「”アルファと共に”…? そこがわからないわ。 アレは自我すら持たない、失敗作だったのよ?」
件のシルバーハンドから、そう聞いていた。
アルファは我々が制御しなければならないものだ、と。
「…逆よ。その、自我を持たないドールズこそが、先生の目指した目標なの」
レイニーは目を丸くする。
「…なんですって? どういうことなの、それは…」
ミナはわずかに間を置き、意を決したようにレイニーの目を見つめ、話し始めた。
「先生は、今の人類に異能を付与するだけでは、意味がない事を理解していた。 本当に世界平和を実現するのなら、異能を持つ、人類以上の生命体が必要だという結論に至ったの」
ドールズとして育てられたレイニーは、幼いころから訓練とともにドール計画の骨子や概要なども教えられていた。
本来の計画段階で生まれた存在ではなかったが、自身の出自を理解させるために、彼らの『親』が基礎教養として全てのドールズに施していた教育だった。
しかし、こんな話は聞いたことがなかった。
ミナが話しているのは、いったいどの時点での話なのか。
レイニーは逡巡したが、答えは出なかった。
「そして、自我を持たない── 欲望や煩悩を持たない、無垢な存在を造った」
「心を持たない、異能の器。 それがアルファよ。 その存在を頂点とした生態系のヒエラルキーを構築することで、初めて人類は平等に生きていける」
ヒエラルキーとはピラミッド型の階層構造であり、この場合のそれは人類の階級区別や序列を意味する。
アルファを唯一無二の頂点として、現生人類はその庇護と管理のもと、安寧に暮らしてゆく、というものだった。
これは、まさに──
「…神を、造ろうとした、というワケね?」
「そういうことになるわね。 つまり、先生からしてみれば、自我を持ってしまった私たちの方が… むしろ、失敗作なの」
「……」
何か言いたげなレイニーだったが、言葉は出ない。
「先生が残した言葉は、もうひとつあるの。『心を持ったドールズは、いつか必ず互いを傷付け合う。そうなる前に、眠らせてやって欲しい』と」
「私が戦っていたのは、私の兄弟── サードのドールズたちよ。 力と心が暴走した彼らを、私はこの手で、眠らせたの」
誰も傷付けたくないと言っていたミナ。
それは単なる綺麗事でも決意でもなく、すでに傷付けていたからこその、自分への戒めだった。
敵を排除すること、相手を殺すことに対してレイニーは特別な感情を持たない。
だがミナは、彼女は違う。
レイニーは、なるべく端的に聞いた。
「……殺したの?」
その言葉にミナは目を伏せ、絞り出すように答える。
「それは、どうしても出来なかった… だから文字通り眠らせたのよ。先生の残した施設に、人工冬眠させてね。 いつか全てが終わったら、起こすつもりよ。出来るかどうかも、わからないけど」
彼女の手がまだ汚れていないことに、かすかにレイニーは安堵する。
この時初めてレイニーは、ミナが言った”呪い”の意味を理解した。
「じゃあ、アナタはわたしたちファーストやセカンドも、眠らせるつもりでいたのね?」
レイニーが問う。
その”呪い”を、ひとりで全て背負うつもりなのか、と。
「…そうよ。 私は、それが自分の使命だと思ってたから」
ミナははっきりと、自分に言い聞かせるように言い切った。
レイニーは椅子の背もたれに深く背中を預け、腕を組み目を閉じている。
何かを思案している様子だ。
ミナは冷めた紅茶をひとくち飲むと、深呼吸をしてからふたたび話し始める。
「先生が居なくなってから、私はアルファを探して、リョウに… 先生の息子に、辿り着いた」
「自我が無いと言われていたけど、生物学的には普通の人間と同じ。 5年も経っていたから、彼自身がアルファかもしれないと思って接触したの」
からっぽの、異能の器。
覇気なく、街の色に溶け込むように生きるリョウを見て、カラサワ博士の話を重ね合わせていた。
彼は、博士の息子。アルファと彼は、同一の存在なのか。
この時のミナにはわからないことだった。
「結果的には違ったけど、でも彼が全ての始祖であることはおそらく間違いないわ」
「だから私は、彼と── リョウと共に行くの」
決意と、背負った責任を感じさせるミナの目。
揺るぎなく力強い信念のまなざしだが、レイニーにはそれがとても危ういものに見えた。
わずかな歪みで砕け散ってしまうような、繊細なガラス細工の美しさと儚さを湛える、そんな目に。
「そう…だったのね。 アナタが異様に強いワケが、少し理解できたわ」
レイニーは両手を頭の後ろで組み、わざとらしく明るい口調で声を張る。
「わたしが失敗作ってのが、ちょーっと気に入らないけど、まぁ博士的にはそうなるわよねぇ」
テーブルの上に頬杖を付き、鼻息をふんと鳴らして話を続ける。
「どちらにしろ、アルファを見つけないことには話が進まなさそうね。そこに関しては協力するわよ」
片手でカップを持ち上げ、残った紅茶を飲み干すと、雑にカップを置いた。
「どーせウチのシルバーハンドも、狙いは同じアルファだし。 一回、アナタも会って──」
レイニーはそこまで言って、言葉を止めた。
「…いや、ダメね。会わせらんないわ、やっぱり」
ミナはきょとんとしていたが、レイニーに合わせ、少し声のトーンを上げて話す。
「どうして? いくら私でも、いきなり嚙みついたりなんてしないわよ?」
──シルバーハンド。 以前、話に出てきていたドールズの№1の事か。
私も名前すら聞いたことが無い。正規品としての、一人目のドールズ…
ミナは以前も感じていたが、どうやらレイニーたちはあまりその人物の事を良く思っていないようだった。
「どうしてもよ。 いけ好かない、ていうのかしら… とにかく、イヤなヤツなの」
話したくもない、というような素振りだった。
「ふーん… そんなにイヤなヤツなら、なんであんたが命令なんて聞いてるの?」
言い終わると、唐突に真後ろから男の声。
「逆らえないのだ。我々は特にな」
「ぉわっ!?」
ミナは持っていたカップを取り落としそうになり、あわてて両手でしっかりと持ち直す。
振り向くと、金髪のドレッドヘアーに黒いコートの大男が立っていた。
「…あんた、毎度毎度いきなり出てくるのヤメてくれない? それでなくてもイカつい見た目してんのに」
ミナはその大男、イーグルを睨みつけながら苦言を呈する。
その後ろに、リョウがひょっこりと顔を出した。
「心配して来てみれば、ふたり仲良く女子会とはね… まぁなんにせよ、無事でよかったよ」
「リョウ…」
ミナが、わずかに笑顔をみせる。
レイニーは若干バツが悪そうにしながらも、開き直ってイーグルに言葉を向けた。
「あら… やっぱりイーグル、見てたのね? ほんっと、好きねぇ」
腕を組み、イーグルは相変わらず抑揚のない声で答える。
「好き嫌いではない。俺の能力だ。 …また勝手な行動をしたな、レイニー」
レイニーは目を細め、わざとらしく唇を尖らせて反論してみせた。
「もう、無粋ねぇ。 いいじゃない、『雨降って地固まる』ってやつよ。大目に見なさいな」
ミナが、いたずらっぽく笑いながらレイニーの言葉に便乗する。
「…”雨”だけにってね?」
ふたりの少女は顔を見合わせ、笑った。
「イイこというじゃない、ミナ!」
ハイタッチをして、子供のように楽しそうに笑っている。
リョウは呆れたように目を細め、イーグルに視線を向けた。
「…なぁ、こんなにいきなり仲良くなれるもんなの? 女って」
イーグルは鼻で大きくため息をつくと、ゆっくりとかぶりを振った。
「わからん。まったくもってわからん。 …特に、こいつは」
立ち尽くす男ふたりに、レイニーが座るように促す。
リョウがどっかりと座ると、イーグルは渋々といった様子で席に着いた。
店員を呼び止めたリョウが、ふたりぶんの飲み物を注文する。
夕暮れ前の、喫茶店のテラス席。
穏やかな空気が流れる、普通の市民にとっては、ごく平凡な風景だった。
運命の環の中に居る、4人。
環の中心には何が、誰が居るのだろうか。
閉店の時間が迫るように、いつまでもこの穏やかさが続くものでは無いことは、ここにいる全員が理解していた。